16話 1日前
楽しかった夏休みは終わり、季節は新学期へと移っていた。
九月十三日。晴の誕生日から、もう二か月が経っていた。
空は高く澄んでいて、吹き抜ける風にはまだ少しだけ夏の名残がある。けれど蝉の声はもう盛りを過ぎて、どこか遠くなっていた。
「宮永くん」
昼休み。教室の後ろの扉の方から、涼やかな声が飛んできた。
晴が顔を上げると、そこには明日香が立っていた。窓から差し込む午後の光が眼鏡のレンズに反射して、一瞬だけ表情が読めなくなる。
「川成先輩。どうしたんですか?」
「松木くん、今日お休みなの?」
言われて、晴はスマホを取り出す。
「なんか優愛ちゃんから、プール熱?とかいうのうつされたみたいで」
メッセージ画面を見せると、そこには陽葵から送られてきたやりとりが表示されている。
『優愛は症状軽くてすぐ完治したのに、俺、死んだ』
添付された画像には、38.4℃を示す体温計。
「……本当に死にそう」
「多分今週いっぱい潰れてるかと」
「仕方ないわね」
ため息混じりの返事。けれど晴は、その言い方が以前より柔らかいことに気づいて、思わずニヤニヤしてしまう。
「な、何よ」
「いや。いい奴でしょ、陽葵」
「……」
「軽そうに見えて、実は芯がしっかりしてるし。面倒見もいいし、気も回るし」
晴はなぜか親友の長所を力説し始めた。
明日香の頬がほんのり赤くなる。
「……わかってるわよ、そんなこと」
「ならよかった」
晴がうなずくと、明日香はばつが悪そうに踵を返した。
そしてそのまま去っていくかと思われたが……。
数歩歩いたところで立ち止まり、神妙な顔で振り返る。
「宮永くん、松木くんに感謝しなさいよ」
「……は?」
あまりに唐突な言い分で、間の抜けた声が出る。
明日香の意図がまるで見えなくて、晴は首を傾げた。
「いくら感謝しても、し足りないくらいでしょ」
「そりゃ……まあ」
確かにこんなに長く腐れ縁を続けてくれる友達なんて、そうそういない。
昔からずっとそばにいて、気楽で、くだらないことで笑えて、でも必要な時にはちゃんと隣にいてくれる。
改めて言われると、陽葵ってかなり貴重な存在なのかもしれない。
対する明日香は、それ以上何も言わなかった。
何かを飲み込むように唇を結び、「じゃ」とだけ残して、今度こそ足早に去っていく。
晴はその背中を見送りながら、思わず眉をひそめた。
(なんなんだ、今の間……)
言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいのに。
そう思うのに、明日香のあの表情が妙に引っかかった。うまく言葉にできない違和感だけが、胸の奥に小さく残る。
その時、スマホが震えた。
画面を見ると、ことりからメッセージが届いている。
『ごめん、晴。帰りに薬もらってきて』
短い文面だった。
◇◆◇
その頃宮永家では、ことりがまた頭痛に悩まされていた。
リビングでは茉莉がノートパソコンを開き、チャンネルの管理画面とにらめっこしている。
明日香の忠告を受けて、最近は未来予知と直接関係のない雑談や、あえてハズレの予知も混ぜて投稿するようにしている。しかしそれで視聴者の熱が冷めるどころか、むしろ注目は高まる一方だった。
ことりん、応援しています!
宝くじってどこで買えば当たりやすい?
事故とか死に関する予知ばっかりだけど、明るい未来とかは見えないの?
