9話 死神の見る景色
Happy birthday to you
Happy birthday to you
Happy birthday dear Haru
Happy birthday to you
宮永家のリビングに、少しばらばらな歌声が響いていた。
ことりは最初から最後まで全力だったし、ガクトは面白がって妙に声が大きい。陽葵は笑いをこらえながらもちゃんと合わせていて、茉莉は少し照れたように小さな声で歌っている。
その真ん中で、晴はどうしていいかわからず固まっていた。
ろうそくの火が揺れる。
目の前にはケーキ。
向けられる笑顔。
自分へ向けられる祝福の歌。
顔が熱い。
きっと真っ赤になっている。
こんなのいつ以来だろう。
不意に、遠い記憶が脳裏に浮かんだ。
まだ母が家を出ていく前。小学校二年生の頃。
あの頃は確か誕生日を祝ってもらったことがあった。
小さなケーキがあって、母が笑っていて、晴も少しだけ嬉しくて――
でも父が帰ってきてから全部めちゃくちゃになった。
怒鳴り声と皿の割れる音。
泣きそうな母の顔。
せっかくの「おめでとう」は、いつだって最後には台無しになる。
それが晴の記憶にある、古い誕生日の記憶だった。
「あれ、晴。もしかして感動してる?」
にまにまとした声に、晴はハッと我に返った。
顔を上げると、ことりがいかにも面白そうにこちらを見ている。
晴は慌てて視線を逸らし、そっけなく言った。
「別に、そーゆーわけじゃない。てか、なんで俺の誕生日知ってたの」
「マリリンに教えてもらった」
「え」
視線が茉莉へ向く。茉莉は少し申し訳なさそうにうつむき、懺悔した。
「ごめんね、晴くん」
「どうして叔母さんが謝るんですか」
「だってあたし、今まで晴くんのために、何もしてこなかったから」
「!」
晴は一瞬、言葉を失った。
それが何を指しているのか、わからないほど鈍くはない。
晴が父に殴られても、怒鳴られても、茉莉はずっと見て見ぬふりをしてきた。
でもそれを責めようと思ったことはない。
全部、仕方ないと思っていたのだ。
この家で生きるなら、自分の身を守ることで精一杯だったのだろう……と。
父に逆らえば、茉莉だってただでは済まなかったはずだ。
「そんなの、叔母さんが謝ることじゃ」
「ううん」
茉莉は小さく、けれどはっきりと言い切る。
「罪滅ぼしって言ったらズルいかもしれないけど……。でもこれからは晴くんの叔母として、お誕生日くらいはちゃんと祝いたくて」
「叔母さん……」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
うまく言葉にできないまま立ち尽くしていると、横からことりが大げさに胸を張った。
「ということで! ここでわたしの出番となったのだよ、はっはっは!」
「いちいちお前がでしゃばるな! つか、空気壊すな!」
思わずいつもの調子でツッコミを入れると、ことりが腹を抱えて笑い出した。
その笑顔は陽葵、ガクト、茉莉と、瞬く間に伝染していく。
「なんだよ。なんでみんな笑うんだよ」
「いや、だって晴のツッコミ、キレッキレなんだもん」
「誕生日なのに通常運転すぎるだろ!」
「うん、でもそこが晴らしいっていうかなんというか」
「陽葵、その褒め方ぜんっぜん嬉しくない」
笑い声がまた重なり、広がっていく。
