第21話 秘密と最後の手紙
その日の昼食のあと、私は再びシロト様とお茶をご一緒することになった。
今度はジオルドはいない。仕事があるからと、昼食を終えてすぐに執務室へ戻っていった。
だから、応接室にいるのは私とシロト様の二人きりだ。
窓からやわらかな光が差し込み、白いレース越しに庭の緑が揺れている。
落ち着く空間のはずなのに、私はやっぱり少しだけ背筋を固くしてしまう。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ」
カップを持ち上げながら、シロト様がやさしく笑った。
その笑い方は昨日と同じで、押しつけがましさがなくて、ただ静かにこちらを安心させるようなものだった。
「……そう思っているのですけれど、なかなかうまくいかなくて」
「ふふ。真面目なのね、アルヴィさんは」
「そんなことは……」
「あるわ。少なくとも、うちの息子よりはずっと」
思わず少しだけ笑ってしまう。
そのせいで、さっきまで張っていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。
最初は本当に他愛のない話だった。
シロト様は話し上手というより、聞かせ上手な人だった。
こちらが何かを答えると、急かさずに次の言葉を待ってくれる。
だから私も、昨日よりは少し自然に話せていたと思う。
けれど、やがて話題は、どうしても今の現実に触れていく。
「最近は、社交界も騒がしいでしょう」
シロト様が、静かにカップを置きながら言った。
「ええ……」
私は少し迷ってから、素直に頷いた。
「いろいろと、噂になっています」
エナティ伯爵家の没落。
ジョルアン侯爵家に関する監察局の件。
そして、そんな家の娘だった私がエリアビル公爵家へ嫁いだこと。
社交界では、一度火がついた噂はなかなか消えない。
しかも今回は、リュクスが意図して流したものまで混ざっている。
全部を否定したところで、綺麗に消せるようなものじゃなかった。
私は一度視線を落としてから、口を開いた。
「……申し訳ありません」
シロト様が小さく目を瞬く。
「何についてかしら?」
「私の実家のことです」
自分でも、少し硬い声だと思った。
「エリアビル公爵家の現公爵夫人の私が、没落寸前の伯爵家の娘だというのは事実ですし……そのことを、社交界でもいろいろ言われています」
そこまで言ってから、私は少しだけ唇を引き結んだ。
「本来なら、もっと家格も立場も整った方が隣に立つべきだったのかもしれません」
そう口にすると、胸の奥が少しだけざらつく。
別に、自分を卑下したくて言っているわけじゃない。
でも現実として今の私はジオルドの妻であり、エリアビル公爵家の看板の一部でもある。
その立場に、私の生まれや実家の現状が泥を塗っているように見える人もいるのは事実だった。
けれどシロト様は、少しも困った顔をしなかった。
むしろ、穏やかなまま首を横に振る。
「全然問題ないわ」
「……え?」
「だって、エリアビル公爵家だって、ジオルドがいなければ没落していたかもしれないもの」
思わず顔を上げる。
シロト様は、静かな声で続けた。
「数年前、当主と次期当主だった嫡男が犯罪をして死罪になったでしょう?」
「……はい」
「表向きには、公爵家は残った。でも、あの時点で一歩間違えれば、家ごと崩れていてもおかしくなかったのよ」
その言葉は重かった。
昨日ジオルドから聞いた話が、そのまま別の角度から現実味を持って迫ってくる。
「公爵家が急に傾けば、その下で働いている人たちもいる。領地の管理をしている者も、屋敷に仕える使用人も、取引先も、皆まとめて路頭に迷うことになる」
シロト様は紅茶を一口飲んでから、ゆっくりと息を吐いた。
「だから、潰れるわけにはいかなかったの」
「……」
「ジオルドは十五歳であの子なりに立ち上がってくれたけれど、それだけで全部が整うわけではなかったわ。表には出ないところで、私も一緒に動いたの」
その声は穏やかなのに、そこに積み重ねられたものの大きさがわかる。
前公爵夫人として。母として。
そして、公爵家を残す責任を持つ人として。
きっと想像もつかないくらい大変だったのだろう。
「それでも陰ではね、今でも言う人がいるのよ」
シロト様は少しだけ苦笑した。
「エリアビル公爵家なんて、あの時潰れた方がよかったのに、って」
「そんな……」
「あるのよ、そういう声は。だから、没落寸前の伯爵家の娘だった、なんて、私からしたら全く問題ないわ」
そこでようやく、私は言葉を失った。
自分の家のことばかり考えていたけれど、エリアビル公爵家だって決してずっと順風満帆だったわけじゃない。
