26話 切れた糸
こめかみが痛い。
ずきずきと、脈打つたびに。
ことりははっきりと覚醒していた。目を開けているのに、悪夢のただなかにいるみたいだった。
スマホの画面には、どこもかしこもことりの予知の話題が溢れている。
感謝の言葉も、賞賛も、もう少しも嬉しくなかった。
その合間に混ざる、罵倒や呪詛のほうがむしろ現実に近いとさえ思う。
ああ、何もかもが気持ち悪い。
……もう、うんざりだった。
だって誰もことりの痛みなんて見ていない。
ほしいのは、都合よく自分達を救ってくれる救世主だけだ。
救って。
もっと救って。
次も、次も、その次も。
そんなの、どう考えたって無理だった。
最初は、未来予知なんてたまにしか見えなかった。
それが晴と出会ってから、急に加速した気がする。
まるでどこかの回路が突然開いて、常時つながってしまったような感覚。
勝手に人の死が見え、その映像が断続的に目の前を流れていく。
眠っていても、起きていても、ただひたすらに。
(どうしたら、見えなくなるの)
何度考えてもわからない。
何をしても、どこへ逃げても、頭の奥から逃げられない。
張りつめた糸は、もうとっくに限界まで引き伸ばされていた。
あとほんの少し、何かきっかけがあれば、きっと簡単に切れてしまう。
そしてその「ほんの少し」は、すぐにやってきた。
◇◆◇
ことりがその騒ぎに気付いたのは、十月中旬の夕方のことだった。
大震災からちょうど一か月が経とうとしていた頃。
別邸の門の方向から、突然怒鳴り声が聞こえてきた。
晴の声だ。
最近晴が怒鳴ることなんてほとんどなかったから、ことりは思わず体を起こした。一体何が起きているのかと、ふらつく足で階段を降り、玄関へ向かう。
扉を開けた先に見えたのは、門前で男たちに囲まれている晴の姿だった。
そのうちの一人が突然晴の胸ぐらを掴み、別の一人が容赦なく腹を殴る。
一瞬、何が起きているのかわからなかった。
「な、何……? 晴、どうして……っ」
ことりは慌てて裸足のまま玄関先に降りる。
けれど後ろから茉莉が駆けつけ、すぐに腕をつかんで引き戻した。
「今出ちゃだめ!」
「でも晴が!」
「あいつらの目的はことりちゃんなの!」
「!」
茉莉は力ずくでことりを家の中に押し込む。最近ろくに食事もとっていなかったことりは抵抗もできず、土間にしりもちをついた。
「わたしが……目的って、どういう……」
茉莉が苦々しい顔で視線を逸らす。その間も、外では晴が殴られる音がしている。
「あいつら、絶対空野ことりを探し出すって動画を出してる、たちの悪いNetTuber」
「……っ」
「この辺でことりちゃんらしい女の子を見かけたって、どこかで聞きつけたんだよ。それでさっきからずっと、家の中を見せろって騒いでて……」
その先は、聞かなくてもわかった。
だから晴が止めに入ったのだ。そして目をつけられた。
門の向こうで、晴がまたよろめく。
男達の下卑た笑い声が響く。
ひどい。
あまりにもひどい。
なのに、ことりの足は動かなかった。
怒りで飛び出していく勇気も、自分が矢面に立つ覚悟も、もうどこにも残っていなかった。
「警察は……」
「これから連絡する。とにかく今は堪えて」
枯れたはずの涙が、また勝手ににじんできた。体が小刻みに震える。
自分が苦しむことなら、まだ耐えられた。
自業自得だと言い聞かせれば、何とかなった。
でも晴が――ことりにとって誰よりも大事な人が、自分のせいで傷ついている。
それだけは、どうしても耐えられなかった。
「ごめん、晴。ごめん……っ」
晴が暴行を受けている間、ことりにできることは何もなかった。
ただ玄関の土間に座り込んで、外に向かって謝り続けるだけだった。
◇◆◇
その夜、晴は居間で茉莉に傷の手当てをされていた。
質の悪いNetTuberたちは晴が「警察」の二文字を口に出した途端、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「顔、あんま傷ついてないね」
「殴られ慣れてるから、俺」
「全っ然、笑えない」
茉莉が絆創膏のテープを剥がし、口元に貼り付ける。
