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婚約者に三度殺された令嬢は、四度目の人生で冷血公爵と契約結婚して破滅を返す  作者: shiryu


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第25話 ジオルドは手遅れ


 しばらくの間、俺は何も言わなかった。


 アルヴィは俺の胸元に顔を寄せたまま、静かに泣いていた。

 ずっと堪えてきたものが少しずつ溢れるみたいに、肩を小さく震わせていた。


 その震えが、だんだんと落ち着いていく。

 俺は片手で彼女の頭を支えたまま、もう片方の手でそっと背を撫でた。


 たぶん、今必要なのは慰めの言葉ではない。

 泣いてもいい場所と、見ないでいることだけだ。

 そう思って、ただ黙っていた。


 やがて、アルヴィの呼吸が少しずつゆっくりになっていく。

 震えていた肩も止まった。

 泣き止んだのだろうかと思い、俺は少しだけ視線を落とす。


「アルヴィ?」


 小さく呼んでも、返事はない。

 代わりに聞こえてきたのは、かすかな寝息だった。


「……寝たのか」


 思わず呟いてしまう。

 俺の胸元に額を預けたまま、アルヴィはすっかり力を抜いていた。


 涙の跡がまだ頬に残っている。

 さっきまであれほど張り詰めていたくせに、今は驚くほど無防備な顔をしていた。


「なんて無防備な……」


 呆れたように言ってみたものの、不思議と責める気にはなれなかった。

 むしろ、妙に胸の奥がくすぐったい。


 アルヴィは警戒心が強い。

 それは、この二カ月ほど一緒にいて嫌というほどわかっている。


 人の言葉をそのまま信じない。相手の表情をよく見る。

 いつでも逃げられるように、どこかで身構えている。

 そういう女だ。


 そのアルヴィが、俺の腕の中で眠っている。

 泣き疲れたからだとしても。緊張の糸が切れただけだとしても。


 それでも、俺の前で眠れるくらいには、気を許しているということだ。


「……本当に、妙な気分だな」


 呟きながら、俺は気づけば彼女の髪に指を通していた。

 黒い髪は、思っていたよりも柔らかい。


 撫でても、アルヴィは起きない。

 それどころか、少しだけ安心したように呼吸を深くした気がした。


 その仕草に、胸の奥がまた妙に締めつけられる。

 やはり俺は、思っていた以上に絆されているらしい。


 いや……もう、絆されているという言葉で済ませるには、少し遅いのかもしれない。


 今日、アルヴィはエナティ伯爵家へ行った。

 手紙の内容が罠だろうことは、最初からわかっていた。


 それでもアルヴィは行くと言った。

 行って、向き合うと言った。


 リュクス・ジョルアンがいる可能性も、当然考えていただろう。

 いや、むしろいるとわかっていたはずだ。


 昨日の夜も、アルヴィは眠れていなかった。

 本人は隠しているつもりだったのだろうが、顔に出ていた。

 朝も、いつもより少しだけ動きが硬かった。


 それでも、逃げなかった。

 自分で行くと決めて、あの男の前に立った。

 そして、あの男を跪かせた。


「本当に、大した女だよ」


 小さく笑う。

 眠っているアルヴィは、当然返事をしない。


 少しだけ赤くなった目元も、涙の跡も、眠ってしまえばどこか幼く見えた。


 まだ十八歳。

 本来なら、家族に守られ、社交界に出ながら、少しずつ大人になっていく年頃だろう。


 それなのにアルヴィは、どこか達観していた。

 最初から妙に落ち着いていて、妙に諦めを知っていて、妙に手際が良かった。


 調べても、経歴には出てこないことばかりできた。

 メイドの仕事も、書類仕事も、刺繍も、自衛も、逃げることも。


 全部、今の人生だけでは説明がつかなかった。

 だが、四度目の人生だと言われれば納得できる。


 一度目、二度目、三度目。

 そのどこかで学んだのだろう。


 生きるために、逃げるために……殺されないために。


 それでも、三度ともリュクスに殺されたと言っていた。

 あれだけ恐怖するのも当然だ。


 あの男の声を聞くだけで、身体が強張るのも。

 笑顔を向けられるだけで、手が震えるのも。

 全部、当然だった。


 それでもアルヴィは、怯えるだけでは終わらなかった。

