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19話 運命の時



「皆さん、初めまして。私が――空野ことりです」



 それはことりが唯一、視聴者の前に素顔をさらした最初で最後の瞬間だった。

 AIアバターではない。生身の人間が、自分の顔と声で発する警告。

 それだけで、コメント欄を流れていた軽薄な空気は一変した。


 画面に映るのは、まだ十代の少女だ。

 頭痛がひどいせいか、目元には濃い隈ができている。

 それでもうるんだ瞳だけは、必死にこちら側を見ていた。



「こんな現実味のない予知、信じてもらえないのは分かっています。……だけど」



 ことりは震える手でスマホを支えながら、言葉を絞り出す。



「お願いです。嘘でもいい。詐欺でもいい。今だけは、わたしに騙されてください」



 その声は、学校で。

 職場で。

 役所の一室で。

 それぞれの日常の真ん中にいた人々へ届いていた。



「あとでいくらでも笑ってくれていい。罵ってくれていい。訴えるっていうなら、裁判だって受けます。だから今は……お願い。大きな揺れに備えて。そのあと津波が――!」



 言い切る寸前、ことりの表情が崩れた。頭の奥を鋭い痛みが貫く。


「く……っ」

 

 血管を内側から無理やり引きちぎられるみたいな激痛。

 ことりの指からスマホが滑り落ちる。


「ことりちゃん!」


 茉莉がとっさに飛び込み、その体を支えた。そこで配信はいったん途切れ、画面には『しばらくお待ちください』の文字だけが残る。

 それでもコメントは止まらなかった。




 まさかの顔バレ?

 案外かわいいじゃん

 いや、これすらフェイクかもしれん




 最初はことりの容姿に関するコメントが圧倒的だった。

 しかしすぐに流れは変わる。




 でもさすがにあの必死さは演技に見えなかった

 私、今から避難所行く

 俺もう家出た

 揺れには間に合わなくても、高台には行けるかもしれない

 とにかく頭守れ!




 ことりのメッセージが届き、本格的に避難する者が増え始めた。

 しかもただ逃げるだけじゃない。誰かが、当然のように防災情報を書き込む。




 倒れた電柱と切れた電線に注意!

 家を出るならブレーカー落とせる人は落として! 通電火災防止!

 近所のお年寄りにも声かけて!

 海沿いの人はとにかく高台へ!

 車は渋滞するから歩けるなら歩いて!




 一つの声が、別の声を呼ぶ。

 避難の呼びかけは、いつのまにか助け合いの情報共有へ変わっていった。

 こういう時の連帯感の強さは、日本という国独特のものかもしれない。

 震災を何度も経験してきた国だからこそ、いざという時に差し出される知恵と善意がある。

 後にわかることだが、この時すでに政府内でも緊急の防災対策チームが立ち上がり始めていた。省庁や自治体が、水面下で慌ただしく動き出していたのである。


「ことりちゃん、しっかりして!」

「……っ、い、たい……」


 その頃、肝心のことりは押し寄せ続ける予知に苦しんでいた。茉莉はその手を強く握り、必死に声をかける。


「大丈夫。あたしがそばにいるから。とにかく家具から離れよう。狭くて丈夫な場所探すよ」

「……うん」


 ふらつくことりを肩で支えながら、茉莉は今は空き室となっている物置部屋を目指す。窓ガラスが少なく、倒れてくる家具のない場所へ。



 外は異様なほど静かだった。

 ついさっきまで耳についたカラスの声がしない。

 野鳥の羽音も消えている。

 風まで息を潜めたみたいだった。

 そして――





 九月十四日、十三時四十二分。


 とうとう、その時はやってきた。





      ◇◆◇





 最初に来たのは、窓ガラスをびりびり震わせる、ごく小さな揺れだった。

 一本松市民ホールで避難誘導をしていた晴は、その違和感に顔を上げる。

 ――来た。

 そう思った次の瞬間には、もう、ぐらり、と世界がひしゃげていた。



「うわ……っ!」



 大きな横揺れが、地面そのものを掴んで振り回す。思考が追いつくより先に、平衡感覚が消え失せた。

 地面がまるで意思を持った巨大な生き物のように跳ねる。立っていることなんて、物理法則が許してくれない。

 悲鳴が、あちこちで一斉に弾けた。


「きゃああああっ!!」

「うわあっ!?」

「地震だああぁぁーーっ!!」


 どこかでガラスが砕ける音がした。

 立っていられない。

 立っているという当たり前の行為が、突然この世から奪われる。


 震度七。

 マグニチュード八・五。

 後にニュースはそう数字にするのだろう。

 けれどその只中にいる人間にとって、それは数字なんかじゃない。

 ただの理不尽な暴力だった。


「父さん!? 父さん!」


 晴が叫ぶと、すぐ近くにいたはずの秀樹は少し離れた場所で頭を抱えてしゃがみ込んでいた。

 そのそばでは、父の秘書が倒れた看板の下敷きになって呻いている。

 それだけじゃない。

 大きく傾いたホールの壁面。

 遠くから重なって聞こえ始めるサイレン。

 地面に転がったスマートフォンが、虚しく緊急地震速報の音を鳴らし続けている。


「助けてくれぇ!」

「誰か、誰かぁ!」


 晴は呆然とする。

 地面がこれほど暴れていては、一歩踏み出すことさえ命懸けだ。

 人々は重力に圧されて地面にしがみつき、この世の終わりみたいな激震が過ぎるのを、ただ待つことしかできない。


「父さん……!」


 揺れる視界の向こうで、秀樹がうずくまっている。

 さっきまで拡声器を握り、人々を見下ろすように指示していた男が、今はみっともなく地面に張りついていた。


 さらに足元のアスファルトは硬い無機物であることをやめ、まるで荒れ狂う海面のように波打つ。

 すぐ近くで倒れた街灯の影に蹲り、名前を叫びながら泣きじゃくる子供の声が聞こえる。

 崩れたレンガの壁に脚を挟まれた男が、血の混じった呻き声を上げながら必死に足掻いている。


「誰か手を貸して! お願い、誰か……っ!」

「おかあさん、おかあさーーーんっ!」

「いやぁぁぁーーーっ!」


 晴は顔を上げた。

 助けなきゃいけない。

 急がなきゃいけない。

 頭ではわかっている。

 しかしこの揺れの中で、晴はあまりに無力だった。


 そしてあっという間に、街は崩壊していった。



     ◇◆◇



 その頃。

 別宅でも、ことりは狭い物置の中でしゃがみ込み、必死に息を整えていた。茉莉が覆いかぶさるようにして、その体を守っている。

 地面が揺れるたび、頭上の瓦がガタガタと大きく鳴った。


「ことりちゃん、大丈夫!?」

「……っ、まだ……終わってない……!」


 ことりの声は、震えていた。

 大地が揺れるのと同時に、さらに別の光景が脳裏へ流れ込んでくる。


 水だった。

 黒く、速く、容赦のない水。

 道路を呑み、車をさらい、人を押し流していく巨大な壁。

 さっきまでそこにあった街並みが、まるごと引きちぎられていく。


 ことりの目が大きく見開かれる。チリチリと指先が痺れる。


「ことりちゃん?」

「津波……」


 次の瞬間、ことりはほとんど悲鳴のように叫んだ。





「第一波が、来る……っ!」






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