17話 最悪の予知
……ただ、誰かを助けたかった。
目の前の誰か一人を救えて『よかったね』と笑えれば、それで充分だった。
救世主になんて――
なりたかったわけじゃない。
◇◆◇
「いってらっしゃい」
九月十四日の朝。ことりはいつものように門まで見送りに出てきた。
しかし今日は少しだけ様子が違った。
夏の終わりとは思えない強い日差しの下で、ことりの顔色はどこか青白い。
晴もまた、朝から妙に気分が晴れなかった。まるで胃の中に小さな石でも詰め込まれたようで、理由のない息苦しさが抜けない。
「お前も今日はゆっくり休んでろよ」
「うん、そうする」
短いやり取りだけで会話は途切れた。
ぎこちない空気のまま、晴は家を出る。
空は抜けるように青かった。雲ひとつなく、頭上から降る光が街中をくっきり照らしている。
今日も暑くなりそうだ。誰もがそう思うような、ただそれだけの朝だった。
◇◆◇
「陽葵、大丈夫かなー。な、帰りに見舞い行かね?」
朝の通学路の途中。ガクトが欠席中の陽葵を、やたら心配していた。対する晴は、どこか気もそぞろだ。
「うん……」
「なんだよ、晴も元気ねーな。夏風邪?」
「別に……」
「ほら、元気出せって」
ずいっと差し出されたのは、ガクトの母親の手作り弁当だった。
「うちの母ちゃんの愛を分けてやる! 美味すぎて一発で回復するぞ。晴だけ特別だからな!」
あまりにもいつも通りな調子に、晴は少しだけ口元をゆるめた。
こういう時、ガクトの能天気さはありがたかった。何も考えず笑っていられるその明るさが、少し羨ましい。
本当ならその日も、何でもない一日になるはずだった。
晴は学校で授業を受ける。
ことりは家のリビングのソファで休んでいる。
茉莉はAIを使って、また何か儲けている。
プール熱で発熱中の陽葵は、自室のベッドで熟睡していた。
幼稚園、小学校、中学校。
近所のスーパー。
駅前のカフェ。
公園。
デイケアホーム。
道路工事の振動。
電車の走る音。
軒先で鳴る風鈴。
会社で働く人。
家で家事をする人。
河川敷をランニングする若者。
盆栽をいじる老人。
飼い猫と日向ぼっこする老婦人。
誰もがそれぞれの場所で、いつも通りの昼を過ごしていた。
ただひとつ奇妙だったのは、鳥たちの気配だ。
カラスが落ち着きなく鳴き交わし、下水道を這いまわっていたねずみが、何かに追われるように一斉に逃げていく。
街の喧騒に埋もれてしまいそうなほど小さな異変。
しかし生きものたちはもう、何かを感じ取っていた。
最初に気づいたのは、言葉を持たない者たちだった。
◇◆◇
「あ……っ」
昼過ぎ。
リビングのソファで横になっていたことりの体が、唐突に跳ねた。
ノートパソコンに向かっていた茉莉が顔を上げる。
ことりは何かに引きずり起こされるように身を起こした。
次の瞬間、両手で頭を押さえ、その場に崩れ落ちる。
「あ、あぁぁぁーーーーーっ!!」
「こ、ことりちゃん!?」
それは悲鳴というより、絶叫に近い声だった。
茉莉は椅子を蹴るように立ち上がり、慌てて駆け寄る。
ことりはみるみる汗に濡れていった。
こめかみの血管が浮き、肩が細かく震えている。
呼吸が乱れ、目は充血して、今にも血がにじみそうなほど赤い。
「あ、頭……痛いっ、なに、これっ!?」
「きゅ、救急車っ!」
茉莉が慌ててスマホに手を伸ばしかけた。が。
「ま、待ってマリリン……!」
掠れた声が、それを止めた。
どくどくと脈打つ音が、頭の内側から響いてくる。
視界の奥へ、映像が濁流みたいに押し寄せた。
割れる地面。
傾くビル。
潰れる家。
泣き叫ぶ人。
車ごと呑まれていく道路。
黒煙。
炎。
水。
水。
水。
今までの予知とは比べものにならなかった。
一人や二人じゃない。十人でも、百人でもない。
数えることすらできないほどの死が、まとめてことりの頭の中へ叩き込まれてくる。
「あ……あ、あ……」
喉がひくつく。
息を吸っているのに、空気が足りない。
苦しい。
でもそれ以上に、心が痛くて千切れそうだ。
「死んじゃう……」
見開いた目のまま、ことりは震える唇を動かした。
「みんな、死んじゃう……っ!」
ありとあらゆる最期が、容赦なく流れ込んでくる。
脳の回路がショートして、そのまま焼き切れそうだった。
「じ、地震……っ」
「え?」
「大きな、地震……来る……っ。関東と、その周り……時間、は……」
高速で流れる車窓の景色の中から、たったひとつの標識を探すみたいだった。
ことりは涙で滲む視界の中、必死にその“時”を拾う。
「た、多分……あと一時間と少し」
「嘘でしょっ!?」
茉莉の顔から血の気が引いた。
これまでもことりは小さな予知で何人も助けてきた。
SNSのチャンネルも、その積み重ねの上にある。
けれどこれは違う。
重さが違う。
規模が違う。
一人の少女に背負わせていいものじゃない。
「ほ、本当に間違いないの? そんなに大きいの!?」
「わ、わかんない。でも人がたくさん死ぬのが見える……。建物が壊れて、津波が来て、火事も……」
「ここも? この家もやばかったりする?」
「……多分、ここまで津波が来る」
「!」
その言葉で、茉莉はきっぱりと迷いを捨てた。
「避難しよう。急いで」
「え」
「少し離れた高台におじいちゃんが使ってた別邸があるの。あそこのほうが、まだまし」
茉莉はすぐにパソコンの電源を落とし、必要なものをバッグへ詰め込み始めた。手は震えていたが、動きに無駄はない。
「待って、晴は? 陽葵くんも、パイセンも……他のみんなにも知らせなきゃ!」
「わかってる! でもまずことりちゃん自身が無事じゃなきゃ何もできないでしょ!」
強い口調だった。
その奥にある焦りも恐怖も、ことりには痛いほど伝わった。
「とにかく安全な場所へ行く。あたしは準備するから晴くんに連絡して。チャンネルもスマホと連動させて」
「う、うん……!」
ことりは震える指でスマホをつかんだ。
連絡先を開き、晴の名前を押す。
一コール。
二コール。
三コール。
時刻は十二時三十二分。
学校なら、もう昼休みに入っているはずだ。
(早く出て、晴……お願い……!)
