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27話 少年が彼女を殺した理由



「お願い。わたしを――殺して」


 ことりの口からこぼれたその言葉を、晴はすぐには理解できなかった。

 夜の海から吹き上げる風が、二人の間を裂くように通り抜けていく。

 潮の匂いがした。足元の草が揺れ、崖の下では黒い波がうねっている。


 けれど晴の耳には、もう何も届いていなかった。

 頭の中が真っ白になる。

 やめろ。

 そんなことを言うな。

 出会った日に感じた『死』という概念が、足元から忍び寄ってくる。


「……ざけんなよ」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「ふざけんなよ!」


 晴はことりの肩をつかんだ。


「来年も再来年も、その後もずっと、一緒に花火を見ようって約束したよな? なあ!」


 細い身体を、思いきり揺さぶる。

 返事がほしかった。

 嘘だと言ってほしかった。

 怖くなっただけだと……。

 今のは冗談だと、いつもみたいに笑ってごまかしてほしかった。

 けれどことりは、夜の闇の中でまっすぐ晴を見つめ返してくる。




「もう無理なんだよ!」




 ことりの声が、風を切り裂いた。

 晴の手がびくっと止まる。


「わたしだってずっと晴と一緒にいたい。いたかった! でも苦しいの! 生きている間ずっと人の死が見える! 朝も、昼も、夜も、ずっと!」

「ことり……」

「目を閉じてもだめなの。逃げてもだめ。知らない人が死ぬところが、勝手に流れ込んでくる。助けられなかった人の顔も、泣いてる家族の顔も、全部、全部残るの」


 それは、ことりにしかわからない地獄だった。

 人の死が見えても、全員を助けられるわけじゃない。

 見えているのに間に合わない。わかっているのに止められない。知らない誰かの死を、ただ見過ごすことしかできない日々。

 それは多分、ことりにとって罪を重ね続けるのと同じだった。

 その罪を、誰よりことり自身が許せない。

 なのに世間は、感謝の言葉と同じだけの欲望を、彼女へ投げつける。


「こんなに苦しいのに、みんなまた奇跡をって言う。また助けてって、わたしに縋る! わたしがどれだけ辛いのかも知りもしないくせに、みんな勝手なことを言う!」


 ことりの声が震える。

 怒りなのか、悲しみなのか、もうわからなかった。

 晴は何も言えない。

 いま日本中を包み込んでいる熱狂の異常さは、晴にもよくわかっていた。

 もう世間はことりが普通の少女でいることを、許してくれない。

 助けられなかった命があれば責められる。次の予知がなければ求められる。沈黙すれば裏切りだと罵られる。

 そしてもうすぐ、晴も茉莉も彼女を守り切れなくなる。


「ねぇ、わたしのこと助けるって言ってくれたじゃん……」

「こと、……っ」

「約束してくれたじゃん、晴……」


 ことりが晴の服をつかむ。縋る手は風のせいですっかり冷え切っていた。

 いつの間にか晴の目にも涙があふれる。

 視界が滲んで、もうことりの顔もはっきり見えなくなっていた。



「ねぇ、わたしを助けてよ」

「……」

「お願い、ここで……殺して――」

「――」



 晴はくずおれることりを、そっと抱きしめた。

 こんなに細い身体で、彼女は一体どれだけのものを背負ってきたのだろう。

 

 離れたくなんかなかった。

 殺したくなんかなかった。

 ことりを心から助けてやりたいと思う気持ちは本物だった。


 でも本当に彼女の魂を救う道は、もう一つしか残されてなくて、本当は晴もその事実に気づいていて、だからこそ呆然とする。

 こんな残酷な結末が来るとわかっていて、神様は自分達を出会わせたのか。

 だったら最初から出会わなければよかった。

 今すぐここから逃げ出せたらどんなに楽だろう。

 けれど晴の足はまるで根を張ったかのように岬の先に固定されて、一歩も動けなかった。



「わかっ、た……」



 短く、晴はうなずいた。

 ことりの身体が一瞬、固くなる。

 ゆっくり顔を上げた彼女の目には、涙が溜まっていた。


「約束したもんな。ことりを救ってやるって」

「晴……」

「こんな救い方しかできなくて、ごめん……」


 口の端から嗚咽が漏れて、もう声にならない。

 弱くてごめん。

 無力でごめん。

 結局、自分はことりを守れなかった。

 全部、一人で背負わせてしまった。

 こんな最悪な選択しかさせてやれなかったことが、悔しくてたまらなかった。


「いいんだよ。晴」

「……っ」

「いいんだよ……」


 これから殺されるのはことりのほうなのに、それでも彼女は全てを許すみたいに、指先で晴の涙をぬぐった。

 その笑みを見て、とうとう晴も――決心した。






 風が鳴いていた。

 夜の崖に、晴とことりが立っていた。

 崖の下には、真っ黒な海が広がっている。

 波の形も見えない。底なんて、もちろん見えない。

 あるのは、肌を刺すような冷たい風の音だけだ。




「ありがとう」




 それが、ことりが晴に残した最後の言葉だった。

 全てを終わらせてくれることに対する、感謝の言葉。



 わたしと出会ってくれたこと。

 わたしを宮永家に住まわせてくれたこと。

 マリリンと一緒に家族ごっこができたこと。

 晴に恋したこと。

 一緒に過ごした楽しい夏休み。





 全部全部、幸せだった。





 そんなことりに、晴は手を伸ばす。

 指先を震えさせながら、晴は自問する。


 やれるのか。

 本当に。

 ここで。


 押してしまえば終わる。

 押さなければ、もっと別の終わりが来る。

 

