29話 事情聴取:宇崎礼一(後編)
宮永晴は、とうの昔に壊れていた――
宇崎礼一の口からこぼれたその言葉に、森田は絶句した。
逆に新藤は、黙って続きを待った。驚いてはいない。
取調室で晴の供述を聞きながら、ずっとそんな予感があった。
ただ言葉として聞かされると、やはり重い。
「完全に壊れていた……というと?」
「晴くんは、自分が精神疾患を抱えているという自覚がありませんでした。彼の中でガクトという少年は、実在の友人だったんです」
「解離障害って、多重人格とかのあれですか」
森田が恐る恐る口を挟む。
宇崎は首を横に振った。
「厳密にいうと、もう少し複雑です。イマジナリーフレンドと解離性同一障害は、本来別のものとして区分されています。子どもが想像上の友人を持つこと自体は珍しくない。多くの場合、成長とともに自然に消えていく」
「でも宮永晴の場合は、消えなかった」
「ええ。しかも彼はガクトを空想だとは理解していなかった。会話し、食事の席に座らせ、学校にも一緒に通っていると信じていた。人格が入れ替わるわけではない。どちらかというと、幻覚・幻聴が見え続けているような状態です」
宇崎の声は医師の説明らしく整っていたが、どこか他人事めいていた。
「ガクトが現れ始めたのは、両親が離婚し母親が家を出ていった頃です。宮永の暴力が妻から晴くんへ移った時期でもある。幼い晴くんにとって、現実はあまりにも過酷だった。だから耐えるための逃げ場を作ったのでしょう」
「逃げ場……」
新藤の脳裏に、晴の供述がよみがえる。
ガクトはいつも明るかった。少し太めで、よく食べて、くだらないことで笑っていた。
何より、母親の手作り弁当を自慢する子どもだった。
「母親に愛される、何も怖がらない子ども」
新藤がぽつりとこぼすと、宇崎もまた伏し目がちになった。
「……おそらく、そういう存在だったのでしょう。晴くん自身が、本当に欲しかったものを全部集めたような友人だった」
「そんなの、めちゃくちゃ切ないじゃないですか」
森田が涙をこらえるように眉を歪める。新藤は何も言わなかった。
父親に殴られる少年が、自分の隣に明るい友人を作る。
母親に捨てられた子どもが、母親から愛されている友人を作る。
それは病名をつければ説明できるものかもしれない。だが説明できたとしても、それで晴の心が救われるわけじゃないのだ。
「ではなぜ今になって、ガクトを思い出せなくなったんでしょうか」
森田が素直な疑問を口にすると、宇崎は少し黙った。
「断定はできません。ただ宮永秀樹が亡くなったことが大きいはずです。ガクトは晴くんが父親の支配に耐えるために作り出した逃げ場でした。けれど宮永秀樹はもういない。つまりガクトは、役目を終えたのかもしれません」
「それは治ったってことですか」
「違います。逃げ場が消えただけです。むしろ支えがなくなった分、不安定になる可能性もある」
支えがなくなった。
その言葉が、新藤の胸に突き刺さる。
宇崎は知らない。
晴が津波に飲まれる父親の手を取れなかったことを。
自分が父を殺したのだと今も思い込んでいることを。
父の支配は終わった。しかし晴は別の鎖に繋がれたままだ。
「もういいですか。知っていることは全部話しましたよ」
宇崎が腰を浮かせかける。今すぐここから逃げ出したいという魂胆が、全身から透けて見えた。
だがもちろん新藤は逃がさない。
「いいや、まだだ。あなた、宮永晴に頭痛の鎮痛剤を処方していましたね」
「……」
「しかしただの鎮痛剤であるはずがない」
宇崎は青ざめ、口ごもった。
「何を処方していたんです」
「……」
「まあ、いいですよ。今黙ってても、薬局の処方箋をたどれば済む話ですから」
「わかった、わかったから!」
宇崎は慌てて両手を突き出し、観念したような様子で続きを語りだした。
「晴くんに処方していたのは、抗うつ剤の一種です」
「抗うつ剤?」
「……宮永に頼まれたんです。晴くんに精神科への受診歴をつけたくない、と。議員の息子が精神疾患では困る。だから薬だけ出して、本当の病名も薬の中身も、晴くん本人には伝えるなと」
