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20話 散る命

 


 誰もが、今日自分が死ぬなんて思いもしなかっただろう。

 そんな人が何千も、何万も――この国には、いる。




      ◇◆◇




『緊急地震速報です。緊急地震速報です』


 自宅で休養していた陽葵は、突然の揺れに飛び起きた。

 激しい振動で部屋の中が一瞬でめちゃくちゃになる。

 物が落ち、窓ガラスが飛び散り、外からもいくつもの叫び声が聞こえてきた。



「なんだよ、これっ!?」



 陽葵は四つん這いになってスマホを掴む。

 家族や友人……とりわけ晴に連絡を入れようと思ったのだ。

 しかしこんな時に限って充電は1パーセントも残っていない。騒がしかった緊急地震速報も、ブツッと途中で途切れた。


「くそ……っ!」


 揺れが少し収まった隙に、陽葵は家の外へ飛び出す。近所の人々がパニックになり、場は騒然としていた。


「高台に逃げろ!」

「急げ、津波が来るぞ!」

「優愛……!」


 陽葵は高台へ向かう人の流れに逆らい、反対方向へ走り出した。

 妹の優愛が通う幼稚園は近い。今ならまだ間に合う。

 とっさの判断だった。


 陽葵は走る。

 走って、走って、ひたすら走る。

 その背中は倒壊した建物の土煙に紛れて、すぐに見えなくなった。

 スマホの充電は完全に切れ、最後まで陽葵がことりのチャンネルを見ることはなかった。




     ◇◆◇




『お父さん、お願い、助けに来て! みんなエレベーターの中に閉じ込められちゃったよ!』


 その日、新藤衛はたまたま非番だった。

 地震の直前まで、健太お気に入りのことりのチャンネルを眺めていた。今度会った時の話の種にでもなればいい……そんな軽い気持ちで。

 しかしことりが“大地震”を告げた瞬間、状況が一変した。



 嫌な予感がした。

 理由なんてない。ただ胸の奥がざわついたのだ。



 新藤はすぐに妻へ電話をかけ、健太がその日、社会見学で博物館へ行っていることを知った。ことりの配信が始まってほどなく家を飛び出し、ほとんど勘だけで博物館へ向かう。

 健太からメッセージを受け取った時には、すでに現地へ到着していた。



「健太……っ!」



 そして、ことりの予知どおり地震が起きた。

 避難民が殺到する博物館では、停電のせいでエレベーターが全て止まっていた。非常階段へ人が流れる中、新藤はエレベーターのドアを叩いて回る。


「健太! どこにいる!?」

「お父さん!」


 下から声がした。地下と一階の間で、エレベーターが一基、停まっている。

 新藤はドアをこじ開け、エレベーターの屋根へ飛び降りる。非常脱出口から中を覗くと、引率の教師と小学生たちが閉じ込められていた。


「あ、お父さん!」

「助けに来たぞ! もう大丈夫だ!」


 一人ずつ手を伸ばし、全員を引き上げる。安堵しかけた空気を、新藤はすぐに引き締めた。


「まだだ! すぐに津波が来る! 上へ逃げるんだ!」

「ことりんもそう言ってたもんね!」


 健太の手を掴み、急いで非常階段を駆け上がる。

 泣きじゃくる子を励まし、座り込んだ女の子を背負い、それでも足を止めない。



「もうすぐだ! 大丈夫、みんな助かる!」



 汗が噴き出し、息が切れても、新藤は歯を食いしばった。

 ここにいる誰一人、死なせるものか。

 その一念だけで。




    ◇◆◇




「第一波、来る……っ!」


 その頃、ことりは津波が想定よりはるかに早く到達する未来を視ていた。

 東日本大震災の時、第一波の到達には20分から30分の猶予があった。

 だが今回は違う。震源が近すぎる上に浅すぎる。

 のちに『関東トラフ巨大地震』と呼ばれるこの地震は、一九二三年の関東大震災とほぼ同じ、相模トラフ周辺を震源としていた。

 だから、逃げる時間も猶予もない。


 ことりの脳裏に、沿岸へ襲いかかる津波の映像が走る。

 三メートルから六メートル級。十分も経たないうちに、沿岸地域を容赦なく呑み込むだろう。



「急いで……!」



 ことりは震える指で操作を続けた。

 チャンネル上ではAIアバターが再び起動し、画面越しに警告を放つ。



『みんな急いで! もうすぐ津波が――来る!』




    ◇◆◇




 市民ホール前の揺れは、ようやく収まりつつあった。

 だが悲鳴は消えない。大津波警報が発令され、サイレンがけたたましく響く。

 街頭ビジョンでは、顔面蒼白のニュースキャスターが避難を呼びかけていた。


『皆さん、落ち着いて高台へ移動してください! まず自分の命を守る行動を優先してください!』


 晴は倒れてきた看板の下敷きになった父の秘書を助け起こした。足をやられたらしく、秘書は痛みに顔を歪めている。


「申し訳ありません、晴さん……」

「謝らないでください。高いところへ急ぎましょう」


 晴が肩を貸した、その時だった。

 ついさっきまで地面に這いつくばっていた秀樹が立ち上がり、拡声器を握っていた。



「皆さん、落ち着いてください! 津波が来るまで、まだ少し猶予があります!」



 よく通る声。演説の時とまったく同じ声だ。

 あれほど怯えていたくせに、この切り替えの早さはさすがだ。災害の最中ですら、父は打算を忘れない。


 その時、晴は空気の匂いの違いに気づいた。

 潮だ。生臭く湿っていて、どこか鉄みたいな匂いが混じっている。