むしろ、崩れかけた家をジオルドとシロト様が支えて、ここまで立て直してきたのだ。
そのことを思った瞬間、胸の奥に強いものが込み上げた。
「……素晴らしいです、シロト様」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「シロト様も、ジオルド様も」
私の声は、少しだけ熱を帯びていた。
「そこまで家を支えてきたなんて……本当に、すごいです」
シロト様は少し目を丸くして、それからやわらかく微笑んだ。
「ありがとう」
たったそれだけの言葉なのに、妙にまっすぐだった。
「でも、そう言ってくれるなら、私もあなたがこの家へ来てくれてよかったと思うわ」
「……私が、ですか?」
「ええ」
シロト様は、静かな目で私を見た。
「あの子、気に入った相手にはわかりやすいのよ」
「わかりやすい?」
「ええ。心を許している相手には、ちゃんとそういう笑みを浮かべるの」
その言葉を聞いた瞬間、昨日のことが頭をよぎった。
自室の前で、不意に近づいてきた気配。
額に落ちた、あのキス。
思い出した瞬間、顔が熱くなりそうになって、私は慌てて紅茶に視線を落とした。
だめ、今それを思い出すのは。
よりによって義母の前で。
「……アルヴィさん?」
「な、何でもありません」
危なかった。今、絶対に顔に出ていた。
私は気持ちをどうにか押し戻してから、できるだけ自然な声で言った。
「こちらこそ……ジオルド様のもとへ来られて、よかったです」
それは本心だった。
逃げるための契約結婚。
始まりはそうだったはずなのに、今はもう、それだけじゃないと思っている。
でも同時に、胸の奥に小さな引っかかりもあった。
――私はまだ、ジオルドに話していない。
未来予知のギフテッドなんかじゃなくて。
本当は、死に戻りのギフテッドなのだということを。
三度死んで、三度ともリュクスに殺されたことを。
それを言えていないまま、こうして信頼されていることが、少し苦しかった。
シロト様との茶会は、その後も穏やかに続いた。
そして夕方前、シロト様はまた王都の別邸へ戻っていった。
馬車を見送ったあと、私はひとり中庭の方へ歩いた。
ちょうど風がよく通る場所で、花壇の花がゆっくり揺れている。
そこに立ったまま、私はぼんやりと考えた。
ジオルドに話していない秘密。未来予知ではなく、死に戻りだということ。
これを、言うべきなのだろうか。
それとも、このまま黙っているべきなのだろうか。
でも、答えは本当は最初からわかっている。
ジオルドは――おそらくもう気づいている。
私が未来予知のギフテッドなんて持っていないことに。
彼には、嘘を見抜くギフテッドがある。
初めて会ったあの夜、私は『未来予知のギフテッドよ』と言った。
あの時から、たぶん彼は、それが嘘だとわかっていたはずだ。
でも同時に、私が語った内容――ジオルドが死ぬことや、横領のことや、自分がリュクスに殺される危険があること――それ自体は、嘘ではないとわかったのだろう。
だからこそ、彼は取引に応じた。
面白いと言って、契約結婚にまで踏み切ってくれた。
つまり、彼は知っている。
私が未来予知ではない何かを隠していることを。
それでも問い詰めずに、待っていてくれている。
私が自分から話すのを。
そこまでわかっていて、気づかないふりを続けられるほど、私は愚かじゃない。
「……言うべき、よね」
彼なら信じてくれる。だって、嘘は見抜けるのだから。
でも――それでも怖い。
三度死んで、三度戻ってきた人間。
そんなもの、普通は気味悪がるだろう。
いくらジオルドでも、見る目が変わるかもしれない。
それが怖かった。
でも、言わないままではいたくないとも思う。
彼が私を信頼してくれているように、私も彼を信頼したいから。
そうやって、答えの出ない考えを巡らせていた時だった。
「奥様」
使用人の声に、私ははっと振り返る。
「お手紙が届いております」
「手紙?」
差し出された封筒を受け取り、何気なく差出人を見て――私は目を止めた。
家族からだった。嫌な予感がする。
私はそのまま自室へ戻り、机の前に座って封を切った。
最初の数行を読んだだけで、指先が少し冷えた。
「……お母様が、危篤?」
思わず声が漏れる。
重い病にかかっていて、治す薬を買う金もない。
もう没落は受け入れた。
せめて最後に、家族三人で静かに暮らしたい。
だから助けてほしい。
公爵家には内緒で、金だけ持ってきてほしい。
最後の頼みだ――。
そこまで読んで、私はしばらく動けなかった。
信じていいのか。
でも、あの家族がこんな手紙を出してくる時点で、ろくでもない気もする。
それでも、本当に危篤だったら?
便箋を持つ手に、少しだけ力が入った。
「……どうしましょうか」