一秒が異様に長かった。
耳元で鳴る呼び出し音が、永遠に続くように思えた。
一方その頃、晴は購買部の前にいた。
昼食用のパンを選んだところで、制服のポケットの中のスマホが震える。
「おう、ことりか。どうし――」
『晴、地震っ!』
切羽詰まった叫びが、鼓膜を打った。
晴は思わず動きを止める。
「な、何?」
『大きな地震が来るの! 関東一帯が壊滅するくらいの……急いで避難しないと、大勢の人が死んじゃう!』
「ちょ、待って。何だよそれ……関東が壊滅?」
ことりの言葉をそのまま反芻した声が、情けないほど上擦る。
視線を窓の外に移せば、そこには青空が広がっていた。
まっすぐ伸びた飛行機雲。
校庭から聞こえるサッカーをしている生徒たちの笑い声。
あまりにも平和で、あまりにもいつも通りだった。
こののどかな景色が、もうすぐ終わる? 壊される?
疑心暗鬼になるのは、当然だった。
「お、お前を信じてないわけじゃない。でもそれ本当か? 大勢の人ってどれくらい?」
『わかんない。でも建物が崩れて、津波が来て、火事も起きて……っ、いた……!』
「おい、大丈夫か!?」
電話の向こうで、ことりが息を詰まらせる。
予知の際に発現するいつもの頭痛だろう。
それを聞いた瞬間、晴の背中に冷たいものが走った。
「……本当、なんだな」
『間違いだったら、いいのに……』
「うん。そっちのほうがいい」
晴はスマホを握り直した。手のひらがじっとりと汗ばむ。
慌てて人目を避けて、近くの男子トイレの中に駆け込んだ。
「でも外れてもいい。何もしないよりましだ。お前は叔母さんと一緒に安全な場所に逃げろ」
『うん。マリリンが準備してる』
「チャンネルでも発信してくれ。みんなに高台へ逃げろって」
『信じてもらえるかな。さすがに今回は……』
ことりがほんの少しだけ弱気になるが、晴はそれを押し返すように言った。
「信じてもらえなくてもいいだろ」
『晴……』
「外れたら後で笑われればいい。とんでもない誤報だったって。けど、地震が本当に来たら、笑い事どころじゃすまない」
「…………」
数秒の沈黙。
それから、ことりの息遣いがわずかに落ち着いた。
『……うん。そうだね』
「俺も動く。学校全体に避難するよう放送してもらう。川成先輩にも相談する」
『気をつけて!』
「お前もな!」
通話を切る。
ほぼ同時に、ことりのチャンネルの配信通知が届いた。
『みんな、落ち着いて聞いて。これから一時間以内に、関東とその近辺に大きな地震が来ます』
震える声だった。
それでも逃げずに視聴者に向けて、必死に訴えかけていた。
昼休みの時間帯で休憩中の視聴者が多かったのか、コメント欄が一気に流れ始める。
地震?
マジ?
高台行ったほうがいいの?
いや大げさだろ
でもこの子、前にも当ててたよな?
津波くるとしたらどこまで来るんだよ
反応は真っ二つだった。
信じる者と、鼻で笑う者。
当然だ、と晴は思う。
こんな話、簡単に受け入れられるはずがない。
しかしもう立ち止まっている時間はなかった。
晴は男子トイレを出て、廊下をまっすぐに走りだす。
明日香の教室へ――
いや、その前に職員室か。放送室か。誰に言えば一番早い。
考えが頭の中で暴れ回る。
階段を駆け上がった拍子に足先が引っかかり、危うく転びそうになった。
心臓が喉元までせり上がる。
(やばい、やばい、やばい……!)
悪寒が背筋を走った。
視界がぐらりと揺れる。
それでもここで立ち止まるわけにはいかない。
これはことりがくれた最大のチャンスなのだから。
日本全体を揺るがす大震災まで――
残り、約一時間。