いつの間にか晴も笑っていた。
でも嫌じゃなかった。
むしろこんなふうに笑える自分が、まだ残っていたことのほうが意外だった。
悪態をつきながら、晴の目にはことりの笑顔がひどく眩しく映っていた。
◇◆◇
その後は、にぎやかな食事の時間になった。
デリバリーのピザはあっという間になくなり、フライドチキンの箱も空になった。ガクトは期待通りの食べっぷりで、ことりも負けじとデザートをぺろりと平らげた。
茉莉は最初こそ緊張していたが、ことりが場をかき回してくれるおかげで少しずつ肩の力が抜けたらしい。おずおずと会話に混ざる度、いつの間にか晴の知らない顔で笑っていた。
食べ終わった頃にはみんな少し満腹で、少し気が緩んでいた。
テレビはつけっぱなしのままだ。地元局の夕方ニュースが流れていて、画面にはどこかの町のひまわり畑が映っている。
『こちらでは例年より少し早く、ひまわりが見頃を迎え――』
のどかなアナウンサーの声が部屋の隅に流れる中、ことりと茉莉が食器を持って立ち上がった。
「じゃ、片付けますかー」
「あ、俺も手伝います」
「え、松木くん、いいの?」
「はい。さすがに食べっぱなしは悪いですし」
あっという間に三人はキッチンのほうへ移動していく。ことりはもう陽葵ともすっかり打ち解けたらしく、「陽葵くん、そこ置いといて」「了解」なんて、前から知り合いだったみたいなテンポでやり取りしていた。
晴はソファから、ちらりとその背中を見た。するといきなり後ろから腕が首に回る。
「ぐえっ!?」
ガクトのヘッドロックだった。
「ことりちゃん、めちゃ可愛いじゃん。くっそー、うらやましいぜ」
「や、やめろって……!」
「オレ達に黙って、あんな可愛い彼女隠してるなんて」
「隠してない! そもそも彼女じゃないし!」
「あ、そうなの?」
ガクトは拍子抜けしたように腕の力を緩めた。
「でもさ、こんなサプライズ、特別じゃない奴には用意しないと思うけど」
「……」
どくん、と胸が高鳴った。晴は思わず黙り込む。
ガクトは単なるからかいのつもりなのだろう。でもその言葉は不意打ちみたいに晴の動揺を誘った。
視線の先では、ことりがキッチンで茉莉や陽葵と何やら話し込んでいる。手を動かしながら、時々ころころ表情を変えて、楽しそうに。
(俺、少しは……)
なんだか気恥ずかしくなって、ことりから目を逸らす。
(少しは自惚れてもいいのかな)
ことりにとって自分は、誕生日を祝うだけの価値がある人間だと、思ってもらえているのだろうか。
そう考えた刹那、胸の奥が甘く痺れる。
――ああ、違う。
ことりにとって自分が特別なんじゃない。
多分、晴にとってことりが特別なのだ。
放っておけないとか、騒がしいから気になるとか、そういう曖昧な言い訳じゃなく。
もっとずっと単純で、もっとずっと厄介な感情が、いつの間にか心の奥で芽生えてる。
――晴は唐突に自覚した。
そして晴は再びキッチンのことりに視線を戻して、ふと思う。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
そう願わずにはいられないほど、いつの間にかことり自身が晴の居場所になっていた。
だからこそ次の違和感に、誰より早く気づいた。
キッチンのほうで、ことりの動きがぴたりと止まったのだ。
(――ん?)
