第9話 協力者ジオルドの胸中
アルヴィと結婚して、三週間ほどが経った。
契約結婚だ。そこに揺らぎはない。
俺は死を回避するために彼女の情報が必要で、アルヴィはリュクス・ジョルアンから逃げ切るために俺の立場が必要だった。
始まりは、ただそれだけの話だったはずだ。
けれど、この三週間で何度も思わされた。
彼女は、どうにも予想がつかない。
机の上には、ハックに集めさせた報告書がいくつも並んでいた。
アルヴィ・エナティについて、秘密裏に調べさせたものだ。
紙をめくるたびに出てくるのは、華やかな伯爵令嬢の経歴などではなく、ただひたすらに息の詰まるような記録ばかりだった。
エナティ伯爵家の実の娘。それは間違いない。
だが、黒髪に赤い瞳という見た目のせいで、幼い頃から気味悪がられていたらしい。
父も母も金髪に青い瞳で、妹のベッラもまた同じだった。
血筋にない色ではない。先祖返りだと説明はつく。
それでも、あの伯爵夫妻は納得しなかったのだろう。
最低限の衣食住は与えられていた。学校にも行かせてもらっていた。
だが、それ以上はない。
愛情らしいものを受けた記録は見当たらない。
社交界への顔出しもほとんどない。
伯爵家の令嬢でありながら、表舞台には立たされず、半ば屋敷の奥に押し込められるように育ってきた。
代わりにベッラはよく社交の場に出ていたらしい。
だが、あちらはどうも婚約相手を見つけるためというより、ちやほやされるために出ている気配が強い。
実際、誰とも婚約は決まっていなかった。
「……不憫な令嬢、か」
思わずそう呟くと、自分でもあまりにもそのままな感想だと思った。
だが、そうとしか言いようがない。
それなのに……。
「なぜあれほど覚悟が決まっている?」
最初に会った夜のことを思い出す。
尾行してくる気配に気づき、襲撃者かと思って路地裏に誘い込んだ。
そして実際に刃を向けた。
あの時のアルヴィは、確かに戦えていた。素人ではない。
もちろん騎士のような完成された動きではなかったが、少なくとも、何の訓練も受けていない令嬢の身のこなしではなかった。
だが、調べさせてもそういう情報は一切出てこない。
学校で剣を握っていた程度で、あそこまで動けるわけがない。
それだけじゃなく、メイドの仕事を当然のようにこなす。
掃除も洗濯も、手慣れたものだった。
公爵夫人の書類仕事も、最初から驚くほど早かった。
その一方で、社交の所作やマナーは壊滅的だ。
本当にちぐはぐだと思う。
そして、前に部屋でやっていた刺繍。
あれも気になって調べさせた。
題材にしていた花は、ただの飾り花ではなかった。
薬の材料になる種類だ、普通の貴族令嬢ならまず知らない。
「……何者なんだ、アルヴィは」
ギフテッドの未来予知。
少なくとも、それだけでは説明がつかない。
だが、同時に思う。
アルヴィは、俺に対して決定的な嘘はついていない。
全部を話していないのは間違いない。
だが、嘘を重ねて煙に巻こうとしている感じはない。
聞かれたくない部分を隠している、そういう印象だ。
それに――俺は彼女が嘘をついていたら、それがわかるはずだった。
そこまで考えた時だった。
「集中しているところ失礼するわ」
「うおっ!」
いつの間にか、アルヴィが俺のすぐ隣に立っていた。
しかも両手に盆を持っている。
カップとティーポット、それから小ぶりの皿がいくつか乗っていた。
アルヴィは少しだけ得意そうに眉を上げる。
「お茶とスイーツを持ってきたのよ」
「それは見ればわかる。なんでいきなり?」
「いきなり来たのは、前にやられた仕返し」
「……ああ」
思わず納得してしまった。
前に刺繍に集中していたこいつの横に立って、盛大に驚かせたことがあったな。
それにしても。
気配を殺して人の隣に立つこと自体、簡単なことではない。
まして、盆を持ったままやることじゃないだろう。
俺は小さく息を吐く。
「お前、本当にどこまでも掴めないな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
こいつはすぐにそう返す。
そして机の端に盆を置いた。
ふわりと、少し甘い香りが広がる。
