15話 永遠の夏休み
先日の衝突以来、定期的に本宅へ顔を出していた父は、ぴたりと姿を見せなくなった。
それが晴にとって救いだったのかどうかは、自分でもよくわからない。
ただ少なくとも家の空気は、以前よりずっと穏やかになった。
眩しい夏の日差しが庭を照らし、宮永家の花壇ではひまわりが大きく咲き誇っている。青空へ向かってまっすぐ伸びるその姿は、見ているだけで暑さが増しそうだ。
そしてその頃には、ガクトや陽葵が勉強会と称して宮永家を頻繁に訪ねて来るようになっていた。
「はあ~、エアコン最高。生き返る……」
「他人の家を避暑地がわりにするな」
リビングのソファで大の字になっているガクトの額を、晴は軽く小突いた。
ローテーブルには参考書やノート、タブレット端末が広げられている。
各自ばらばらに勉強しているようで、誰かが何か言えばすぐ脱線する。
そんな真面目なのか不真面目なのかわからない空気が心地よかった。
「みんなー、休憩しよ!」
ぱたぱたと軽い足音を立てて、ことりがキッチンから戻ってきた。
両手にトレーを抱え、その上には氷のたっぷり入ったグラスがいくつも並んでいる。
白地に小さな花柄のワンピース。肩口がふわりと揺れて、夏の光をそのまままとってるみたいだった。
晴はその姿を見ただけで、妙に落ち着かなくなる。こんなふうにドキッとすることが最近増えている。増えているくせに、慣れる気配はまるでない。
「それにしても意外だったなー」
そしてグラスを配りながら、ことりがニマニマと下座に視線を向ける。
その先に座っていたのは、なぜか陽葵達同様この家へ来る頻度がじわじわ増えている明日香だった。
「パイセンまで、うちに入り浸るようになるなんて」
「入り浸ってません」
今日は眼鏡をかけている明日香が、きっぱりと言い切る。
指先でブリッジを押し上げる仕草まで、やけに様になっている。
「私はただ茉莉さんから学びたいことがあるだけ」
「そういえば先輩、エンジニア志望でしたっけ」
「そう。茉莉さんの技術は素晴らしいもの。とても勉強になるから」
「そんな大したもんじゃないけどね。気になることあったら何でも聞いて」
茉莉の前にはノートパソコンが開かれていて、その画面にはことりのチャンネルページが映っていた。
「……そろそろ五万人、いくんじゃない?」
「バズってるなー。もう立派なインフルエンサーじゃん」
陽葵が感心したように画面をのぞき込み、ガクトも隣から首を突っ込む。ことりは皆の顔を見回して、嬉しそうに笑った。
「みんな、ありがとね」
「ん?」
「わたしのこと、信じてくれて」
その声音にはいつもの明るさとは別に、少しだけ本音が混じっていた。
この力のせいで、ことりはこれまで何度も人に遠ざけられてきたのだろう。気味悪がられたり、利用されそうになったり、あるいは期待されすぎて傷つけられたり。
細かいことを全部知っているわけじゃない。でも少なくとも“普通”に受け止めてもらえなかった時間が長かったことくらいは、晴にもわかる。
「そんなの当たり前だよ」
「気にしないで、ことりちゃん!」
「私はまだ胡散臭いと思ってるけど」
「パイセン、ひどっ!」
ことりが頬をふくらませる。だが明日香はそこで笑わず、真剣な目つきになった。
「ただここまで高い的中率っていうのは、逆にかなり危ういと思う」
「え?」
ことりだけじゃない。場の空気が、すっと切り替わる。
明日香は眼鏡の奥の目を細め、静かに言った。
「俗に有名な予言だの予知だのの的中率って、どれくらいか知ってる?」
「ううん」
「高く見積もっても10パーセントから20パーセント程度って言われてる。しかもその中身には曖昧な解釈とか後付けもかなり含まれてる。実際はもっと低いはず」
晴は思わず、パソコン画面に視線を落とした。
そこに並ぶ動画の一つ一つは、間違いなく誰かを救ってきた。
小規模な事故の回避、危険地域への注意喚起、わずかな時間差で助かった命。
ことりが一人でも助けたいと願ってやってきたことの積み重ねだ。
けれど。
「それだけ低い的中率でも、人は予言や予知を簡単に信じて、すがる。ミレニアム信仰って言葉もあるくらい」
「……」
