第6話 破滅を返してやる
ジオルド邸に移ってから、数日が経った日の夜のことだった。
夕食を終えたあと、部屋に戻ろうとしていた私に、使用人が丁寧に声をかけた。
「奥様、旦那様がお呼びです」
その呼び方に、まだ少しだけむず痒いものを感じる。
奥様。旦那様。
契約結婚だと頭ではわかっているのに、言葉だけ聞くとどうしても妙な気分になる。
「ええ、わかったわ」
案内されたのは、ジオルドの執務室だった。
扉を開けると、中には見慣れた赤髪の姿がある。
机の上には書類が積まれていて、彼はそのいくつかに目を通しているところだったらしい。
私に気づくと、ジオルドは顔を上げた。
「来たか」
「ええ。何かありましたか?」
「今後のことを話しておこうと思ってな」
私は促されるまま、机の前の椅子に腰を下ろした。
ジオルドはペンを置き、改めて私を見た。
「リュクス・ジョルアンについてだ」
その名前を聞いた瞬間、背筋がわずかに強張る。
「……はい」
「お前はあいつの危険性を何度も口にしていたな。改めて、簡潔に聞かせろ」
私は膝の上で手を重ねた。
「未来予知の中で見たあいつは、執念深いです」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「結婚してしまったら、私が外へ出ることはほとんどありません。監禁、というほど露骨ではなくても、実質的にはそれに近い状態になると思います」
本当は『思う』ではない。
知っている、だ。
一度目も二度目も、私はあの屋敷の中で閉じ込められていった。
外へ出る機会は減り、人と会うことも減り、最後にはリュクスしか見えない世界に押し込められた。
でも、それは言わない。
死に戻りのことも、一度目と二度目の人生のことも、まだ誰にも言うつもりはなかった。
「最初は優しい顔をしています。でも、少しずつ逃げ道をなくしてくる。人を囲い込むのが上手いんです」
「なるほどな」
ジオルドは短く相槌を打つ。
「力ずく、というより、じわじわと追い詰めるタイプか」
「ええ。だから厄介なんです」
私は小さく息を吐いた。
「外から見れば、ただ大事にされているだけに見えるでしょうし……でも中身は違う」
言いながら、喉の奥が重くなる。
優しく笑って、愛していると言いながら、壊してくる。
あの男のいちばん気味が悪いところは、たぶんそこだ。
ジオルドはしばらく黙ってから、机の端に置いてあった封筒を取り上げた。
「なら、これも見ておけ」
「……手紙?」
「ああ。ジョルアン家から届いた」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
私はそっとそれを受け取る。
封蝋はすでに切られていた。たぶん、危険なものではないと確かめるために、先に開けられたのだろう。
便箋を開き中身を読む。筆跡は見慣れていた。
そこに並んでいたのは、一見すると何の変哲もない文面だった。
結婚おめでとう。うちに迎えることができず、縁がなかったのは残念だ。どうか幸せに。
そんな、表向きには丁寧な祝いの言葉ばかり。
でも、私は指先が冷えていくのを感じていた。
「……やっぱり」
「何かわかったか?」
ジオルドが問う。
私は便箋から視線を離さないまま、小さく頷いた。
「この人、手紙の中に本音を隠す癖があるんです」
「本音を?」
「ええ。言葉の頭だけとか、特定の位置の文字だけとか。そういう形で」
本当なら、ジオルドには不思議に思われてもおかしくない話だろう。
どうして私がそんなことを知っているのか、と。
でも彼はそこには触れなかった。ただ面白そうに目を細める。
「それで?」
私は改めて便箋に目を落とし、文字を拾う。
表向きの文章の中に、わざとらしく置かれた言葉。
不自然な位置の改行。
一回目の人生の時なら気づかなかっただろう。でも、何度もあの男の手紙を読まされた私にはわかる。
読み解いていくと、たったひとつの文になる。
「……『必ず迎えに行くよ、アルヴィ』」
口にした瞬間、ぞくりとした。
やっぱり。あの男は、こういうことをする。
おそらく、私に伝えようとして書いたのではない。
私がこれを読み解けるなんて、リュクスは知らないはずだ。
ただ、自分の執着をそこに残したかっただけ。
誰にも気づかれない形で。
「……気持ち悪い」
思わずそう漏らすと、ジオルドが小さく笑った。
「はっ、なるほどな」
「笑いごとではないでしょう」
「いや、手口として、お前が言った通りの男だと思ってな」
ジオルドは椅子の背にもたれた。
「執念深い男だ」
「ええ」
私は便箋を静かに畳んだ。
「やっぱり、諦める気なんてないんです」
その言葉を口にしたところで、胸の奥に重たいものが落ちる。
わかっていたことだ。
でも、こうして形になると、やはり苦しい。
すると、ジオルドが不意に言った。
「だが、お前はあいつを潰したいんだろう?」
私は息を止めた。
しばらく黙ったあとで、私はゆっくりと口を開く。
「……ええ、もちろんです」
それだけで十分だった。
ジオルドは、ふっと笑う。
「そうか、なら協力してやる。ただし、面白くしてくれ」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
変な人だと思う。でも、嫌ではなかった。
私は便箋を握りしめたまま、小さく頷いた。
「後悔させません」
「ああ、期待している」
短いやり取りだった。
けれどその言葉は、不思議とまっすぐ胸に落ちてきた。
逃げるための結婚だったはずなのに、いつの間にか、それだけではなくなりつつある。
この人は、私をただ庇護するだけではなく、反撃の側に立たせるつもりがちゃんとあった。
その夜は、それ以上込み入った話はしなかった。
ジオルドに「今日はもう休め」と言われ、私は素直に自室へ戻った。
そして翌朝。
目が覚めて、着替えて、髪を整えて、朝食を食べて。
そこまではよかった。
でもそのあと、やっぱり私は思った。
「……暇だわ」
窓辺に立ちながら、思わず呟く。
昨日の夜に気持ちが前を向いたせいか、なおさらじっとしているのが落ち着かない。
リュクスとの対峙まで、そう長い時間があるわけではないはずなのに。
なのに今の私は、こうして何もしないまま部屋にいるだけだ。
「何か……何かできること」
考えて、それからふと部屋を見回す。
綺麗な部屋だ。
綺麗なのだけれど、私は三度目の人生のせいか、どうしても細かいところが気になってしまう。
棚の隅の埃とか、窓の桟の薄汚れとか。
生き延びるために色々やってきた。
掃除だって、洗濯だって、炊事だって、必要なら覚えた。
「……よし、掃除をしよう」
今できることをやるしかない。
大きなことはまだ無理でも、この家にいて、この家に守られているのなら、少しくらいは何か返したい。
三度目の人生で得た経験を、今度は生きるために使いたい。
そう思うと、やる気が出てくる。
私は袖を軽くまくり、部屋の隅に置かれていた布を手に取った。