「寝不足に効くらしいお茶を淹れてみたの。最近、夜遅くまで起きているでしょう」
たしかにここ数日は調べ物も多く、あまり寝ていない。
だが、そこまで露骨に顔に出ていたつもりもなかった。
「……よく見ているな」
「一応、夫婦ですもの」
「形だけの、だろう」
「それでもよ」
さらりと言って、アルヴィはカップに茶を注ぐ。
その手つきは危なげがない。
それから皿を一つ、俺の前に差し出した。
小さな菓子が並んでいる。見た目も悪くない。
「あと、甘いものが好きそうだったから」
「なんでだ?」
思わず聞き返すと、アルヴィはあっさり答えた。
「なんとなく」
「なんとなくで当てたのか」
「あとは、顔」
「顔?」
「ご飯を一緒に食べている時、甘いものだけは味わって食べているように見えたから」
そこまで観察されていたらしい。
俺は思わず笑った。
「公爵家で楽しく過ごせているお礼と、好感度稼ぎよ」
アルヴィが憎まれ口のように言う。
俺は菓子を一つつまみながら、呆れ半分で口を開いた。
「正直者だな」
「そっちのほうがいいでしょ?」
「はっ、確かにな」
変に媚びられるより、ずっとましだ。
しかも彼女は打算を隠す気がないくせに、そこに嫌味がないのが妙だった。
茶を一口飲む。
すっきりとした香りが喉を通った。悪くない風味だ。
「で?」
俺はカップを置いて、アルヴィを見た。
「ただ茶を持ってきただけじゃないだろう」
すると、アルヴィは少しだけ表情を改めた。
「ええ。あと、質問があるんだけど」
「何だ?」
「あなたって派閥争いでは、王族派でも貴族派でもなく、中立派よね?」
「そうだな」
それは今さら確認するようなことでもない。
だが、アルヴィは真面目な顔のまま続けた。
「どっちの派閥から嫌われている、とかある?」
「好かれているし、嫌われてもいる」
「両方?」
「ああ」
俺は椅子の背にもたれながら答える。
「エリアビル公爵家に取り入ろうと、どちらの派閥からも誘われる。俺がどちらかにつくだけで、天秤がかなり傾くからな」
「……なるほど」
「だからこそ、好かれているし嫌われてもいる。中立を保っている限り都合がいいと思うやつもいれば、邪魔だと思うやつもいる」
「そうよね」
アルヴィは考え込むように視線を落とした。
「俺が殺されるなら、俺を邪魔だと思っているそいつらが敵だろうな」
そう言うと、アルヴィは小さく頷いた。
「なるほど……」
そして少し迷うような間を置いたあと、また顔を上げる。
「ちょっと気になったことがあるんだけど――」
その質問は、俺が想定していた方向とは少し違っていた。
思わず「そこを聞くのか」と感じたくらいには。
だが、問いの筋は悪くない。
俺は一瞬だけアルヴィを見つめたあと、隠す必要もない範囲だけ答えた。
アルヴィは真剣な顔で聞き、途中で二、三度だけ小さく頷いた。
やがて質問は終わり、部屋の空気が少しだけ緩む。
アルヴィは空になりかけたカップを片づけながら、こちらを見た。
「じゃあ、もう戻るわ」
「ああ」
盆を持ち上げたところで、アルヴィがふと足を止める。
それから少しだけ柔らかい声で言った。
「良い夢を」
「ああ、お前もな」
短く返すと、アルヴィは小さく笑って部屋を出ていった。
扉が閉まって、また静けさが戻る。
さっきまでそこにいた気配だけが、まだ少し残っているような気がした。
「……面白い女だ」
距離感が妙だった。
近すぎるわけではない。かといって、壁を作っている感じもない。
必要なところではきちんと踏み込み、妙なところであっさり引く。
それが不思議と心地よかった。
普通なら、こういう契約結婚の相手はもっと気を遣うか、あるいは怯えるか、そのどちらかだろう。
だがアルヴィは違う。
礼は言う。警戒もする。だが、妙に自然に隣へ来る。
それでいて、媚びない。
それに――。
「嘘をつかないからな」
それがなんだか、心地がいい。
俺は残っていた茶を飲み干し、机の上の書類に視線を戻す。
だが、さっきまでより少しだけ肩の力が抜けている自分に気づいた。
寝不足に効くらしい茶。甘い菓子。
静かな執務室の中で、俺は小さく笑った。
この先、退屈はしなさそうだ。




