第7話 公爵夫人としての日常?
「――あははっ! 最高だな、お前!」
頭上から降ってきた大きな笑い声に、私はびくりと肩を揺らした。
「ちょ、ちょっと……! 急に大声を出さないで!」
思わずそう叫び返しながら、私は片手で窓枠を掴み直す。
危なかった。あと少しで身体がぐらりと傾くところだった。
私は今、三階の窓の外にいた。
正確には、屋根の上から垂らした丈夫な紐を身体に巻きつけ、そのまま宙吊りのような格好で窓掃除をしていたところである。
腰と脇の下にしっかりと通した紐に体重を預けながら、片手で布を動かし、もう片方の手で窓枠を押さえる。
少し前まで薄く曇っていた硝子は、今では朝の光を綺麗に映していた。
我ながら、なかなかいい出来だと思う……だけれど。
その窓の向こう、室内側には、腹を抱えんばかりに笑っているジオルドがいた。
後ろには、驚いているような呆れているような顔のハックもいる。
「最高って何よ……!」
私は半ば抗議するように言いながら、窓の外側にへばりついたままジオルドを睨んだ。
その視線を受けても、彼はまるで堪えた様子もなく、まだ肩を震わせている。
「いや、だってお前……ふふっ……なんでそんな格好でそこにいるんだ」
「窓掃除よ。見ればわかるでしょう」
「それはわかる」
ジオルドは即答した。
「わかるが、問題はそこじゃない」
「じゃあ、どこが問題なの」
「全部だ」
さすがにそれはひどいのではないかしら。
今の私は、汚れてもいいように動きやすいメイド服に着替えていた。
髪も邪魔にならないよう後ろでまとめている。
最初は自分の部屋を軽く整えるだけのつもりだったのだ。
けれどやり始めると手が止まらなくなってしまい、ついでに廊下の端、客間の前、使われていない小部屋まで手を出してしまった。
手際には自信がある。
三度目の人生では、リュクスから逃げたあと、本当にいろいろなことをやったのだから。
仕事もいろいろ覚えた。
皿洗い、洗濯、掃除、買い出しの手伝い。
けれどそれだけでは賃金が低く、長く生き延びるには足りなかった。
だから、もっと給金のいい仕事を探した。
貴族の家の使用人は、大変で危険もあるけれど、その分だけ金払いがよかった。
ひとつの屋敷に長くいれば、リュクスに見つかる可能性が高くなる。
だから私は同じ場所に根を下ろさず、職を変え、名前を変え、住む場所を変えた。
メイドの真似事をしていた時期もある。
庭師の助手をしたこともある。
台所で下ごしらえをしながら料理を覚えたこともあった。
刺繍師の下働きをしながら、夜にこっそり針を持つ練習をしたこともある。
生きるために、覚えた。
だから掃除はまあまあ得意だ。
というより、得意でなければ困ったのだ。
私は布を握ったまま、小さく息を吐いた。
「朝早く起きて暇だったから。それに、形だけの結婚とはいえ妻なんだもの。何もしないのも落ち着かなくて」
「それで窓の外にぶら下がるのか?」
「自分の担当範囲はもう終わったのよ。部屋の中は全部片づけたし、廊下も拭いたし、暇だったから外から窓を――」
「ははっ、外から?」
ジオルドが繰り返す。
「三階の窓を」
「ええ」
「宙吊りで」
「……そうだけど」
「ははっ……やはりお前は面白いな」
その評価は褒め言葉として受け取っていいのか悩むところである。
私はむっとしながらも、最後のひと拭きを終えた。
窓硝子には雲ひとつない空が綺麗に映っている。うん、やっぱり悪くない。
すると、後ろでずっと黙っていたハックが、深いため息と一緒に口を開いた。
「奥様。お願いですから、とりあえず中に戻ってください」
「……やっぱり怒られる?」
「怒るというより、頭が痛いです」
たいへん率直なお返事だった。
私は少しだけ気まずくなりながら、紐を手繰って屋根の縁へ戻る。
いろいろと外してから、屋敷の中に戻ってジオルドとハックと合流する。
