第10話 初めての社交界、敵との遭遇
私がエリアビル公爵家に嫁いでから、一カ月半ほどが経った。
思えば、あっという間だった気がする。
毎日いろいろなことを覚えて、間違えて、直されて、また覚えて。
公爵夫人としての仕事にも少しずつ慣れてきて、屋敷の中では前より落ち着いて過ごせるようにもなった。
けれど同時に、その一カ月半という時間は、別の意味も持っていた。
――ジオルドが死ぬかもしれない時期が、近づいている。
それを思うたび、胸の奥がじわりと冷たくなる。
未来予知だと誤魔化して伝えてはいるけれど、本当は私は知っている。
一度目も二度目も三度目も、このくらいの時期になると、あの事件は起きた。
それなのに、当の本人はそんなことを気にした様子を見せなかった。
「そんなに固くなるな」
鏡の前で最後の身だしなみを整えていた私に、ジオルドがそう言った。
今日は社交会の日だった。
私が公爵夫人として、初めて公の場に出る日でもある。
薄い赤色のドレスの裾を整えながら、私は鏡越しに彼を見る。
「固くもなるわよ。初めてなのよ?」
「だからといって、戦場に向かうような顔をするな」
「そんな顔してた?」
「している」
即答だった。
「自覚はないんだけど」
「自覚がないなら、なおさらだな」
そう言って、ジオルドは私の肩口にかかった髪を軽く整えた。
ほんのそれだけの動作なのに、妙に自然で落ち着かなくなる。
「お前ならできる」
低い声で、あっさりとそう言われる。
その一言が、不思議なくらい真っ直ぐ胸に落ちた。
今までマナーも立ち居振る舞いも、散々意地悪く――いえ、本人に言わせれば楽しく――教えてきたのはジオルドだ。
その彼がそう言うのなら、信じてもいいのかもしれない。
「……ええ」
私は小さく頷いた。
「頑張るわ」
「その意気だ」
そうして私たちは、社交会の会場へ向かった。
会場に着いて、馬車を降りて、ジオルドにエスコートされながら中へ入る。
その瞬間、空気がふっと変わるのがわかった。
見られている。
はっきりと、そう感じた。
当然よね、と心の中で自分に言い聞かせる。
エリアビル公爵家当主ジオルド・エリアビルと、その花嫁として突然現れた私。
噂だけなら広がっていても、実際にこうして並んで出てくれば、注目を集めないはずがない。
「……すごいわね」
思わず小さく呟くと、隣のジオルドが口元だけで笑った。
「今さらだろう」
「見られるってわかっていたけど、実際だとやっぱり違うのよ」
「なら、もっと堂々としていろ」
「簡単に言うのね」
「簡単なことだからな」
そう言って先へ進んでいくのだから、やっぱりこの人は図太い。
その後、会場ではすぐに何人もの貴族が話しかけてきた。
最初に来たのは、王族派のローデル伯爵夫妻だった。
「ジオルド様、ぜひ今後は王族派として――」
「その話は別の場で」
「ですが今少しだけでも――」
「今は妻の付き添いだ。用件は以上か?」
笑っているのに、空気がぴたりと止まる。
ローデル伯爵はそれ以上何も言えず、引き下がった。
続いて、貴族派のベルナール子爵。
「公爵、今後の流れを考えれば我々と手を組むのが最善かと」
「最善かどうかは俺が決めることなので」
「ですが――」
「失礼、他にも話したい者がいるので」
あっさりと切り捨てる。
踏み込ませない、というより、最初から線を引いている。
(すごい……)
でも次に声をかけてきた相手には、空気が少し変わった。
「ジオルド殿。相変わらず愛想がないな」
中立派のガルツ伯だ。
「必要ない相手にはな」
「ひどい言い草だ。私にはどうなんです?」
「まだましな方だ」
「ははっ、そうですか!」
軽口に、ジオルドの口元がわずかに緩む。
さらに隣に来たのは、同じく中立派のエルディン伯爵。
「奥方、初めまして。うちの無骨な友人がお世話になっています」
「余計なことを言うな」
「事実でしょう? 最近少しは丸くなったと評判ですよ」
「はっ、誰が言っている」
「少なくとも私はそう思っています」
そのやり取りには、さっきまでの冷たさがない。
素っ気ないのに、拒絶ではない距離感だった。
(本当に、全然違う……)
これがジオルドの線引きなのだろう。
私は隣でできるだけ自然に微笑みながら、その違いをはっきりと感じていた。
――その時だった。
「おや」
聞き覚えのある声が、すぐ近くからした。
「ジオルド様、アルヴィ嬢。いえ、今はアルヴィ公爵夫人とお呼びするべきでしょうか」
その声を聞いた瞬間、身体がぴくりと強張った。
リュクス。
顔を上げれば、やはりそこにいた。
人当たりの良さそうな笑み。非の打ち所のない柔らかな物腰。
外から見れば、完璧な青年貴族だ。
でも私は知っている、その内側に何があるのかを。
喉の奥がひやりと冷えた。
大丈夫、笑って。普通に。
「……こんばんは、リュクス様」
なんとか声を出す。
「お二人が揃って出席されるとは思いませんでした」
リュクスはにこやかに言う。
「本当に、お似合いですね」
その言葉が薄皮一枚の下でどれだけねじれているのか、私には嫌というほどわかった。