 市民ホールは港に近い。海沿いの広場と低い岸壁があり、会場脇の外階段を上れば裏手の高台へ抜けられる。


「上へ! 階段のほうへ行ってください!」


 晴は人の流れを外階段へ向けた。老人を支え、子どもを母親のもとへ押し戻し、とにかく一人でも多く上へ行かせる。

 もうこの時は、ことりのチャンネルを確認している余裕などなかった。

 階段の下で、秀樹はまだ拡声器を握っている。


「押さないでください! 落ち着いて! 高台へ避難を――」

「父さん、早く上がって!」


 晴は階段の途中から叫ぶ。

 人波の切れ間から、低い場所に残る父の姿が見えた。秀樹はようやく晴を見上げ、その目に苛立ちを浮かべた。



「お前は黙って誘導していろ!」

「津波だよ! もう来るよ、早く!」

「騒ぐな! まだ余裕はある!」



 晴はハラハラしながら、手すりを握った。焦りながらも高台から海を見ると、水面がざわざわと騒ぎ、白く泡立っていた。巨大な壁のような波ではない。むしろ低い。拍子抜けするほどに。

 しかし、その流れは速かった。海からまっすぐ押し寄せるより先に、回り込んだ水が道路へ広がった。岸壁沿いを滑り、広場の端を舐め、車止めを越えてくる。


「さあ、みんな急いで――」


 秀樹が笑顔を浮かべている間にも、サーッと足元に水が流れ込んでくる。

 黒く濁った水が、秀樹の靴を、足首を、脛をまとめて攫った。


「っ!」


 秀樹の身体がぐらりと傾く。拡声器が手から滑り落ち、水に呑まれてあっという間に消える。

 晴は反射的に外階段を数段駆け下りた。

 秀樹が振り向く。最初に浮かんだのは、恐怖ではなく怒りだった。



「晴! 何をしてる、来い! 引っ張れ!」



 叱りつける声。いつもと同じ声だ。

 だが次の瞬間、さらに強い水が横からぶつかる。


「う、わ……っ!」


 秀樹の声色が、明らかに変わった。

 足元を完全に持っていかれ、両脚が流される。近くの標識に手を伸ばすが、指先は空を切る。ようやく自分が本当に津波に呑まれかけているのだと理解したようだ。水はもう膝を越えている。


「父さん!」


 晴は父を助けようと、さらに階段を走って降りた。

 けれど水の流れが速い。速すぎた。

 濁った黒い水が木片やゴミを巻き込みながら道路の形を消していく。秀樹は片膝をついたと思った瞬間、そのまま腰まで沈んだ。


「晴、早く……! 早く俺を助けろっ」

「――っ!」


 さっきまでの命令口調が崩れた。ひび割れた声だった。

 みっともなく、醜く、どうしようもない本物の恐怖。

 助けを求めている。

 命令でも演技でもない。

 本気で死にたくなくて、父は初めて一人の人間として晴に縋っていた。


「もっとこっちに手を――!」


 もちろん晴は、ためらいなく手を伸ばした。

 自分の危険も顧みず、あと一段。

 あと半歩。

 そして指先が触れ合うかもしれない距離まで近づいた刹那――




『くそ、お前も俺をバカにしやがって!』




 幼い頃、容赦なく殴られたあの瞬間が――フラッシュバックした。



「あ……」


 その瞬間、晴の動きは止まった。

 心は助けなければと思っている。

 けれど七年以上体に刻み込まれた記憶が、今動くことを拒否している。


「は、晴……っ!」


 大きく見開かれた秀樹の目が、まっすぐに晴を見た。

 最初は怒り。

 次に焦り。

 最後に恐怖。


「な、んで……」


 もう一度、腕がこちらへ伸びる。


「晴……! 頼む、はや――」


 その言葉を、次の濁流が呑み込んだ。

 横殴りの水が秀樹の身体をさらう。

 伸ばされた指先が、晴の指先にほんの少し触れかけて、触れないまま離れていった。




「晴ぅぅぅぅぅーーーーーーーっ!!」




 絶叫だった。

 次の瞬間には、秀樹の姿はもう見えなくなった。

 ただ黒い水だけが流れていく。看板の破片、ポリタンク、鞄、千切れたのぼり旗。さっきまで人が立っていた場所を、津波が何もかもまとめて押し流していく。


「―――」


 晴は階段の途中で立ち尽くした。

 声が出ない。

 伸ばした手はまるで石のように固まったまま。

 そうしている間にも、膝下まで水が迫っている。

 このままでは晴自身も津波にさらわれるかと思ったが――



「君、危ないっ!」

「っ!?」



 突然後ろから腕を引っ張られ、力ずくで階段の上に連れていかれる。


「ぼーっとするな、危なかったぞ!」

「………」


 晴を助けてくれたのは、ガタイのいい中年男性だった。

 しかし今の晴に、男の声は耳に入らない。

 いや、実際には悲鳴も怒号もサイレンも鳴り続けているはずなのに、その全部が遠かった。



 父がいた場所を見つめる。

 もういない。

 助けようとした。

 手を伸ばした。

 伸ばした、はずだった。

 のに。


「……っ」


 晴は思わずその場に座り込んだ。

 喉がひきつる。息がうまく吸えない。

 胸の奥で、何かが遅れてせり上がってくる。

 違う。

 助けられなかったんじゃない。

 動けなかった。

 俺が、止まった。

 俺が。





 見殺しにした。




「あ、ああ……ああああーーーーっ!!!」



 直後、引き裂かれるような絶叫が晴の喉から迸った。







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