ハックは私の姿を見て、またため息をついた。
「その姿がやけに似合っていますし、手際が良かったですね……」
「まあ、それなりに慣れているから」
「数日前まで伯爵令嬢だった方が、なぜ慣れているのかよくわかりませんが」
もっともな意見だった。
けれどジオルドはまだ面白そうに私を見ている。
その視線が少し落ちて、今度は私の服装に向いた。
「しかし、本当にメイドの格好をしていたんだな」
「汚れてもいいように着替えたのよ。ドレスで掃除なんてやりにくいでしょう」
「公爵夫人の仕事は掃除じゃないがな」
そこでようやく、ジオルドは少し真面目な声になった。
「なら何なの?」
「書類仕事だ」
ああ、と私は内心で思う。
たしかにそうだろう。
伯爵夫人も、侯爵夫人も、名ばかりでは済まない。屋敷の内側を回す役目がある。
金の出入り、招待状、使用人の采配、領地からの報告。表に立つことばかりが夫人の役目ではない。
「……なるほど」
「来い」
短くそう言って、ジオルドは踵を返した。
私はメイド服のまま顔を見合わせるようにハックを見る。
ハックは目元を押さえたあと、観念したように言った。
「とりあえず、そのままで構いません。どうせ今さらですので」
私の格好は今さららしい。
私は軽く裾を整えてから、二人のあとを追った。
連れていかれたのは、執務室ほど私的ではなく、少し広めの仕事部屋といった雰囲気で、中央の机の上にはすでに書類がいくつも積まれている。
その量を見た瞬間、私は思わず足を止めた。
「……多くない?」
「公爵夫人の仕事だ」
ジオルドはまったく悪びれない。
「いや、でも最初からこの量は無理では?」
横からハックが口を挟んだ。
するとジオルドはあっさり頷く。
「わかっている。だからお前がついて、少しずつ教えてやってくれ」
「……わかりました」
ハックは一礼したものの、その顔にはまだ少しだけ不安が残っていた。
ジオルドは私を見た。
「役に立ちたいというなら、掃除じゃなくてこっちで役に立て」
「随分と急ね」
「暇だったんだろう?」
「確かにそうだけど」
「ならちょうどいい」
そう言って、ジオルドは本当にそれだけで部屋を出て行ってしまった。
残されたのは、私とハック、それから山のような書類である。
ハックは机の向こうへ回ると、書類をいくつか整え直しながら、少し柔らかい声で言った。
「では、奥様。公爵夫人としての仕事をこれから教えていきますので」
その言い方は丁寧で、私は自然と姿勢を正した。
「難しいと思いますが、頑張りましょう」
「ええ、ありがとう」
私はそう返してから、机の上の書類をちらりと見た。
「でも、すぐにできるようになるわ」
ハックの手が一瞬止まる。
「……そうですか?」
「ええ」
彼は不思議そうな顔をした。
なぜそんなに自信があるのか、とでも言いたげな顔だ。
無理もない。
ついさっきまで三階の窓の外でメイド服姿のまま掃除をしていた女が、今度は公爵夫人の書類仕事をすぐ覚えると言い出したのだから。
でも、本当なのだ。
一度目と二度目の人生で、私はジョルアン侯爵夫人としてこれを経験している。
もちろん、楽しい記憶ではない。むしろ思い出したくない部類に入る。
けれど、書類仕事そのものは嫌いではなかったし、誰にも頼れなかったからこそ、自分で覚えるしかなかった。
だから、形式も流れも、だいたいはわかる。
「では、まずはこちらから」
ハックが最初の束を差し出してくる。
「使用人の配置と、今月の支出記録です。こちらは確認後、必要なら指示を書き添えます」
「わかったわ」
私は受け取って目を通した。
思っていたよりずっと整っている。
記録のつけ方も丁寧だし、分類もわかりやすい。
ジョルアン家では表向き整っていても、中身は何かと歪んでいたから、それと比べるとずいぶん楽だった。
私は紙をめくりながら、必要な箇所を頭の中で仕分けていく。
