第23話 虫よりも嫌い
私が黙り込んでいると、リュクスはゆっくりと近づいてきた。
追い詰めたとでも思っているのだろう。
その顔には、ひどく優しい笑みが浮かんでいた。
まるで私のためを思っているみたいに。
まるで、怯えている私を救い上げようとしているみたいに。
「大丈夫だよ、アルヴィ」
リュクスは甘く囁いた。
「君は少し、怖い思いをしただけだ。ジオルド・エリアビルなんかのそばにいるから、わからなくなっているんだよ」
そう言いながら、彼は私の頬へ手を伸ばしてきた。
昔と同じだ。
優しいふりをして、当然のように触れようとしてくる。
けれど、今度の私は動けた。
私は扇子を振り上げ、伸ばされた手を叩き落とした。
「触らないで」
短く言って、そのまま扇子の先をリュクスの首元へ叩きつける。
ばちり、と嫌な音が走った。
「がっ……!」
リュクスの身体が大きく震える。
彼はすぐに反応した。電流が流れる魔道具だと知っていたのか、反射的に私の扇子を弾き飛ばす。
けれど、一瞬だけ遅かった。
膝から力が抜けたように、リュクスはその場に崩れ落ちる。
気絶はしていない。けれど、身体に力が入らないのだろう。
彼は床に片膝をついたまま、荒く息をしていた。
私はその姿を見下ろした。
リュクスが、私の前で跪いている。
四度の人生で、初めて見る姿だった。
いつも見下ろしていたのは、あちらだった。
床に倒れた私を、痛みに呻く私を、泣いても拒んでも逃げられない私を、彼はいつも笑って見下ろしていた。
そのリュクスが今、私の前で膝をついている。
それだけで、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ晴れる気がした。
「っ……アルヴィ」
リュクスが、低い声で私を呼ぶ。
その目には、さっきまでの甘さはなかった。
怒りと、信じられないというような歪みだけがある。
「お前、こんなことをして、許されるとでも……」
「許しを乞うつもりなんてないわ」
私は冷たく返した。
その時だった。部屋の外が騒がしくなる。
複数の足音。誰かが争うような物音。
リュクスはそれを聞いて、ふっと笑った。
「残念だったね」
声は少し掠れていたが、まだ余裕を取り戻そうとしている。
「この伯爵家の屋敷には、僕の手の者が何人も待機している。君が抵抗したら、無理にでも連れて帰るためにね」
「……」
「一人で来たのが仇になったね、アルヴィ」
その言葉に、私は思わず笑った。
リュクスの眉がぴくりと動く。
「何がおかしい?」
「私がいつ、一人で来たと言いましたか?」
次の瞬間、応接室の扉が開いた。
入ってきたのは、リュクスの配下ではなかった。
赤い髪と赤い瞳を持つ男性。
いつも通り隙のない足取りで現れたのは、ジオルドだった。
リュクスが、はっきりと目を見開く。
「なぜ……お前がここに……」
ジオルドは床に膝をついているリュクスを見て、それから私を見た。
そして、口元を上げる。
「なんだ。面白いことをしているようだな」
こんな状況だというのに、本当に楽しそうだった。
「もっと早く来ればよかった」
「ええ。誰かさんの無様な姿を見るのは、想像以上に楽しかったわ」
リュクスの顔が、怒りで歪む。
けれど身体はまだ痺れているのか、すぐには立ち上がれないようだった。
ジオルドはそんな彼を見下ろしながら、ゆっくりと部屋に入ってくる。
「なぜ俺がここにいる、と聞いたな」
低い声だった。
「俺が、大事な妻を一人で没落寸前の実家に帰らせると思ったのか?」
大事な妻。その言葉に、胸が少しだけ跳ねた。
こんな時なのに。リュクスを前にしているのに。
それでも、ジオルドが当然のようにそう言ったことが、妙に胸に響いてしまう。
リュクスは悔しそうに唇を歪めた。
「……一人では来ないとは思っていた。だが、護衛を何人かつける程度だと」
「そこがお前の計算違いだな」
ジオルドは淡々と言う。