その時だった。
隣から、そっと手を取られる。
びくりとして見ると、ジオルドだった。
彼の大きな手が、私の手を包むように掴んでいる。
温かい……しっかりしていて、驚くほど安心した。
私は気づかぬうちに手が震えていたようだ。
「失礼」
ジオルドがリュクスに向かって、淡々と言った。
「俺の妻が少し体調が悪そうなので。失礼させてもらう」
リュクスの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
けれど次の瞬間には、またあの笑顔に戻っていた。
「それは失礼しました。どうぞお大事に」
ジオルドはそれ以上相手をせず、そのまま私の手を引いて歩き出した。
私は半ば導かれるように、その場を離れる。
背中に視線を感じた。
振り返らなくてもわかる。リュクスが、じっとこちらを見ている。
けれどジオルドは、その視線を遮るように私の背を守るように歩いてくれた。
会場のざわめきから離れ、控室へ入る。
扉が閉まった瞬間、ようやく私は小さく息を吐いた。
「……ごめんなさい、ジオルド様」
思わずそう言うと、彼は首を振った。
「問題ない」
「でも、初めての社交会なのに……」
「それより」
ジオルドは私を見た。
「あいつが、お前を殺そうとしている相手だな」
私は一瞬だけ黙ったあと、ゆっくり頷く。
「……はい」
「ふむ」
彼は少しだけ考えるように目を細めた。
「殺されるかどうかは知らんが、お前に執着しているのは確かのようだ」
その言い方が、妙に冷静だった。
でも、だからこそ現実味があって、胸の奥がまた少し冷える。
「やっぱり……まだ諦めていないみたいね」
「あの様子だとな」
やっぱり、怖い。
そう思う。
けれど、ここで怯えてばかりもいられない。
私はぎゅっと拳を握って、無理やり口角を上げた。
「……でも、絶対に負けないわ」
「ほう?」
「ぎゃふんと言わせてやるもの」
少しだけ虚勢を張るみたいに、私はそう言った。
ジオルドはそれを聞いて、ふっと笑う。
たぶん、見抜かれている。
強がりだってことも、震えていることも。
それでも彼は何も言わず、ただこちらへ歩み寄ってきた。
そして、ぽん、と私の頭に手を置く。
「それでこそお前だな」
「っ……気軽に撫でないでください」
「嫌だったか?」
「嫌というか……」
恥ずかしい、とは言えない。
でも、言葉に詰まってしまった私を見て、ジオルドは少しだけ面白そうに笑った。
「少し休んでいろ。何か飲み物を持ってこさせる」
「ええ……ありがとう」
そうして、ジオルドはいったん部屋を出ていった。
ひとりきりになった控室で、私はようやくもう一度深く息を吐く。
胸に手を当てると、まだ少しだけ鼓動が速い。
「……大丈夫。絶対に、負けないわ」
四度目の人生は、絶対に。
決意を新たにした、その時だった。
控室の扉が開く音がして、私はてっきりジオルドが戻ってきたのかと思った。
けれど入ってきたのは、別の顔だった。
「……お父様」
「アルヴィ……!」
父が険しい顔で立っている。
その後ろには母と、ベッラもいた。
私は一瞬固まってしまったが、彼らが何をしに来たのかすぐに理解した。
「何の用ですか」
できるだけ冷たく言うと、父は苛立ったように顔を歪めた。
「何の用、だと? 決まっているだろう。お前を連れ戻しに来たのだ」
「アルヴィ、いい加減にしなさい。今ならまだ間に合います。公爵家を出て、リュクス様の元へ戻りなさい」
「お姉ちゃん、最近おかしくなったんじゃない? どうしてそんなに意地を張るの?」
やっぱりだ。
私は呆れるより先に、妙に冷静になっていた。
「お断りします」
「何だと?」
父の声が低くなる。
「あなた方に命じられることではありません」
「アルヴィ! お前はエナティ伯爵家の娘だぞ!」
「今の私は公爵夫人です」
私はまっすぐ父を見る。
「身の程をわきまえてください、エナティ伯爵夫妻」
その一言で、空気が凍った。
母が息を呑み、ベッラが目を丸くする。
父の顔だけが、みるみる怒りで赤くなった。
「貴様……!」
「貴様ではありません、公爵夫人です」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
でも、もう引くつもりはない。
「また今さら、リュクス様と結婚しろと? お断りです」
「家のためだ!」
「それはあなた方の都合でしょう」
「我儘を言うな!」
「我儘?」
思わず笑いそうになった。
「リュクス・ジョルアンに逆らえずに、娘を生贄のように差し出すことのほうが我儘じゃなくて?」
父も母も、ぴたりと止まる。
でも、また次の瞬間にはまた苛立ったように顔を歪めた。
「ここまで言っても聞かないなら……力づくで連れて帰るしかない!」
その声と同時に、控室の外で待機していたらしい二人の男が入ってくる。
伯爵家の護衛の二人だ、顔を何度も見たことがある。
ベッラが少し青ざめた顔で後ろへ下がる。
母は口元を押さえているが、止める気はないらしい。
父だけが、勝ち誇ったような顔で私を見た。
「おとなしくしろ、アルヴィ」