ここは修正が要る。これは問題ない。ここの数字は後で確認。
「……奥様?」
「何?」
「もう読まれたのですか」
「ええ、だいたいは」
私は顔を上げずに答えた。
「ここの支出、先月より少し増えているけれど、臨時の修繕費が入っているからよね? なら問題ないと思うわ。ただ、厨房の人員配置だけ少し偏っているから、午後の補助を一人増やした方がいいかもしれない」
言ってから、ようやく顔を上げる。
ハックは目を丸くしていた。
「……その通りです」
「そう」
「ええ」
それきり、彼は妙に真剣な顔になった。
その後も私は、次々と書類に目を通していった。
最初のうちはハックが説明を挟んでいたけれど、途中からは私の方が先に要点を拾うことが多くなり、彼は説明しかけては口を閉じるようになっていった。
「こちらは招待状の返答の仕分けです」
「これは出席、これは辞退、これは保留ね。保留のものはジオルド様に一度確認したいわ」
「……はい」
「これは屋敷の備品記録?」
「ええ」
「なら、このままでいいと思う。ただ、次回から寝具類だけ別でまとめた方が見やすいわ」
「……」
「ハックさん?」
「いえ。はい、その……承知しました」
どうやら本気で驚いているらしかった。
私は可笑しくなりながらも、手は止めなかった。
懐かしい、とまでは言いたくない。
でも、身体は覚えている。書類の束の重みも、紙の匂いも、数字を追う感覚も。
あの頃は必死だった。やらなければ誰も助けてくれなかったから。
今は少しだけ違う。
これは、生き延びるための足場を固める仕事だ。
そう思うと、自然と集中できた。
気づけば、窓から差し込む光の色がだいぶ傾いている。
昼を過ぎ、午後もかなり進んでいたらしい。
「……終わったわ」
最後の一枚を机に置いて、私は小さく息を吐いた。
ハックが手元の書類と、私が片づけた山を見比べる。
そして、ゆっくりと瞬きをした。
「……本当に、終わりましたね」
「だからそう言ったでしょう?」
「いえ、ですが、ここまでとは……」
その言い方に少しだけ笑いそうになる。
「そんなに変?」
「変です」
きっぱり言われた。
「普通は初日でこの量はこなせません。しかも、ほとんど的確です」
ほとんどだから満点ではないようだけど、公爵家当主の従者をしているハックから及第点はいただけたようだ。
私は少し肩の力を抜いた。
「よかった」
「……奥様は、本当に何者なんですか」
ぽつりと零れたその言葉に、私は一瞬だけ動きを止める。
けれど次の瞬間には、いつも通りの顔を作った。
「ただの暇な公爵夫人よ」
ハックは何とも言えない顔をした。
納得はしていないけれど、今は追及しないことにしたらしい。
「……そういうことにしておきます」
結局、夕方になる前には全部片づいてしまった。
そのあと私はまた自室に戻った。
掃除はもう十分やったし、書類仕事も終わった。
そして、やっぱり少しだけ暇だった。
「……暇だし、刺繍でもしようかしら」
必要に迫られて覚えたことは、確かにたくさんあった。
そのひとつが刺繍だ。
私は棚から刺繍道具を取り出し、窓辺の椅子に腰を下ろした。
何を作るでもなく、ただ針を動かす。
布の上に糸を通して、少しずつ形を作っていくこの作業は、妙に気持ちが落ち着く。
題材は特にない。
昔どこかで見た花の形をぼんやりと思い出しながら、色を重ねていく。
集中していた、のだと思う。
「随分と綺麗なものだが、題材がわからないな」
「うわっ、ビックリした……!」
私は針を持ったまま大きく肩を跳ねさせた。
いつの間にか、隣にジオルドが立っていたのである。
「入ってきたなら声をかけてください」
「かけた」
「聞こえてなかったわ」
「だろうな」
彼はまったく悪びれず、私の手元を覗き込んでいた。
私は胸を押さえながら、小さく息をつく。
「心臓に悪い……」
「そんなに驚くとは思わなかった」
「集中していたのよ」