「今のチャンネルは予知の的中率100パーセント。つまりそれだけ視聴者が熱狂しやすい。言葉は悪いけど、どんどん宗教みたいになっていく可能性がある」
誰もすぐには口を開けなかった。
エアコンの風の音だけが、妙に耳につく。
「問題は救われる人と救われない人が出てくるってこと。“どうして自分の家族の死を予知してくれなかったんだ”――そう思う人が出てきたら、怒りや憎しみの矛先が空野さんに向くかもしれない」
晴とことりは、ほとんど同時に息を呑んだ。
それはことりの母親が、口にした言葉だったからだ。
「……川成さんの指摘はもっともだね」
沈黙を破ったのは茉莉だった。
いつもの軽い調子は消え、どこか悔しそうに唇を噛んでいる。
「ごめん。あたしがもっと早く気づくべきだった。SNSってさ、善意も拡散するけど、悪意とか加虐心もすごい勢いで増幅するから」
「マリリン……」
ことりはうつむいて、ぎゅっとスカートの裾を握る。
「わたしはただ……一人でも助けられたらって思っただけなんだけど」
その声が、少しだけ震えていた。
晴は考えるより先に手を伸ばし、くしゃ、とことりの頭を撫でる。
「別に有名になりたいわけじゃないってわかってる」
「……晴」
「小さい奇跡でも、それが続けばことりは嬉しいんだよな」
「うん」
「なら、それでいいだろ」
本当はそれだけで済まないことも、晴だってわかっている。
明日香の言葉が正しいことも。
これから先、もっと面倒なことになるかもしれないことも。
でも今はそんな厳しい現実を、ことりに突きつけたくなかった。
そして見つめあう晴とことりを見て、陽葵が意地悪な質問をする。
「お? その雰囲気、とうとう二人、付き合い始めた?」
「い、今そういう話してるんじゃないだろ!」
「あれ、否定しない」
「ご想像にお任せしまーす」
ことりがぺろっと舌を出す。晴の頬に、一気に熱が集まった。
そして緊張した空気が霧散して皆が一斉に笑い出した――その時。
ぷるる。
陽葵のスマホが震えた。待ち受け画面を確認した陽葵は、すぐさま相好を崩す。
「あ、ごめん。これからデート」
「え」
何気ないその一言に、明日香の動きが止まる。
晴はその反応を見逃さず、わざとらしく声を上げた。
「もしかして優愛ちゃん?」
「え、なに陽葵くん彼女できたの?」
ことりが明日香と陽葵を交互に見比べて、険しい顔つきになっていく。
「パイセンの女心弄ぶようなら、さすがに許せないんだけど?」
「ちょ、空野さん……っ」
「誤解だって、ことりさん」
陽葵が慌ててスマホ画面を見せる。待ち受けには小さな女の子が映っていた。
「優愛は俺の妹。五歳。これから『メロンメロンちゃんと虹色のキャンディー』観たいって言っててさ」
「妹!?」
「一回り離れてるんだよ。可愛いのなんのって」
陽葵は急にデレデレし始めた。
明日香がわかりやすくホッとしているのを見て、ことりはじっと彼女の横顔を見つめる。明日香は視線に気づくと、こほんと咳払いした。
「べ、別に私は何も」
「じゃあ、わたしもそれ行く! メロンメロンちゃん!」
「じゃ、オレも!」
ことりと一緒に挙手したガクトに、晴は遠慮なく突っ込む。
「ガクトは絶対別の目的だろ」
「失礼な。純粋に虹色キャンディーが気になるだけでーす」
茉莉が呆れたように笑いながら、ノートパソコンを閉じた。
「あたしはこれからチャンネルの運営方針を考え直すから、みんなで行ってきなよ」
「やったー!」
そうしてなぜかその後全員で、幼児向けアニメ映画を見に行くことになった。
◇◆◇
松木家の前で待っていたのは、陽葵の妹・優愛だった。
「こんにちは、まつきゆあです!」
ぱっと花が咲くような愛らしい笑顔に、ことりと明日香はすぐにメロメロになった。優愛はお出かけ用のピンクのワンピースを着ている。
「うわ。さすが陽葵くんの妹。超かわいい~!」
「本当に……」
「にいに、はやく! いっしょにおでかけだよ!」
「はいはい」
小さな女の子に手を引かれ、でれでれする陽葵を見て、晴とことりは同時に笑った。
ちなみにその後観た映画は幼児向けとは思えないほど面白くて、上映後にことりはすっかりメロンメロンちゃんのファンになっていた。