 頭ではわかっていた。

 わかっているのに、身体が凍りついたみたいに動かなかった。


 ことりは何も言わない。ただ晴だけを見つめている。

 まるで最後の一瞬まで、晴の弱さごと受け止めるよ……とでもいうみたいに。

 その優しさが、たまらなく残酷だった。


 晴は息を詰める。

 歯を食いしばる。

 震える両手に、無理やり力を込めた。


 そして――





 突き飛ばした。





 それが唯一、彼女を救う道だと信じて。




    ◇◆◇




 星追警察署。

 夕暮れの光が、取調室の白い壁を鈍く染めていた。

 外の喧騒は分厚い扉を隔ててもなお聞こえてくる。

 署の前に集まった野次馬。報道陣。ことりを殺した少年に向けられる怒号。

 その全てを、晴は遠い世界の出来事みたいに聞いていた。


 取調室の中は、暗く沈んでいる。

 今日の取り調べの制限時間も近づいていた。

 新藤は腕を組んだまま沈黙し、森田は記録をとる手を止めて呆然としている。




「――これで、全部です」




 少年Aこと宮永晴は、空野ことり殺害についての自供を終えた。

 声は不思議なほど静かだった。

 泣き叫ぶわけでもない。

 言い訳をするわけでもない。

 ただ自分の中の何もかもを使い果たしてしまった……。

 そんな印象を、強く受けた。


「本当に全部か。精神的に追い詰められていた彼女を救うために、殺したっていうのか」

「偽善だって言いたいんですよね。いや、究極の自己満足かな」


 晴は新藤を煽るように、先回りして言う。

 けれどその目は、どこにも焦点が合っていない。

 再び心を固く閉ざし、自暴自棄になっているように見えた。


「でも自己満足でも何でもいい。ことりはあれ以上、生きられなかったんです」

「……」

「本当は俺にだって、今も想像できません。一日中、人の死が見え続ける生活なんて、とても……」


 だから仕方なかった。

 晴は無理やり、そう現実を飲み込んだ。

 ことりを失った悲しみは、あまりにも大きい。胸の真ん中にぽっかり穴が空いて、そこから自分というものが少しずつ零れ落ちているかのように。

 でもこれでやっと彼女は安らげたのだという安堵も、確かにあった。



「もうこれ以上、話すことはありません。殺人罪で起訴でも何でもしてください」



 晴は椅子の背にもたれ、視線を横へ流す。

 夕暮れの光が、その顔をぼんやり照らしていた。

 ある意味では、何もかもやり切ったという清々しささえある態度。

 けれど新藤は目の前の少年から一切目を逸らさず、さらに尋問を続けた。


「なるほど。確かに空野ことり殺害の動機も、殺し方もわかった。あとは遺体を探し、物証や証言を積み上げれば、お前の望み通りその罪は裁かれることになるだろう」

「……」

「だがその前に一つ、質問していいか?」


 新藤はわずかに身を乗り出し、一段声を低くする。





「ガクトはどうした?」

「――」





 ガクト。

 その名が落ちた瞬間、晴の身体が一瞬、固まった。

 森田もはっと、顔を上げる。

 晴の指先が、机の下でかすかに震えた。



「……、――え?」

「ガクトだよ、ガクト」

「……」

「お前の話を聞いてて、途中で何かおかしいと思った。父親が死んだ。松木陽葵も死んだ。そして空野ことりも死んだ。だが幼馴染のガクトの話が、震災以来一度も出てこない」

「……」

「松木陽葵と同じくらい長い付き合いで、大事な友達だったんだよな?」

「…………はい、多分」

「多分?」



 晴の返事は、ひどく曖昧だった。

 再び唇を開きかけるが、うまく言葉が出てこない。

 今までの自供から察するに、ガクトは青南高校の裏山に避難し、無事でいるはずだった。

 陽葵が死に、ことりが消えた後も、ガクトだけはどこかにいるはずなのだ。

 その事実に踏み込もうとした直後、晴が手でこめかみを押さえる。


「……いたっ」

「おい、また頭痛か?」

「……痛い……っ」


 晴は机の上に肘をつき、頭を抱えた。

 先ほどまでとは比べものにならないほど強い痛みが、こめかみの奥を貫く。

 脂汗がにじみ、息が乱れた。

 それでも晴は、親友の名を呟く。



「ガクト……」



 そうだ。

 晴にとって、ガクトは小学校三年からの長い付き合いだった。

 少し太めで、食いしん坊で、いつも母親の手作り弁当を自慢していた。

 晴が黙っていても勝手に話しかけてきて、くだらないことで笑って、陽葵と三人でいつも一緒にいた。



「ガクト……?」



 だけど思い出そうとすればするほど、その姿は霞んでいく。


 あいつはどんな顔だった?

 どんな声をしていた?

 あいつはどこに住んでいた?

 小学校の時、どこの席に座っていた?

 あいつの家に遊びに行ったことはあったか?


 変だ。

 思い出そうとしても、何も思い出せない。


 それ以上言葉が続かない晴を見て、新藤も森田も動きを止めた。

 取調室の空気が、じわじわと張り詰めていく。


 そして晴は頭の痛みでぐちゃぐちゃになりながらも、ようやく一言だけ振り絞った。




「ガクトなんて……そもそもそんな奴、いましたっけ?」






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