第4話 協力者と契約結婚へ
翌朝、身支度を整え、いつも通りの顔を作って部屋を出た。
廊下には朝の気配が満ちている。
けれど、食堂へ向かう途中で、どこか空気がざわついているのに気づいた。
私はそのまま食堂へ入った。
中ではすでに父と母が席についていて、ベッラもいつになく落ち着かない様子で新聞を覗き込んでいた。
私が入ったことにも気づかないくらいだ。
「……どうしたの?」
私がそう声をかけると、ベッラがはっと顔を上げた。
「お姉様、聞いてください! 公爵家で横領が見つかったんですって!」
……やっぱり、早いわね。
心の中でそう思いながら、私は表情だけは驚いたように整える。
「横領?」
「ええ。エリアビル公爵家の補佐官が金を不正に流していたとかで、今朝から大騒ぎよ。もう捕まったみたいだけれど……」
ベッラの声は、驚きと興奮が半分ずつ混じっている。
父も新聞から目を上げた。
「さすがは冷血公爵といわれるエリアビル家当主だ。発覚してすぐに動いたらしい」
その口調には感心と、恐れが混じっていた。
自分の父や兄を告発した男だ。家臣の不正を知ったら、容赦なく切るだろう。
私は何も言わずに席についた。
胸の奥では、じわじわと現実感が広がっていく。
昨夜の話は、本当に届いたのだ。
ジオルドはすぐに動いて、そして本当に解決した。
自身の父親や兄を断罪するほどの行動力は、さすがというほかなかった。
あれだけの話を聞いて、その日のうちに裏を取り、朝にはもう片付けてしまうなんて。
……やっぱり、あの人に賭けて正解だったのかもしれない。
そう思った、その時だった。
廊下の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。
続いて、扉の外で使用人が緊張したような声を上げる。
「旦那様! エリアビル公爵家より、ジオルド様がお見えです!」
空気が止まった。
父の手がぴたりと止まり、母は目を見開く。ベッラなどはわかりやすく口を開けていた。
「……な、何だと?」
父が立ち上がる。
その顔にははっきりとした動揺が浮かんでいた。
公爵家当主、それも冷血魔王とまで呼ばれるジオルド本人が、朝から伯爵家を訪ねてくるなど、普通ならありえない。
「ど、どのような用件で……!」
父はほとんど独り言のように呟いてから、慌てて上着を整えた。
私は内心で息を呑む。
まさか、こんなすぐに来るとは思っていなかった。
父と母、それから私とベッラまで揃って玄関へ向かうと、そこにはすでにジオルドが立っていた。
きちんとした昼の装いだったけれど、その姿には昨夜と同じ隙のなさがある。
隣にはハックも控えていた。
父は顔色を変えながら、深く頭を下げた。
「こ、これはジオルド様。ようこそおいでくださいました。あの、本日はどのようなご用件で?」
ジオルドは父ではなく、まっすぐ私を見た。
「アルヴィに用がある」
「ア、アルヴィに……?」
父が呆然としたように聞き返す。
母も信じられないものを見るように私を見た。
ベッラに至っては何が起きているのかわからないという顔で、私とジオルドを見比べている。
「応接室を借りるぞ」
ジオルドは当然のようにそう言った。
拒否を許さない声音だった。
父は一瞬だけ言葉を失って、それから慌てて頷く。
「も、もちろんです! どうぞこちらへ……!」
そのまま応接室に通される。
父と母も当然のようについてこようとしたけれど、席に着く前にジオルドが淡々と言った。
「ああ、アルヴィ以外は出て行ってくれ」
「はい……?」
「アルヴィと話がしたい。お前たちはいらない」
父はさすがに困ったように笑おうとした。
「い、いえ、その、娘のことですので、私どももご一緒に……」
「必要ない、と言っているが?」
ぴしゃりと切り捨てられる。
その声は大きくもないのに、応接室の空気が一気に冷えた気がした。
母が青ざめた顔で父を見る。
父も何か言い返しかけたけれど、相手がジオルドではそれもできないのだろう。
結局、ぎこちなく口元を引き結んで頭を下げた。
「承知、いたしました」
そうして父と母は応接室を出ていった。
ベッラも最後まで名残惜しそうにこちらを見ていたけれど、母に促されてしぶしぶ出ていく。
扉が閉まると、ジオルドは向かいに腰を下ろして、私も座った。
「お前の能力はわかった。未来予知のギフテッドも本当のようだ」
ジオルドがそう言って、私を見た。
「それで、お前は自身が死ぬ未来が見えて、俺も死ぬ未来が見えたから、一緒にいて守ってほしい、と」
「ええ、そう」
私が頷くと、ジオルドはほんの少しだけ口元を上げた。
「なるほど……ふっ、面白そうだ」
その言い方に、昨夜と同じものを感じる。
何か新しい玩具を見つけた子供みたいな、危うい興味。
隣で控えていたハックが、すぐに口を開いた。
「ジオルド様、やはり私はやめたほうがよろしいかと……」
「ハック」
ジオルドが短く名を呼ぶ。
それだけで、ハックはそれ以上強くは言えなくなったようだった。
けれど、完全に納得しているわけでもないのだろう。
「わかりました。私は何も言いません」
その言い方が、かえって申し訳なくなる。
「……ごめんなさい、ハックさん」
思わずそう言うと、ハックは困ったような顔で肩をすくめる。
「いえ。これから大変なのはあなたですよ、アルヴィさん」
「えっ?」