◇◆◇
それから八月の終わりまで、晴達は夏休みを満喫した。
カラオケに行って、明日香が思いのほか歌が上手いことを知った。ちなみに陽葵は超絶音痴だった。……イケメンにも弱点はある。
ショッピングモールでは、ガクトが似合いもしないサングラスをかけてはしゃぎ、陽葵は優愛へのお土産を買うのに悩み、明日香はパソコンショップに長居した。
陽葵の提案で、優愛を連れた六人でキャンプもした。
定番のカレーを作ってみんなで食べ、夜にはみんなで星を見上げ、取り留めのない話をした。
将来のこと。好きなもの。苦手なもの。昔の失敗談。今なら笑える痛い思い出。
「はい、みんな笑って、笑ってー」
「1+1はーーー?」
「2ーーーー!」
キャンプの最終日にはみんなで記念撮影をした。
それは今まで晴が知らなかった種類の時間だった。
誰かと一緒に出かけて、笑って、くだらないことで騒いで、日が暮れるのを惜しむように帰る。
多分それは、世の中の大半の人間にとっては当たり前の青春なのだろう。
けれど晴には、ずっと縁がないものだと思っていた。
だからこそ時々怖くなる。
こんな時間が、一体いつまで続くのだろう……と。
◇◆◇
夏休み最後の締めくくりは、海岸線で開かれる花火大会だった。
支度を終えたことりが部屋から出てきた瞬間、晴は息をするのを忘れた。
淡い水色の浴衣に、白い朝顔の柄。桃色の帯は茉莉が結んだのだろう、後ろで花のようにふわりと広がっている。いつもより少しだけ高い位置でまとめた髪から、白いうなじがのぞいていた。
「どう……かな?」
ことりが遠慮がちに尋ねる。
晴は口を開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。
似合ってる、なんて言葉では足りない気がした。
可愛い、なんて一言で済ませるのも違う気がした。
どうしよう。うまい言葉が全く浮かばない。
そして苦し紛れに口をついて出たのは、
「い、いいんじゃない?」
の一言だけ。
直後、バン!と茉莉に思いきり背中を叩かれた。
「もう、こういう時はちゃんときれいだよって言わなきゃ!」
「ごほっ、スイマセン……」
うなだれ気味にそう返すと、ことりがくすっと笑う。
「ありがと、晴」
「いや、だから別に」
「ふふっ」
その笑い方が嬉しそうで、晴はますますまともに目を合わせられなくなった。
待ち合わせ場所には陽葵と優愛、それにガクトと明日香も来ていた。海岸までの道はすでに人でいっぱいで、空にはまだ夕焼けの名残が薄く残っている。
「すごい人だね」
「花火大会ってこんな混むんだ……」
「優愛、手、離すなよ」
「はーい!」
「さー食べるぞー!」
屋台から流れてくる甘い匂い、じゅうぅっとソースが焦げる音、遠くで鳴る祭囃子。夏の終わり特有の熱気が、夜の手前でゆらゆらと揺れていた。
人波は想像以上に激しかった。
少し目を離した隙に、陽葵達の姿をあっという間に見失う。
「あれ、陽葵くん達、どこ……」
「ことり!」
晴は反射的にことりの手をつかんだ。
浴衣の袖からのぞく手首は細くて、驚くほど華奢なのに、つかんだ瞬間に伝わってきた体温は少し熱かった。
「絶対離すなよ」
「うん」
ことりはそう言って、今度は晴の指に自分の指をそっと絡めてくる。
その小さな動き一つで、晴の心が甘く痺れた。
人混みのざわめきも遠くの屋台の呼び声も、一瞬だけ遠のく。
意識の全部が、つないだ手に集中していた。
「あ、晴、メロンメロンちゃん!」
海岸に向かう途中、いくつかの屋台で買い物もした。たこ焼き、綿あめ。それから人気アニメのキャラクターグッズを景品にした射的もあった。
晴はことりにねだられて、射的に挑戦する。
「晴、もっと右右!」
「わかってるって!」
相変わらずことりは横でうるさかったが、晴は何度目かの挑戦でやっとお目当ての景品をゲットした。メロンメロンちゃんのキーホルダーを受け取ったことりは、嬉しそうに微笑む。
「ありがと、宝物にする」
「大げさだよ」
照れてそっぽを向くが、ことりはいつまでも嬉しそうにそのキーホルダーを手に取って眺めていた。
――どぉん!