「…………」
さっきまで笑っていたはずなのに、いつのまにかことりの横顔から表情が消えていた。何かを見つめるように、じっとテレビへ顔を向けている。
そして次の瞬間、片手でこめかみを押さえた。
「……っ!」
『続いては、××市で開かれている夏祭りの中継です』
テレビには、地方の夏祭りの映像が映っている。
提灯の明かり。屋台の列。浴衣姿の親子連れ。賑わう人波。
ことりは弾かれたように、テレビへ駆け寄った。
「逃げてっ!!」
声の大きさに驚いて、部屋の空気が凍りついた。
ことりはテレビの画面を両手でつかみ、顔面蒼白で震えている。
「どうしたんだよ、ことり」
「晴、この中継場所に何とか連絡取れない?」
「え?」
「早く!」
「そんなの、無理だよ」
「くっ……!」
ことりは悔しそうに、床を拳で叩いた。茉莉も陽葵もガクトも、ただ状況がつかめずにを見合わせている。
「ことりちゃん、どうしたの?」
おどおどした茉莉の質問に、ことりは震えながら答えた。
「……死ぬ」
「え」
「もうすぐ、この祭りの真ん中に車が突っ込んできて……子どもとお母さんが死んじゃう」
「!」
けれどことりの言葉はまるで絵空事みたいで、すぐには誰も信じなかった。
「死んじゃうって……この画面に映ってる人が?」
「またまたぁ、なんかの映画と間違えてる?」
「一体どうしたの、ことりさん」
でも晴だけは違った。
ことりの横顔を見つめている間にも、背筋を冷たいものが這い上がる。
そうだ。
平凡な日常が続いていたせいで、忘れかけていた。
『わたし、死神なの』
あの夜、星追岬で自分が転落する未来を言い当てた。
雑居ビルの火事を言い当てた。
閉じ込められた犬の存在まで見抜いていた。
だから今回も、ことりの予知がまた現実になるんじゃないかと、晴は不安になった。どくどくと、心臓の音が大きくなる。
テレビの中では、依然として祭りの中継が続いていた。
カメラは楽しげな屋台の列を映し、アナウンサーが何か明るいことを言っている。
けれど突然、悲鳴が上がった。画面が大きく揺れ、ノイズが走る。
「きゃあああーーーっ!」
『え、ちょ、な――』
次の瞬間、大きなブレーキ音がスピーカー越しでもわかるほど大きく響き渡った。
目の前に広がるのは悲惨な光景。
祭りの見物客の列に突っ込み、大きくへこむ軽自動車。
屋台が傾く。
叫び声と泣き声。
中継マイクに乗るアナウンサーの絶叫。
『車が……車が今、こちらに突っ込んできました! 皆さん避難してください! 急いで避難を――!』
――またことりの予知が、当たってしまった。
リビングに集まった誰もが、一歩も動けなかった。
まるで時が止まったみたいに、ニュース画面に釘付けになっている。
「え……なんで……」
茉莉が声を震わせて、ゆっくりことりを見る。
信じられないものを見るような目つき。さっきまであんなに近くにいたはずなのに、急に二人の間に透明な壁が立ち塞がるみたいに。
その動きを見たことりの肩が、びくりと強張った。
爪が、ぎゅっと手のひらに食い込む。
わかっていた。また当たってしまった。また間に合わなかった。
見えていたのに、何もできなかった。
そして今、茉莉がことりを驚愕しながら見つめている。
責めているわけじゃない。ただ怖がっているだけだ。
でもそのまなざしに、ことりは嫌というほど覚えがあった。
『あんたのせいよ……』
ことりの脳裏で、ある人物の声がこだまのように響く。
普段は鍵をかけて、必死に奥へ押し込めている記憶。
開けたくない扉の向こうから、勝手に這い出して来る。
『なんで助けてくれなかったの!』
泣き叫ぶ女の顔。
自分を責める声。
憎しみをぶつける目。
ことりは恐怖で、後ずさった。
「そんな目で見ないで!」
今にも泣きだしそうな悲壮な声に、晴は素早く反応する。
「ことり!?」
駆け寄って、ことりを支えようと手を伸ばす。
けれど、その手はぱしりと振り払われた。
「わたしのせいじゃないっ!」
ことりの顔には拒絶の色が濃くにじんでいて、呼吸まで浅くなっている。
「わたし、わたしは……っ」
言葉にならないまま、ことりは踵を返した。そのまま二階へ駆け上がっていく。
「ことり!」
追おうとした晴の足が、追いきれずにぴたりと止まる。
リビングに取り残されたのは、晴と、茉莉と、陽葵と、ガクト。
テレビの向こうでは、まだアナウンサーの切迫したレポートが続いている。
長い――長い沈黙が落ちた。
まるで重力に縛られたみたいに、みんなの口が堅く閉ざされる。
さっきまで誕生日の笑い声で満ちていた部屋だけが、別の場所みたいに冷え切っていた。




