28話 事情聴取:宇崎礼一(前編)
宮永晴の取り調べは、いったん打ち切られた。
ガクト。
最後に出たその名前を、新藤はさらに追及したかった。
だが今日許されている取り調べの制限時間は、もうぎりぎりまで使い切っている。
晴自身の様子も限界に近かった。あの状態で無理に問い詰めても、まともな供述は引き出せない。
新藤は捜査一課に戻るなり、机の上に置いてあった上着をひっつかんだ。そのまま部屋を出ようとしたところで、奥から課長の怒鳴り声が飛んできた。
「おい、新藤! 取り調べ終わったんだろ、報告は!?」
「まだ事件は終わってません。裏取ってきます!」
「おい、署長がそろそろ記者会見開きたいってごねてんだよぉ!」
「適当に伸ばしといてください」
「お前なぁ!」
背後の声を無視して、新藤は足を速める。森田も慌てて後を追った。
署の玄関を抜けると、外はまだ騒然としていた。
規制線の向こうに、報道陣のライトが並んでいる。
カメラを肩に担いだテレビ局のスタッフ。
スマホを掲げる野次馬。
配信用の機材を抱えたNetTuberらしき連中まで混じっていた。
それらを横目に、車へと向かう。森田が運転席に乗り込み、エンジンをかける。
新藤は助手席で煙草をくわえかけ――すぐに思い直して胸ポケットへ戻した。
「森田。青南高校の名簿」
「はい」
森田は手際よくタブレットを差し出す。
「さっき学校側から提供してもらいました。二年生だけでなく、念のため全学年確認できるようにしてあります」
「気が利くじゃねぇか」
「まあ、今回ばかりはさすがに気になりますし」
青南高校在籍生徒一覧。
一年、二年、三年。クラスごとに並べられた氏名を、上から順に確認していく。
松木陽葵の名前はある。
川成明日香の名前もある。
宮永晴も、当然ある。
だが。
「……やはり二年にガクトという名の生徒はいないな」
「全学年でも該当なしです」
「苗字は」
「宮永晴の供述には一度も出てきません。ガクト、だけです」
森田が車を発進させる。
署の前に集まった人々の声が、窓越しに遠ざかっていった。
「よく考えたら、おかしいですよね。小学校からの幼馴染なのに、苗字が一回も出てこない。家族の話も母親の弁当の話ばっかりで、具体的な住所も学校記録もない」
「ああ」
「宮永晴自身も、最後には『そんな奴いたっけ』って……」
森田はそこで言葉を濁した。取調室での晴の様子を思い出したのだろう。
あれは嘘をついている顔ではなかった。
本気で混乱していた。
自分の中にあるはずの記憶が、目の前で崩れていくことに怯えていた。
「これからどうしますか」
「念のために聞くが、宮永の母親は」
「連絡はつきました。でも……」
森田の口調が、少しだけ重くなる。
「すでに再婚していて……関わりたくないそうです」
「……そうか」
「電話口ではかなり動揺してました。でも今の家庭があるから、そっとしておいてほしいと」
新藤は窓の外へ視線を向けた。
震災から一か月。
瓦礫の撤去が進んだ通りもあれば、いまだに信号が消えたままの交差点もある。
ブルーシートのかかった家。壁にひびが入ったビル。仮設の案内板。
世界はまだ、傷ついたままだ。
そして宮永晴もまた、誰からも救われないままここまで来た。
父に虐げられ、母に見捨てられ、ようやく見つけた愛しい少女も失った。
しかも今や、日本中を騒がせる大事件の犯人だ。
母親が関わりたくないと言うのも、世間的には仕方ないのかもしれない。
だが仕方ない、で片づけるには、あの少年はあまりに孤独すぎた。
「じゃあ、まずは桜松丘だ」
「宮永茉莉ですね。了解です」
森田がナビを操作する。
車は夕暮れの街を抜け、避難先として使われている地域へ向かった。
新藤は流れる景色を見ながら、ほんの少しネクタイを緩める。
今思い返してみても、新藤の中で何かが引っ掛かる。
宮永晴の自供は、筋が通っていた。
いや、筋が通りすぎていた。
家出少女との出会い。共同生活。未来予知。救世主化。そして追い詰められた恋人の懇願。
彼女を救うために、あえて自らの手を汚した。