海岸へ出ると、ちょうど一発目の花火が夜空に咲いた。
腹の底へ響く音。遅れて押し寄せる歓声。黒い空に広がる大輪の光が、海面を揺らしながらこぼれ落ちる。
「きれい……」
「……ああ」
相槌を打ちながらも、晴は花火ではなく隣に立つことりを見ていた。
花火が打ち上がるたびに七色の光が、ことりの横顔をほんのりと照らす。
夜空を見上げる輪郭、まつ毛に落ちる淡い影、わずかに開いた艶っぽい唇。
全部が夢みたいに綺麗で、胸が苦しくなる。
このままずっと隣で見ていたい。
そう思った瞬間、晴の口から本心がこぼれ出た。
「来年も……」
「え?」
「来年も、再来年も、その次の年も一緒に見にこよう」
言ってしまった、と思った。
でも、もう止められない。
「ずっとずっと、一緒に……」
そこまで口にして、ようやく自分が何を言いかけたのか気づく。
数秒遅れて、羞恥心が波のように押し寄せた。
「……やっぱ、何でもない」
逃げるように顔を背けた。
でも不意に、背伸びしたことりが近づいてきて。
やわらかいものが、頬に触れた。
ほんの一瞬。
けれど花火の光が夜空に焼きつくみたいに、その感触は鮮明だった。
世界中の音が、その時だけ掻き消える。
信じられなくて、ゆっくり振り向いた。
ことりが耳たぶまで真っ赤にしながら、笑っている。
「晴に足りないのは、大胆さだよねー」
からかうみたいな口調で誤魔化しているくせに、ことりの声はあからさまに震えていた。
多分、彼女自身もいっぱいいっぱいなのだとわかる。
「か、からかうなよ」
「からかってないよ。わたしも、本当にそう思ってる」
「……」
「来年も、再来年も、その次も。ずっと晴と一緒がいい」
花火がまた大きく開く。
轟音に紛れてしまいそうなほど小さな声だったのに、その一言だけは胸の奥にまっすぐ落ちた。
晴はつないだ手に、思わず力を込める。
ことりも同じ強さで握り返してきた。
「わたし、あの雨の日に晴に出会えて、本当によかった」
「ことり……」
「晴が見つけてくれたから、今ここにいられる気がする」
違う、と晴は思う。
見つけてもらったのは自分の方だ。
死に向かっていたあの日。何もかも終わってしまえばいいと絶望していたあの日。
ことりが目の前に現れて、手を伸ばしてくれたから、今こうして生きている。
この夏がある。
この笑顔がある。
この花火がある。
この手の温もりがある。
本当は今すぐ伝えたかった。
好きだ、と。
ずっとそばにいてほしいと。
けれど胸がいっぱいで、うまく言葉にならない。
その代わり晴はことりの手を離さなかった。
夜空では花火が何度も咲いて、何度も散っていく。
永遠なんてないことくらいわかっている。
それでもこの瞬間が終わらなければいいと願ってしまう。
まるで永遠の夏休みみたいに。
――『どうか今この瞬間だけでも、時が止まりますように』
晴はそう願いながら、ことりと並んで花火を見上げ続けた。
お気に召しましたら、ブクマ・評価などをお願い致します!