そう言って、私は刺繍枠を少し持ち上げた。
「それで、題材はなんなんだ?」
「特にないわ。前に見たことがある花よ」
「ふむ、そうか。というか、もう書類仕事を終えたのか」
「終わったわ。ハックさんに確認して」
「ああ、聞いた」
そこで彼は、ふっと笑った。
「本当にお前は予想がつかなくて面白いな」
またその評価である。
私は思わず眉を寄せた。
「褒められているの?」
「褒めてるさ」
ジオルドはあっさり言った。
「これに関しては普通にな」
これに関しては、というのが少し引っかかったけれど、今はそこではない。
彼は私の刺繍から視線を外し、まっすぐこちらを見た。
「よくやった。ありがとな」
その一言に、私は少しだけ目を見開いた。
……ちゃんと、褒められた。
しかも、お礼まで言われた。
なんだか、それだけで妙に胸の奥がくすぐったくなる。
ジオルドがこうして素直に言葉にするタイプだとは、思っていなかった。
もっと皮肉っぽくて、もっとひねくれていて、気に入ったら笑うけれど、そこに礼なんて混ざらない人かと思っていたのに。
けれど、違うらしい。
それに、私自身、こういうふうに真っ直ぐ褒められることに慣れていなかった。
家族は私のことを好きじゃないので、小さい頃から褒められた記憶はない。
リュクスは褒めなかった。
あの男は、私が何かをしても当然のように受け取り、気に入らなければ壊した。
三度目の人生でも、私はただ必死に覚えた。
できないことが多すぎたから、ひとつ覚えては、また次を覚えて、立ち止まる暇もなかった。
だから今みたいに、「よくやった」「ありがとう」と言われるのは、思っていた以上に効くらしい。
「……どうした」
ジオルドが不思議そうに首を傾げる。
私はようやく自分が黙りすぎていたことに気づき、慌てて視線を逸らした。
「なんでもないわ」
「そうは見えないが」
「本当に、なんでもないの」
声が少しだけ柔らかくなってしまった気がして、余計に落ち着かなくなる。
私は刺繍枠を見つめたまま、小さく続けた。
「……ただ、少し驚いただけ。ちゃんと褒めてくれるのね」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
何を言っているのかしら、私は。
でもジオルドは笑わなかった。
ただ、いつもの少し面白そうな表情のまま、短く答える。
「褒めるに決まっているだろう」
「そう」
「……ああ」
それだけの会話だったのに、なぜだか少しだけ頬が熱い。
私は誤魔化すようにもう一度針を持ち上げた。
けれどさっきまでのようには集中できない。
隣に立つ気配が妙に意識されてしまう。
ジオルドはそんな私を少しだけ眺めてから、ふっと笑った。
「刺繍師もやっていたのか?」
「……少しだけね」
「少しでその出来なら大したものだ」
また普通に褒められた。
私は思わず唇を引き結ぶ。
なんだか今日は、調子が狂ってばかりだ。
「そんなに何でもできるなら、次は何を始める気だ?」
「知らないわよ」
「明日の朝には庭木の剪定でもしているんじゃないか」
「さすがにしないわ」
そこまで言い切ってから、三度目の人生で庭師の補助をしたことを思い出したけど。
私は小さくため息をついたあと、針先を布に落とす。
けれど、さっきまでの静かな気持ちとは違う。
胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが残っていた。
逃げるためにここへ来た。生き延びるために、契約結婚を選んだ。
それは間違いではない。
今でも、そのための結婚だと思っている。
でも――真っ直ぐ褒められて、驚いて、少し照れてしまうなんて。
そんなこと、ほんの少し前まで考えもしなかった。
私は針を動かしながら、こっそり息を吐いた。
四度目の人生は、やっぱり少しずつ、今までと違うものになり始めているのかもしれない。