「お前は俺のことを、冷たい人間だと理解している。どうでもいい存在には興味を示さない。そう考えたんだろう」
「そのはずだ。あなたは冷血公爵だ。父も兄も切り捨てた男だ」
「ああ、その通り。だいたいは、お前の計算通りだ」
ジオルドは否定しなかった。
「俺はどうでもいい人間には興味がない」
そこで、彼の視線が私に向く。
「だが、俺には親友もいるし、大事な女もいる」
「っ……」
「それがお前との違いだ」
リュクスの表情が、今度こそはっきりと歪んだ。
私も、少しだけ息を呑む。
大事な女。
その言葉を、まっすぐ向けられた気がしたから。
リュクスは震える手で、机の上の借用書を掴もうとした。
「だが……借用書は本物だ」
彼は苦しそうに息をしながらも、まだ笑おうとしていた。
「これをどうする気だ。保証人には、彼女の名前が――」
「無効に決まっているだろう」
ジオルドは即答した。
「親が勝手に名前を書いたと証明すればいい。そもそも保証人の名前はアルヴィ・エナティだ。今はアルヴィ・エリアビルだぞ」
「そんな理屈が、通るとでも?」
「通すに決まっている」
ジオルドは冷たく笑った。
「どうせお前が仕組んだことだからな。それが例え本物だとしても――全面的にやり合う覚悟はできているぞ」
「くっ……」
リュクスの喉から、悔しそうな声が漏れた。
彼はまだ、ジョルアン侯爵家の当主ではない。
どれほど力を持っていても、真正面からエリアビル公爵家当主であるジオルドとやり合う準備はできていないのだろう。
勝負は、もう決まっていた。
私は一歩、リュクスの前へ出る。
彼はまだ膝をついたまま、こちらを睨んでいた。
その視線に、昔なら竦んでいただろう。
でも今は、違う。
「リュクス・ジョルアン。私はあなたと結婚する気は、一切ありません」
リュクスの目が、細くなる。
「私は、あなたがこの世で一番嫌いです」
「……アルヴィ」
「虫よりも、嫌いです」
その瞬間、リュクスの顔から表情が消えた。
それを見て、ほんの少しだけ胸がすっとした。
私はもう、彼に何も言わなかった。
ジオルドが私の隣に立ち、そのまま部屋の外へ歩き出す。
私もその後に続いた。
応接室を出る時、リュクスはまだ床に膝をついていた。
悔しそうに、怒りに震えながら。
けれど、追ってくることはできなかった。
廊下に出ると、そこには数人の男たちが倒れていた。
おそらく、リュクスの配下だろう。
ジオルドの兵士たちが押さえ込んだのか、床に転がされている者もいれば、壁際で拘束されている者もいる。
屋敷の端の方には、父と母、ベッラが固まって立っていた。
三人とも青ざめ、震えている。
誰も、何も言ってこなかった。
私はその横を通り過ぎる。
振り返らなかった。
外へ出ると、空気が少し冷たかった。
でも、胸の奥はさっきよりずっと軽い。
屋敷の前には、公爵家の馬車が待っていた。
ジオルドは私を見て、少しだけ笑った。
「よくやったな、アルヴィ」
その言葉に、私は小さく息を吐く。
そして、自然と笑っていた。
「ええ。あいつの情けない姿を見て、清々したわ」
「それは何よりだ」
「協力ありがとう、ジオルド様」
「俺は大したことはしていない」
私は苦笑した。
この人は本当に優しい。この人がいなければ、リュクスを前にあれだけ胸を張って行動できなかったから。
もう、あの男に怯えるだけの私ではないと、少しだけ思えたから。
「……ジオルド様、私、あいつが跪いているのを見るのは初めてだったわ」
「そうか、それはよかったな」
「ええ――四度目の人生で、初めてだったわ」
ジオルドの動きが止まる。
「四度目?」
赤い瞳が、まっすぐ私を見る。
私は小さく息を吸った。
怖くないと言えば嘘になる。
それでも、もう誤魔化したくなかった。
「ええ」
私は彼を見返して、ゆっくりと言った。
「私は今、四度目の人生を過ごしているの」
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