私が思わず聞き返すと、ハックはジオルドをちらりと見た。
当の本人は、面白そうにこちらを眺めているだけだ。
「ジオルド様は、気に入ったものは可愛がるタイプなので」
「……それは、どういう意味で?」
ハックはそれ以上は言わなかった。
でも、その言い方が何となく不穏で、私は背筋を伸ばしてしまう。
ジオルドはそんな私の反応を見て、くすりと笑った。
「そう警戒するな」
「いや、今のを言われて、警戒しない方が無理でしょう」
「それもそうか」
そう言って、彼はあっさり認める。
その自然さに、また調子が狂う。
「じゃあ、書くか」
「……え?」
「結婚の書類だ」
一瞬、意味がわからなかった。
でもしばらくして、ようやく理解が追いつく。
今、この場で。本当に、ここで書くつもりなのだ。
ハックが慣れた手つきで書類を用意する。
紙が机の上に置かれ、ペンが差し出される。
私はその光景を見つめながら、胸が妙に騒ぐのを感じていた。
こんなに早く、こんなに簡単に進むなんて思っていなかった。
「……本当に、いいの?」
思わずそう聞いてしまう。
ジオルドは赤い瞳を細めた。
「今さらだな」
「だって……」
「昨日、お前が言っただろう。取引としては悪くないと」
それは、たしかに私が言った。
言ったけれど、本当にそのまま受け取られるとは思っていなかったのだ。
「お前は俺の死を防ぐぎ、俺はお前を守る。単純な話だ」
そう言われると、本当に単純なことのように聞こえてしまうから不思議だ。
私はペンを受け取った。
書類に視線を落とし、自分の名前を書く。
書き終えて顔を上げると、ジオルドもすでに署名を終えている。
迷いのない筆跡だった。
「お前は今日からうちに来るか」
「今日から?」
「何か問題があるか?」
「いえ……ただ、ずいぶん早いのね」
「家を出たいんだろう?」
その言葉に、私は小さく息を呑んだ。
たしかに、その通りだ。
「なら、さっさと移った方がいい」
その判断の早さには、やっぱり圧倒される。
でも、同時に少しだけほっとする自分もいた。
中途半端に待たされる方が、きっと私は不安になるだろうから。
書類が整えられた後、ジオルドはそのまま父たちを呼ばせた。
応接室に戻ってきた父と母は、こちらの空気を見て明らかに戸惑っていた。
父は視線を私とジオルドの間でさまよわせる。
「その……お話は、いかがでしたでしょうか」
恐る恐るといった口調だった。
ジオルドが何気なく書類を示す。
「結婚することにした」
父も母も、数秒固まった。
「……は?」
「な、何と……?」
「聞こえなかったか。アルヴィと結婚する」
母が口元を押さえる。
ベッラなど、後ろで目を丸くしたまま固まっていた。
「それと、アルヴィは今日からうちへ移る」
その言葉に、父の顔色がさっと変わった。
「ま、待ってください! その、うちの娘はジョルアン侯爵家の嫡男と婚約が決まっていまして……!」
言いながら、父の額に汗がにじんでいくのが見えた。
ジオルドはまるで動じない。
「アルヴィは了承したのか?」
「っ、それは……」
「婚約の書類にサインしたのか?」
私はそこで口を開いた。
「していないわ」
ジオルドがこちらを一瞥してから、父へ視線を戻す。
「それなら問題ない。家同士が決めても、書類に当人同士がサインしたこちらの書類が国に認められる」
「し、しかし……!」
父の声が震える。
「もうジョルアン侯爵家には了承してしまったのに……!」
「アルヴィの意思を確認せずに勝手にやったお前らが悪いだろう?」
ぴしゃりと言い切られて、父が口を閉ざす。
母も青ざめた顔で私を見た。
父は悔しそうに歯を食いしばってから、今度は私を見た。
その目には、はっきりと「断れ」と書いてある。
でも、今さらそんな目で見られても、何も響かない。
「お父様、私はジオルド様と結婚しますので。ジョルアン家にはお父様が説明してください」
私が静かにそう言うと、父の顔が引きつる。
「そんなことしたら、私たちエナティ家が潰されてしまう! アルヴィ!」
「お願いよ、そんな勝手なことをしないで。あなた一人の問題じゃないのです!」
父と母はそんなことを言う。
勝手、ね。その言葉に、胸の奥がひどく冷えた。
一度目も、二度目も、三度目も。
私はこの人たちに助けを求めた。
怖いと、嫌だと、あの人と結婚したくないと、離婚したいと、何度も何度も言った。
でも、この人たちは一度だって私を助けなかった。
それなのに今さら、自分たちが困るからやめてほしいと言うのだ。
私は父と母を見た。
情に訴えるような顔をしている。
でも、その奥にあるのが私への愛情ではないことを、私はもう知っている。
「……何も響かないわ」
小さくそう呟くように言ってから、私ははっきり顔を上げた。
「私は自分の身を守るのに精一杯なので」
父が絶句する。母も何か言いかけたけれど、声にならなかった。
ベッラだけが、信じられないものを見るように私を見ていた。
私はもうその誰からも視線を外し、立ち上がる。
これ以上ここにいても、何も変わらない。
ジオルドが立ち上がる気配がした。
「じゃあ行くか、アルヴィ」
「ええ」
私は扉の方へ歩き出す。
背後で父がまだ何か言っていた気もする。
母も、私の名を呼んだかもしれない。
でも、振り返らなかった。
だってもう、振り返る理由がないのだから。