晴は小さく「いて」と身じろぎした。
「あいつら、これで諦めてくれたらいいけど」
「絶対に諦めないと思う」
「……だよね」
時刻は十九時を少し過ぎたあたり。
十月に入ってから陽が短くなり、外はもう真っ暗だ。
どうすればいい、と晴は考える。
このままではことりの居場所が知れ渡るのは時間の問題だ。
父も死んだ。親友の陽葵も死んだ。もう守ってくれる大人は、茉莉しかいない。
ことりを守りたい気持ちは本物なのに、今の自分はあまりに無力だった。
今日だってそうだ。突っぱねることしかできず、その結果、殴られただけだ。
そんなふうに焦っていると、茉莉が立ち上がった。
「そろそろ食事にしよう。ことりちゃんの様子も見てくるね」
茉莉が二階へ上がる。その背中を見送って、晴は痛む頬に手を当てた。
けれど茉莉はすぐに階段を駆け下りてきた。
「た、大変! ことりちゃんがいない!」
晴の顔から、血の気が引いた。
「トイレは?」
「見た! いなかった!」
「風呂は……」
「使えないけど、一応見た! いない!」
二人は家の中を慌ただしく探し回った。
空き部屋、押し入れ、物置、台所。けれどどこにもいない。
最後に玄関を見た時、晴の背筋がひやりと冷えた。
ことりの靴が、なくなっている。
「くそ、なんで……っ!」
嫌な想像が、頭の中で一気に膨らむ。
誰かに見つかったらどうなる。あの連中に遭遇したら、それこそただじゃすまない。
いや、それ以上に――
(あいつ、最近ずっと……)
生きているのが辛い。
死にたい。
何度も繰り返していた言葉が、今さらみたいに胸へ突き刺さる。
「あたし、本宅のほう当たってみる!」
「じゃ俺は沿岸方面!」
二人はそのまま夜の街へ飛び出した。
瓦礫の山。
暗い道。
避難所の灯り。
自衛隊のキャンプ地。
崩れた塀の向こうに、誰かの生活の残骸が見える。
晴は息を切らしながら走った。
もしことりが本気で最悪の決意を固めているのだとしたら、向かう場所は多分――
(あそこしかない)
晴は歯を食いしばり、星追岬へ向かった。
◇◆◇
風が鳴いていた。
初めて出会ったあの夜のように、星追岬に吹く風は強い。
潮の匂いがして、海鳴りがして、世界全体が異様に暗い。
瓦礫の撤去が進んでいない沿岸部は、震災の傷跡がまだ生々しく残っていた。
その岬の崖のギリギリの端に、ことりは一人で立っている。
眼下の闇を見下ろす横顔は、不思議なくらい穏やかだ。
「ことり!」
晴は駆け寄り、その腕を掴んで無理やり引き戻した。
ことりの体はひどく軽い。
「何やってんだ。お前、何考えてんだよっ!」
「……」
ことりは晴に怒鳴られても、少しも怯えなかった。
いや、それどころか微かに笑っている。
晴がしばらく見ていなかった、あの少しおどけた笑み。
「足、震えちゃった」
軽く、からかうような仕草。
出会った頃のことりが一瞬だけ戻ってきたようで、晴はかえってぞっとする。
「もう死ぬしかないって思ってここに来たはずなのに……馬鹿だよね、いざとなったら怖くてたまらないの」
「そんなの当たり前だろっ!」
晴はことりの細い肩を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。
逃がさないように、壊れ物を抱くみたいに……強く。
「死ぬなよ。お前が死んだら、俺……っ」
「ありがと、晴」
ひどく優しい笑みだった。
まるで全部わかっていて、何もかも許すみたいな慈愛深い笑み。
けれど次の瞬間、その顔はぐしゃりと崩れた。
「でも、もう無理だよ」
「ことり……」
「ごめん。もう、生きていけないよ」
見る見るうちに、ことりの両目から涙があふれた。
晴は必死に何か言おうとした。
違う。
そんなことない。
まだ何とかなる。
今すぐことりの言葉を打ち消さなければならないのに、彼女がどれほど追い詰められてここへ来たのか、痛いほどわかってしまう。
それが何より苦しかった。
ことりは震える手で、晴の制服をそっと掴む。
「ねえ、晴」
泣き笑いみたいな顔で、ことりが見上げる。
そして、とうとう心からの願いを口にした。
「お願い。わたしを――殺して」




