25話 奇跡の再来
ことりは浅い眠りの中で、何度も夢を見ていた。
夢の中で、母がことりを睨んでいる。
泣きながら。
『あんたなんか産むんじゃなかった』
『人の死が視えるなんて、気味が悪い』
まだ幼い夢の中のことりは、「お母さん」と呼びかけることしかできなかった。
声に出しても音にならない。ただ口だけが「ごめんなさい」と空回る。
暗闇の中に一人で立ち尽くすことりのまわりで、世界がゆっくりと歪んでいく。そして画面が切り替わるように、別の場所が現れた。
昔遊びに行った田舎の親戚の家。
その縁側に射し込む穏やかな午後の光の中で、曾祖母が小さなことりを膝の上に抱いている。
『いいかい、この力のことは家族以外には誰にも言うんじゃないよ。お口チャックだよ』
『どうして?』
『言ったが最後、お前が不幸になるからさ』
今ならばわかる。
あのとき曾祖母が笑顔の奥に隠していたものの正体が。
きっと曾祖母も、この力に長い間苦しんできたのだ。
力を持つことの孤独を知っていたから、あんなふうに悲しげに笑っていた。
また場面が変わる。
『なんで松木くんを助けてくれなかったの』
明日香がいる。
あの日の体育館の、蛍光灯の白い光の下で、明日香がことりを見ている。
その目は悲しみと憎しみが入り混じって、まるでことりを殺しそうな勢いだ。
しかし気づけば、明日香一人ではなかった。
ことりのまわりを、たくさんの死体が取り囲んでいた。
『どうして助けてくれなかったの』
『私が死ぬのがわかっていたはずなのに』
『ひどいよ』
『苦しいよ』
『助けてよ』
『あなた、救世主なんでしょ』
無数の手が伸びてくる。数十ではない。数百でもない。
数万の冷たくなった指が、ことりの足首を、腕を、首を、つかもうとする。
「いやぁぁぁーーーっ!」
ことりは布団から飛び起きた。
全身に汗をかいている。シャツが皮膚に張り付いて気持ち悪い。
呼吸が追いつかず、胸が上下するたびに空気が足りないと感じた。
廊下を駆ける足音が聞こえ、襖が勢いよく開く。
「ことり!」
晴だった。
ことりの体を支えるように両肩に手を置いて、背中を撫でてくれる。
「大丈夫だ。俺も叔母さんもそばにいるから」
「は……っ、は……っ」
「そうだ。ゆっくり吐いて。俺に合わせて。ゆっくり……」
ことりは涙をこぼしながら、必死に気を落ち着かせようとする。
でも苦しい。
こんなに苦しいのに、どこにも出口が見つからない。
いったん落ち着いたとしても、目を閉じればまた悪夢に引きずり込まれる。
それが怖くて、眠るのが怖い。
眠らなければ今度は体が限界を迎える。
どちらに転んでも、疲弊していくだけだった。
「もう、ヤダ……っ」
「え」
「生きてるの、苦しい……っ」
「――!」
晴の手が、微かに強張る。
それきり二人とも、しばらく何も言えなかった。
ことりは嗚咽をこらえながら、晴の胸に額を押しつける。晴はただ、その背中に腕をまわして、黙って抱きしめることしかできない。
救世主と呼ばれた少女の口から、とうとう自分の生を否定する言葉がこぼれるようになった。
◇◆◇
大震災から約二十日ほどが過ぎていた。
別邸で暮らせていること自体は、奇跡に近い幸運だった。避難所の体育館で雑魚寝している人たちのことを思えば、屋根があるだけで充分すぎる。そう自分に言い聞かせても、体はじわじわと消耗していった。
電気はない。ガスもない。水道も来ていない。
備蓄の食料はとうに底をついて、今は一日一食食べられればラッキーという有様だ。
給水車が来る音が聞こえると、茉莉が条件反射でポリタンクを掴んで玄関を飛び出していく。二十五年以上部屋から出なかったあの茉莉が、である。
体力が落ちると、精神も同じ分だけ削られる。
晴と茉莉の間の会話は、自然と少なく、短くなっていった。
「今日のご飯、どうしよっか」
「俺、後で避難所に行ってもらってきます。炊き出しがあればいいんですが」
「……ことりちゃんは連れていけないしね」
「さすがに無理ですよね」
畳に座ったまま、二人は同時にため息をついた。
海外に住む祖父と祖母が支援物資を送ると連絡をくれたが、物流の混乱はひどく、いつ届くかわからない。
県外に逃げようにも、ことりの素顔はすでに世間に知れ渡っている。今の状態でことりを連れて外に出るのは、あまりにもリスクが高すぎた。