流れていくコメントを見ながら、茉莉はことりを振り返った。
「未来予知の代償とはいえ、頭痛の頻度、多すぎだね」
「ダイジョブ。薬飲めば」
ことりはそう言って、救急箱の中に残っていた最後の一錠を取り出した。水で飲み込み、空になったシートを見下ろしてから、ソファへ身を預ける。
けれど今日はいつもより効きが悪いのか、それとも単純に限界が近いのか。
「……なんか、だる」
背もたれにもたれたまま、きつそうに目を閉じた。
「一回ちゃんと病院で診てもらった方がいいよ」
「……うん」
「ことりちゃんが病院嫌がる理由もわかるけど」
茉莉の一言に、ことりのまぶたがぴくりと動く。
病院。診察。問診。名前。住所。保護者。
そういう言葉の先にあるものを想像するだけで、胃の奥がきりきりした。
茉莉は少し迷うように視線を落として、それからぽつりと続ける。
「それと、こんな口出しするのもどうかと思って黙ってたけど……一度ちゃんとお母さんに連絡を取った方がいいと思う」
「え」
「たった一人の家族、なんだよね?」
「……」
答えられなかった。
母。
その存在を思い出すだけで、自然と体が竦んでしまう。
ことりが黙り込んだのを見て、茉莉は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「聞かれたくないことだってわかってるよ。本名とか、本当の住所とか。まだあたし達が知らないこと、いっぱいあるもんね」
「マリリン……」
……そう。今まで晴も茉莉も、無理やりことりの素性を暴こうとはしなかった。
知りたくないはずがないのに。聞きたいことなんて、きっと山ほどあるはずなのに。
それでも何も言わず、ここにいていいと言ってくれた。
それは二人の優しさだ。
ことりはその優しさに甘え、どっぷりぬるま湯に浸かっている。
「いいんだよ、わかってる。あたし達を信用してないわけじゃないって」
「……うん」
「話したくなった時に話してくれればいいよ」
ことりは何も返せなかった。
返したら泣きそうだった。
茉莉はそれ以上追及せず、再びパソコンへ向き直る。
ことりはしばらく黙ってその横顔を見ていたが、やがて小さく口を開いた。
「……ありがと、マリリン」
「うん?」
「そんなに長くは……待たせないと思う」
「そっか」
茉莉はそれだけ言って、振り向かずに少しだけ笑った。
ことりはスマホを手に取る。
連絡先一覧の中にある、『母』の文字を開く。
たった二文字なのに、ボタンを押そうとすると指先が冷たくなる。
「……っ」
ことりは結局、スマホを閉じた。
まだ最後の勇気が出なかった。
◇◆◇
放課後、晴は宇崎医院へ向かった。
ことりの頭痛薬をもらうだけだ。すぐに済むそう思っていたのに、医院の前まで来たところで足が止まる。見覚えのある黒塗りの公用車が停まっていた。
(父さん……)
条件反射のように、手のひらにじっとりと汗が滲んだ。
そしてちょうどその時、医院の玄関から父・秀樹が秘書を連れて出てきた。後ろには宇崎もいて、にこやかに見送りに出ている。
「助かるよ、宮永。お前のおかげですんなり土地も借りられた」
「市としても、遊休地を放置しておくメリットはないからな」
秀樹は淡々と答える。
「……その代わり、頼むぞ」
「わかってる」
何の話をしているのかはわからない。
けれど二人の間には、いかにも同級生らしい親し気な空気が流れていた。
ふと視線を動かせば、医院の前には新しい看板も立っている。
『医院移転のお知らせ 宇崎医院が新しく生まれ変わります!』
明るい色使いのポップなデザインが、今はなぜか鼻についた。
「やあ、晴くん」
宇崎がこちらに気づき、人のいい笑みを浮かべた。秀樹もそれにつられるように振り返る。外向きの顔だ。人前では、ちゃんと穏やかな父親を演じる。
「また薬かい?」
「……はい。もうなくなっちゃって」
「わかった。少し多めに処方しよう」
宇崎はそう言って医院の中へ戻っていく。
その背中を見送った後、秀樹がちらりと晴を見た。
「晴、聞きたいことがある」
「……はい」
「この前の、あの女子高生……」
父はスマホを取り出し、画面を晴に向ける。
そこに映っていたのは、ことりのチャンネルだった。
「もしかしてこれに関係あるか」
「……っ、どうして……」
声が裏返りそうになるのを、どうにか押しとどめる。
秀樹は秘書から少し距離を取り、晴だけに聞こえるよう声を落とした。
「星追市に関する予知が多いと、市民から問い合わせが来てな」
「信じてるんですか、こんなお遊びみたいな動画」
晴は必死で何でもない風を装った。
信じるな。どうせインチキだと軽く聞き流せ。
だが秀樹はそんな晴を馬鹿にするかのように、鼻で笑った。
「信じる信じないはどうでもいい。利用できるものは利用する。何かあったらすぐ俺に知らせろ」
その言い方に、また目の前が暗くなる。
父にとってことりもまた、ただの“使える道具”なのだ。
「いやだと言ったら?」
「思い上がるな」
秀樹の目が冷たく細められる。
「お前は死んでも、宮永の家からは逃げられない」
まるで古い傷口に、鋭利な刃を押し込まれたようだった。
父はそれだけ言い残し、秘書を従えて公用車へ向かった。
ドアが閉まる音、エンジン音、静かに遠ざかっていく車体。
全部が現実感を伴わないまま、耳だけに残る。
晴はしばらく、その場から動けなかった。
もう平気だと思っていた。
父の支配なんて少しずつ振りほどけていると思っていた。
ことりや陽葵達と過ごすうちに、自分は前より自由になれたのだと、どこかで淡い期待を抱いていた
なのに――
やはりまだ自分は父の呪縛の中にいる。
その事実だけが、重く心に圧し掛かる。
晴は医院の前で立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。