そうまとめればひどく悲劇的で、どこか美しい話にさえ聞こえる。
だが新藤が追うべきものは、感動的な物語ではない。
事実だ。
空野ことりは本当に死んだのか。
そしてガクトとは一体何者なのか。
いまだ明らかになっていない謎にこそ、きっとこの事件の歪みがある。
◇◆◇
宮永茉莉の避難先になっている別邸は、灯りが落ちていた。
古い洋館風の洒落た建物だ。震災で宮永家の本宅が使えなくなった後、茉莉が身を寄せていると聞いていた。
新藤は門の外から中を覗き込むが人気はない。呼び鈴を押しても反応はなかった。
「留守ですかね」
「逃げたか?」
「どうでしょう。宮永茉莉については、今のところ所在不明というほどではありません。避難所の手伝いや物資受け取りにも出ているみたいですし」
「なら後回しだ」
新藤は腕時計を見る。時間は無駄にできない。
「次。宇崎医院の医者だ」
「宇崎礼一ですね。今は避難所で医療支援をしているそうです」
◇◆◇
避難所として使われている小学校の体育館には、まだ多くの人が身を寄せていた。
夕食の配給を待つ列の横で、白衣姿の男が高齢の女性に声をかけている。
「血圧は昨日より落ち着いていますね。薬は忘れずに飲んでください」
「いつもすみませんねえ、先生」
「いえいえ。眠れない時は無理せず言ってください」
穏やかな笑顔。柔らかい物腰。避難民たちは、宇崎礼一を頼りにしているようだった。
なるほど。表面だけ見れば、地域に尽くす善良な医師にしか見えない。
宇崎がこちらに気づく。白衣の胸元には、簡素な名札がついていた。
「私に何か御用でしょうか?」
「星追署の新藤です。こちらは森田」
警察手帳を見せると、宇崎は少しだけ目を丸くする。
「ちょっとお話、いいですか」
「ええ。私でよければ。ええと、何か事件ですか?」
宇崎は周囲の避難民へ軽く会釈し、「少し外しますね」と告げた。
その仕草にも、全く無駄がなかった。
事情聴取は、校舎内の保健室で行うことになった。
体育館よりは静かだが、廊下の向こうからは避難民のざわめきが薄く聞こえてくる。
保健室のベッドは一部が物資置き場になっており、棚には包帯や消毒液、薬の箱が並んでいた。
宇崎は丸椅子に腰を下ろす。新藤は向かいに立ったまま、率直に切り出した。
「宮永晴についてお聞きします」
「晴くん? 彼がどうかしましたか」
「現在、殺人容疑で取り調べを受けています」
「……え?」
「空野ことり殺害の件です。本人が自首してきた」
「え、晴くんが……殺人?」
宇崎の顔に、緊張が走る。
その驚きは、見たところ本物だった。
「そんな……まさか。あの晴くんが」
「空野ことりと面識は?」
「ありません。名前はもちろん知っています。日本中が知っていますから。ただ直接会ったことはありません。一度、晴くんが行方不明者の捜索を手伝ってくれたことはありましたが、まさかそんな……」
宇崎はハンカチを取り出し、額の汗をぬぐった。
新藤はその一挙一投足を見逃さないよう、目を細める。
「あなたは宮永家のかかりつけ医だったそうですね」
「え、ええ」
「宮永秀樹さんとは同級生だったとか」
「……はい。もっとも彼は今、行方不明だと聞いています。残念です」
「では宮永議員が、長年息子の宮永晴を虐待していた事実はご存じですか?」
「!」
宇崎の肩が、目に見えてびくりと跳ねた。
新藤は一歩、距離を詰める。
「どうなんです」
「さ、さあ……」
宇崎はわざとらしく視線を逸らした。
「かかりつけ医といっても、私はたまに晴くんの片頭痛を診るくらいで……家庭内のことまでは、とても」
「宇崎先生」
新藤の目が、そこでぎらりと光る。
「あなた、警察の目をごまかせると思ってますか」
「な、何を……」
「宮永晴の身体には、古い痣と新しい痣が山ほどあった。時期も場所もばらばらだ。素人が見ても継続的な暴行の跡だとわかる」
「……」
「医者のあなたが、それに気づかなかった?」
「ですから、私は本当に……」
言い終わる前に、新藤は宇崎の白衣の襟元を掴んで、無理やり立たせていた。
「ぅ、ぐ……っ!」
