24話 崩壊のはじまり
「じゃあ、空野ことりの母親も震災で――亡くなったのか」
再び星追警察署・取調室。
新藤の問いは、ひどく乾いて聞こえた。
晴は少し間を置いてから、「多分……」と、小さく答える。
宮永秀樹と同じだ。震災から一か月が経った今も、どちらの遺体も見つかっていない。公的には行方不明扱いのままだ。
「それなら空野ことりの本当の身元や戸籍は追えませんね……」
森田が頭を抱える。けれど晴は、ゆっくり首を振った。
「追えないことはない……と思います」
「何?」
「ただ……それが本当の情報かどうかは、わからない」
新藤が眉をひそめる。
「どういうことだ?」
「ネットが復旧してから、チャンネルにはいろんなコメントが溢れました」
「ああ、そうだったな」
「それにことりは一度だけ、みんなの前に素顔をさらしてます」
そこまで言われて、新藤にも察しがついた。
あのコメント欄の荒れ方は、今思い返しても異常だった。
感謝と崇拝。恨みと嘲り。
そのどれもが、震災で剥き出しになった人間の生々しい感情だった。
「しばらくして自分こそがことりの親だとか、友達だとか……そう名乗る人が、大勢現れました」
晴は膝の上で指を組んだまま、無表情で続ける。
「ことりはそういう連中を、死ぬほど毛嫌いしてたんです」
◇◆◇
震災から一週間が過ぎた頃だった。
別邸の後片付けもどうにか一段落し、散らかった空気の中に少しだけ生活の気配が戻り始めた頃。晴は茉莉に呼ばれて、居間の前で足を止めた。
「どうしたの、叔母さん」
「……ちょっとこれ、見て」
茉莉が見せてきたノートパソコンの画面には、ことりのチャンネルやSNSに関する投稿がずらりと並んでいた。
ネット上ではことりに対する熱狂が、もう笑えないところまで膨れ上がっている。
本物の救世主だと讃える者。次の予知を待ち望む者。祈るように感謝を捧げる者。
その反対側には、当然のようにことりを憎む声もあった。
神奈川に住んでたうちの親戚、全滅だわ
何が救世主だ、ふざけんな
助けなかった責任は誰が取るんだよ
その言葉に、今度はことりの信者が噛みつく。
なんでもことりんのせいにすんな
助かった人が大勢いるのも事実だろ
気にすんな、ことりん
私たちはこれからもことりんを信じるし、支え続ける!
「最悪だな……」
「うん。完全に泥沼」
延々とループするレスバを見て、茉莉は疲れ切った顔で肩をすくめる。
さらに厄介なのは、ことりの身内を騙る人間だった。
実はことりんはオレの妹で
ことり、お母さん待ってるから、早く家に帰って来なさい
実は中学の時、同じクラスだった
俺のリアル彼女だよ、ことりん
中にはもっと悪質なものまである。
空野ことりに予知してほしい方、こちらのDMで受け付けています
一件50万からお受けします
晴はそこで画面を見るのをやめた。
震災の日、一瞬だけ映ったことりの顔写真。それをもとに作られたAI画像や動画が、もう大量に出回っていた。晴や茉莉ですら、ひと目では本物と偽物の区別がつかないものもある。
「また詐欺案件が増えてる……」
「追いつかないよ、もう」
茉莉はそう言って、疲れた指先でキーボードを叩いた。
ネットは悪意が育ちやすい場所だ。まして大災害の後ならなおさらだった。
怒りも、羨望も、欲望も、軽蔑も、ぜんぶが熱を持ったまま拡散していく。止めようとしても、もう個人では対処しきれない。
チャンネルの問い合わせ窓口はとっくに閉じた。国内外のマスコミから取材依頼が殺到したからだ。
「今はもう空野ことりとは何者か、どこに住んでいるのか、正体を探る考察動画がバズってる」
茉莉が開いた一覧には、同じようなタイトルが並んでいた。ざっと見ただけでも百件を超えている。
もちろん的外れな動画が多い。けれど中には『空野ことりは星追市の沿岸部に住んでいるんじゃないか』と、ほぼ正解を言い当てているものもあった。
「まずいな」
「今までの配信で、結構ヒント出しちゃってるからね」
茉莉は画面を切り替えながら、何やら数字が羅列したタブを開いている。
「このチャンネル、近いうちに削除したほうがいいかも」
「しなかったら?」
「ハッキングとか、一応今は何とか弾いてるけど、あたしもそっち方面は専門じゃないし。最悪、ことりちゃんが全世界で見世物にされるよ」