そして何より、最近ことりが頻繁に「死にたい」と口にするようになっていた。
最初は独り言のように、ぽつりと。
やがて夢から覚めるたびに、泣きながら。
震災からたかが二十日。されど二十日。
人の精神が追い込まれるには、充分すぎる時間だった。
「ことり、宇崎先生に診てもらったほうがいいんじゃないかな」
このままでは本当に危ない。
そう思って晴が切り出すと、茉莉は予想外の反応を示した。
「……あの先生は信用できない。駄目だよ」
「え? なんでそう思うの」
「……」
茉莉は困ったように目を逸らし、それきり口をつぐんだ。
長年宮永家のかかりつけ医として世話になってきた宇崎を、茉莉がそんなふうに言うのは意外だった。
晴がなおも問おうとした時、ふと気配を感じて振り返る。
居間の入り口に、ことりが立っていた。
やせこけた輪郭。土気色に近い肌。
唇はきつく引き結ばれていて、まるで幽霊が立っているみたいだった。
一度口を開きかけ、また閉じる。
言いたいことがあるのに、言葉にするのを躊躇っているような、そんな微妙な間があった。
「どうした? 腹でも空いたのか?」
晴は近づき、なるべく穏やかな声で尋ねた。
最近のことりは、問いかけに対しても無反応のことが多い。
だから返事が返ってきた時、晴は思わず息を止めた。
「……天臼山」
「え?」
「明日の夕方、天臼山が噴火する」
ことりの両目いっぱいに涙がたまっていた。
何かを必死にこらえながら、それだけを絞り出した声だった。
「後は、お願い」
それだけ言うと、ことりはまたふらふらと二階へ戻っていった。
晴と茉莉は顔を見合わせた。もう未来予知を発信しないと決めたことりが、その信念を曲げてまで告げた言葉の重さを、二人は同時に受け取った。
茉莉は閉じていたノートパソコンを開き、震える手で久しぶりにチャンネルにアクセスした。
AIアバターが起動し、きゅるんっと場違いなポーズを決める。
『みなさん、緊急のお知らせです。明日九州の天臼山が噴火します』
◇◆◇
ことりが告げた予知は、断片的で不確かだった。
噴火の時刻だけを告げ、規模も、被害想定も、何も言わない。
それはこれまでの予知と比べても情報量が少なく、著しく信ぴょう性に欠けていた。
そしてこの頃、被災地域以外の人々の間には『震災疲れ』ともいうべき、うんざりした空気が広がり始めていた。
いい加減、テレビは普通の番組に戻せ。
ニュースは飽きた。
ネットにも娯楽を流せ。
そんな勝手で自己中心的な声が日に日に大きくなっていたところに、ことりのこの新しい予知である。
ある意味、乾いた火薬に落ちた火花のようなものだ。
今まで他人事だった災難が自分の身にも降りかかる。
そう思い知った人々は、ことりの噴火予知をすぐさま拡散する。
賛否のコメントが洪水のように流れる。
当時、天臼山の噴火警戒レベルは2。気象庁からは何の警告も出ていなかった。
しかしことりの予知を信じた住民が、いち早く避難を開始した。
そして翌朝。天臼山付近で火山性地震が急増し、気象庁が警戒レベルを3に引き上げた。火口から二キロ以内への立入禁止が発表された時点で、大方の避難は完了していた。
マスコミもこの時点で、危険区域への立ち入りを自粛している。
天臼山が噴火したのは、十月六日午後四時五一分。
溶岩ドームが崩壊し、火砕流が南東方向の谷筋を一気に流れ下った。噴火からわずか五分で、山麓の集落「臼ノ原地区」に到達した。
けれど、人的被害はゼロだった。
もしことりの予知がなければ、この噴火による犠牲者は五十人から百人に上ると推計された。
短期間に起きた二つの大災害を的確に予知したことで、今度こそ日本全国が熱狂した。
ニュースは一斉に「救世主、再び」と書き立てる。
SNSでは感謝と賞賛が嵐のように飛び交い、ことりのチャンネルには数分で数万件のコメントが積み上がった。
そしてそれは同時に、ことりにとって完全な地獄が完成したことを意味していた。
二階の畳部屋で、ことりは窓の外を見ていた。
夕暮れの空が赤く染まっている。
遠くで、誰かが泣いている声がした。
それが現実の声なのか、また始まった幻聴なのか、ことりにはもうわからなかった。
画面の中で世界が熱狂するほど、ことりの中の何かが静かに、音もなく――
ゆっくりと崩れていった。