新藤の目が、すっと細くなる。
「その薬は飲み続けると、不安や恐怖が和らぐ一方で、感情の起伏が平坦になる。いわゆる感情鈍麻という状態です。晴くんが激しく取り乱したり、外で異常な行動をして目立ったりしないように、宮永は薬で晴くんの感情の波をコントロールしていた」
「つまり息子を『お人形』にするのに、都合のいい薬だった」
「……」
「そしてあなたは彼を治療することもせず、父親の隠ぺいに加担した」
「……」
宇崎は固く口をつぐむ。
自分が何をしたのかは自覚があるのだろう。
「だが問題はそこからだ。抗うつ薬の影響は、宮永晴だけでなく空野ことりにまで及んでしまった」
「空野ことりに? どういうことですか」
「彼女は未来予知の代償として、たびたび重い頭痛を起こしていた。片頭痛持ちの宮永晴は、良かれと思って自分の薬を分け与えた。鎮痛剤だと信じたまま」
宇崎の顔色が、さらに悪くなる。
晴以外が服用することなど、想定していなかったらしい。
「新藤さん、これ」
さらに気を利かせた森田が、スマホで早速宇崎が処方した抗うつ剤のことを調べた。
新藤はそこに書かれた文字を目で追う。
「……なるほど。副作用として、不安、焦燥、不眠、パニック発作。賦活症候群……というやつか」
さらに読み進めた新藤の指が、画面の上で止まる。
『稀に脳が過剰に興奮する』
もしその副作用が、空野ことりの予知能力にまで影響していたとしたら。
見たくもない未来が、より鮮明に、より頻繁に、彼女の中へ流れ込んでいたのだとしたら……。
「そっか。空野ことりは宮永晴と暮らし始めてから、予知の頻度が明らかに増えていったんですよね?」
そこまで考えて、新藤の推理を今度は森田が引き継ぐ。
「つまり予知が暴走した、そもそもの原因って……」
「……薬の副作用が引き金を引いた可能性が高いな。断言はできないが、線はつながった」
新藤は森田と視線を合わせ、深くうなずく。
晴はただ、頭痛に苦しむことりを心配して薬を渡した。
自分が鎮痛剤だと信じて疑わなかったその薬が、彼女をさらに深い地獄へ突き落とす毒になるとは知らずに。
父が息子を壊すために使った薬が、息子を経由して、少女を救世主という名の檻へ閉じ込めていったのだ。
「何があったか知らないが、私のせいじゃない!」
新藤達の話を聞くうちに恐ろしくなったのか、宇崎が声を荒げ、頭を抱えた。
新藤も森田も、そろって冷えた視線を送る。
もしもこの男が医者として宮永晴を本気で救おうとしていれば、星追岬の夜は、違う結末を迎えていたかもしれない。
だが逆説的にいえば、ことりの能力が暴走したからこそ、大震災は予知され大勢の人が救われたのだともいえる。
健太の笑顔を思い返す新藤の胸中は、複雑だった。
「先生。続きは署で聞きます」
宇崎は青ざめた。ガタンと椅子を引いて立ち上がり、三歩ほど大きく後ずさる。
「私はここの医療支援が――」
「別の医師に引き継いでもらいます」
新藤はそれだけ言って、宇崎の逃げ道をふさいだ。白衣を着た善良な町医者の仮面は、もうどこにもない。
父親が少年を壊した。
医者がそれを隠した。
薬が少女を追い詰めた。
そして世間が彼女を救世主にした。
だがまだだ。
何かがまだ腑に落ちない。
晴の自供も、宇崎の証言も、薬の流れも、一本の線にはなった。
だが肝心なところだけが、まだ暗闇の中に沈んでいる。
新藤はそんな気がしてならなかった。
◇◆◇
同時刻。
暗い留置場の中で、晴はひとり膝を抱えていた。
取り調べが全て終わり、後は断罪されるのを待つだけだ。
でもふとその時、聞き慣れた声が聞こえた気がした。
『おーい、晴。そんなとこで何やってんだよー?』
少しおどけた、明るい声。
だが目を凝らしても鉄格子の向こうには誰もいない。
薄暗い廊下が、延々と続いているだけだ。
晴は再びうつむき、そっと目を閉じた。
今は心も体も、芯まで冷え切っていた。