「ちょ、新藤さん!」
森田が慌てて割って入る。
刑事の暴力沙汰など、下手をすればこちらが訴えられる。
だが新藤は手を離さなかった。
「おい。こっちは一人のガキが実の親に壊されていくのを、目の前で聞かされて、ムカついてんだよ」
「し、新藤さん、落ち着いてください!」
「宇崎先生。あなた、宮永議員の協力で市が管理している土地を格安で借りられたそうですね。そこに新しい医院を移転するつもりだった」
「そ、それは……」
「ずいぶん便宜を図ってもらったようですね。市議会議員様のご厚意で」
「でも津波で全部流されましたよ!」
宇崎はむきになって、新藤の手を振り払った。
穏やかな医師の仮面が、そこで初めて剥がれる。
「もう少しで完成するところだったのに、全部台無しです! 私に残ったのは膨大な借金だけだ!」
穏やかだった宇崎の変わり様に、森田が息を呑む。
「宮永の奴も肝心な時に死ぬなんて……。勘弁してください。私は地震の被害者なんですよ!」
「なるほど。宮永議員とは、ずいぶん親しかったようですね」
「……」
「それだけ癒着していたあなたが、宮永晴への虐待に気づいていないなんてありえない」
「ですから私は……!」
「叩けばいくらでも埃が出てくるでしょうね」
「っ!」
新藤のわかりやすい脅しに、宇崎は思わず口ごもった。
先ほどよりも額の汗が増えている。
わなわなと唇は震え、近くのベッドにしりもちをつき、眼鏡も少しずれてしまった。
やがて諦めたように、小さく俯く。
「……わかりました、すべて正直にお話しします」
それはもう、自分の罪を自白したも同然だった。
完全に主導権を握った新藤は、さらに尋問を続ける。
「いつから虐待に気づいていましたか」
「七年前くらいです。晴くんが怪我をした時や病気にかかった時は、必ずうちに来ました。宮永は……あいつは、虐待の発覚を何より恐れていましたから」
「そしてあなたは、それを隠した」
「……」
「見返りとして金を受け取った?」
宇崎は答えない。
それが答えだった。
「仕方なかったんです。相手は宮永秀樹ですよ。地元の名士で、市議会議員で、将来は国政にも出ると言われていた男だ。逆らえるわけがない」
もっともらしい言い訳を並べてはいるが、この男はまごうことなき宮永秀樹の共犯者だ。
宮永晴の苦しみを知りながら、見て見ぬふりをした。
医者としての誇りも義務も、自分の欲と保身のために捨てた。
――許せるはずがない。
だがここで怒りをぶつけても意味はない。
新藤が今知るべきなのは、別のことだった。
「宇崎先生。ガクト、という名に聞き覚えはありますか」
宇崎の指がぴくりと動いた。
「宮永晴の小学校からの友人だそうです。ですが彼は、その少年との思い出を語りながら、最後にはこう言いました。『そもそもそんな奴、いましたっけ?』と」
「……」
「こちらで調べたところ、青南高校にガクトという名の生徒はいません。全学年にも該当なし。いないのに彼は当初、その謎の少年を幼馴染だと供述していた」
森田は手帳を構えたまま、宇崎を見ていた。
保健室の空気が、また一段重くなる。
宇崎はしばらく何も言わなかった。
ただ床を見つめ、指先を組み、何度か唇を開きかけては閉じる。
そしてようやく、観念したように息を吐いた。
「……そうでしょうね。その子は、いません」
「いない?」
「実際、ガクトという少年はこの世に存在しないんです」
「え……?」
思わず森田がメモを取る手を止めた。
一方で新藤は微動だにしない。予想していた答えが、ようやく言葉になっただけだった。
宇崎は青ざめた顔のまま、ぽつりぽつりと語り始める。
「ガクトというのは、晴くんが自分の妄想の中で作り上げたイマジナリーフレンドです」
「イマジナリー……」
「空想上の友人、ということです。父親からの虐待により、彼は重い解離障害を患っていました」
廊下の向こうでは、相変わらず避難民たちの生活音が続いていた。
慌ただしい日常の中で、宇崎礼一の声だけがひどく冷たく響く。
「宮永晴くんはもうずっと前から、完全に壊れていたんです」