 扇子を握って、顔を上げて、毅然としていた。


 あの時のアルヴィの姿が、強く頭に残っている。

 俺は、あの強さを尊敬している。

 本気でそう思う。


 尊敬に値するという言葉は、本心だった。

 そうしたら、アルヴィは泣いてしまった。


 誰にも言えず、誰にも理解されず、三度分の死を一人で抱えてきた。

 そして四度目で、ようやく俺に話した。

 俺を信じて、話してくれた。


 そのことが、どうしようもなく嬉しかった。

 誰にも見せたことがないであろう顔を、俺の前でだけ見せたことも。


 同時に、誰にも見せたくないとも思った。

 この顔も、この弱さも、この無防備さも。

 全部、俺だけが知っていればいい。


「……これは決定的だな」


 思わず呟く。

 眠っているアルヴィの顔を見る。


 安心しきったような、どこか幼い寝顔。

 強くて、意地っ張りで、怖がりで、それでも絶対に折れようとしない女。


 そんな彼女が、今は俺の腕の中で眠っている。


 愛おしい。

 その言葉が、あまりにも自然に胸へ落ちてきた。


「俺にだけ見せてくれ」


 声に出したところで、アルヴィには聞こえていない。

 それでも、言わずにはいられなかった。


 俺は彼女の髪をもう一度そっと撫でる。


「好きだぞ、アルヴィ」


 やはり、返事はない。

 聞こえていたら、きっと真っ赤になって怒っただろう。


 意味がわからない、と言うかもしれない。

 からかわないで、と睨んでくるかもしれない。


 その姿を想像すると、少し笑えてしまった。


 前に額にキスをした時も、そうだった。

 目を丸くして、顔を真っ赤にして、何をするのかと怒っていた。

 あれはあれで、可愛らしかった。


 今はただ、無防備に眠っている。


 俺は少し迷ってから、彼女を抱き上げた。

 横抱きにすると、思っていたより軽い。


 眠ったままのアルヴィは、わずかに身じろぎしたが、起きる様子はなかった。


「よく寝ているな」


 小さく呟き、執務室を出る。

 使用人たちは控えているが、俺がアルヴィを抱いているのを見ると、すぐに目を伏せて道を開けた。


 アルヴィの部屋の前まで来て、扉を開けさせる。

 中は整えられていた。


 彼女らしい、と言うべきか。

 派手な装飾は少ないが、必要なものはきちんと置かれている。

 机の上には読みかけの書類と、刺繍道具がまとめられていた。


 俺はベッドまで歩き、アルヴィをそっと下ろす。

 寝かせても、彼女は起きなかった。


 疲れていたのだろう、無理もない。

 今日は、あまりにも多くのことがあった。

 張り詰めていたものが切れれば、眠ってしまうのも当然だ。


 俺は掛け布を引き上げ、彼女の肩までかける。

 アルヴィは少しだけ眉を寄せたあと、すぐにまた穏やかな寝息を立て始めた。


 あどけない寝顔だった。

 起きている時の彼女は、もっと大人びて見える。

 だが、こうして眠っていると年相応に見えた。


 ただ静かに、安心しきったように眠っている。

 その顔を見ていると、どうにも胸の奥が柔らかくなる。


 このままずっと一緒にいたい、朝まで。

 そんなことを、自然と思ってしまう。


 契約結婚だと言って始めたはずなのに。

 互いの利害が一致しただけの関係だったはずなのに。


 もう、そんな言葉で片づけられる気がしない。


 俺はベッドの傍らに膝をつき、そっと彼女の額にかかった髪を払う。

 そして、静かに顔を寄せた。


 額に、軽く唇を落とす。


 前にした時は、あれだけ驚いて怒っていた。

 今は何も知らずに眠っている。

 それが少しだけ惜しくて、少しだけ可笑しかった。


「おやすみ、アルヴィ」


 小さく囁く。

 アルヴィは返事をしない。

 ただ、深く穏やかな寝息を立てているだけだった。


 俺はしばらくその寝顔を見てから、ゆっくり立ち上がった。

 このまま見ていたら、出ていく気がなくなりそうだったからだ。


 扉の方へ向かい、最後に一度だけ振り返る。

 アルヴィは変わらず眠っていた、安心しきった顔で。


 それだけで、胸の奥が満たされる。


「……本当に、手遅れだな」


 自嘲気味に呟いてから、俺は静かに部屋を出た。


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