見世物。
その単語を聞いた瞬間、晴はみぞおちを殴られたような気がした。
最初はもっと小さな願いだったはずだ。
たった一人でもいい。未来予知の力が、誰かの役に立つなら。そのための場所を作れれば、それでよかった。
けれど今や、チャンネルは晴たちの手を完全に離れつつあった。中にはことりを教祖として迎えたいなどと言い出す宗教団体まである。
未来予知という呪いが、救世主という別の呪いに姿を変えつつあった。
(……何とかしなきゃ)
このままじゃ近い将来、ことりの正体が何者かによって暴かれる。
そうなってから慌てても遅い。
何かいい方法はないかと、晴が苦悩していると――
突然、ガタン、と。
廊下で大きな音がした。
晴は弾かれたように、居間を飛び出す。
「ことり!」
案の定、廊下にはことりが倒れていた。晴は急いで駆け寄って、抱き起こす。
その身体は、驚くほど軽かった。
母の死を知らされてから、ことりはろくに食事をしていない。
夜も眠れていないのだろう。目の下には濃い隈が落ち、頬はひどくこけていた。
前はあんなに生意気そうに見えた顔が、今は少し力を入れれば壊れてしまいそうだった。
「……薬」
「え?」
「頭、痛いの……薬、ちょうだい……」
今のことりが唯一欲しがるのは、頭痛の鎮静剤だった。
飲みすぎはよくない。そんなことはわかっている。
でも弱った声で懇願されると、晴には拒めなかった。
薬を渡すと、ことりは震える手でそれを飲み込む。
「……っつう!」
「大丈夫か!?」
さらにこめかみを手で押さえ、辛そうにその場にうずくまった。
「……はっ、は……っ」
浅くて荒い呼吸。細かく震える肩。
ことりの予知は、まだ止まっていなかった。
いや、むしろあの大災害の後も加速し続けている。
ことりには人の死が見え続けているのだ。頭痛と一緒に、容赦なく。
加えてどれだけ苦しそうでも、晴も茉莉もその姿を見守ることしかできない。
代われるものなら代わってやりたいと切実に思うが、それは到底無理な話。
しかもあの日以来、ことりはあるひとつの決意を固めていた。
「……っく、わたし、二階に戻るね」
「でも」
「お願い。放っておいて」
それだけ言って、ことりはふらつく足で階段を上がっていく。
もう予知を配信しない。
ことりは、そう決めてしまったのだ。
見えたところで、助けられない人がいる。
助けられなかったことで、誰かに恨まれる。
その連鎖が永遠に終わらないことを知ってしまったから、ことりは自分の中の何かを閉ざしてしまった。
つまりたとえ誰かの死が見えても、もう二度と助けないということだ。
実際ことりは大震災が起こる直前、母親と連絡を取っていた。
それでもなお救えなかったことも、大きく影響しているのだろう。
どうにもならない無力感に打ちのめされ、希望が見えない。
真っ暗闇の中、放り出された迷子のようだ。
「人の死が見えるなんて……辛いよね」
ことりの背中を見送りながら、茉莉が泣きそうな声でつぶやく。
「なんで……こんなことになっちゃったんだろ」
「…………」
晴は答えられなかった。
肉親や友人を失った苦しみは、晴もことりも同じだ。けれど晴と茉莉には、今こそことりを支えなければならないという強い想いがある。それがまだぎりぎりのところで晴たちを奮い立たせていた。
でも、ことりは違う。
配信しないと決めたのに、人の死は見え続ける。
見えているのに、何もしない。
予知できるのに、自分の中で「全部仕方ないことだ」と無理やり処理する。
それは毎日毎日、誰かを見捨てることを自分に言い聞かせるのと同じだった。
あれほど明るくて、いたずらな顔で人の懐に入り込んでいたことりが、もう笑わない。
瞳には暗い影が落ち、日に日に痩せていく。
そのままふっと消えてしまいそうなくらい、ことりは静かに壊れ始めていた。
(何とかしなきゃ。このままじゃ、ことりの心も体も死んでしまう)
晴は、ほとんど祈るように思う。
けれど具体的に何をどうすればいいのかわからない。
今のことりをどうやったら救ってやれるのか。
答えを見つけられないまま、ただ長い沈黙だけが重く家の中に積もっていった。




