第20話 額と信頼
なぜかジオルドに笑われた。
しかも、思った以上に楽しそうに。
肩を揺らして、目元まで緩めて、さっきまで自分の重い過去を語っていた人とは思えないくらいに。
正直、何がそんなにおかしかったのかは、よくわからない。
私はただ、思ったことをそのまま言っただけだ。
ひどい幼少期だったとは思う。そこは本当にそう思う。
でも、それを乗り越えて、自分の手で父親と兄を断罪して、公爵家当主にまでなったのなら、それはやっぱりすごいことだとしか思えなかった。
でも――笑ったあとのジオルドは、さっきまでより少しだけ軽い顔をしていた。
どこか沈んでいた空気が、ほんの少しだけ薄くなっていた気がする。
だからまあ、理由はわからなくても、元気になったのならよかったのかもしれない。
私は執務室の椅子に座ったまま、まだわずかに笑いの余韻を残しているジオルドを見た。
彼が父親と兄を断罪したこと自体は、前から知っていた。
冷血公爵と呼ばれる理由のひとつでもあるし、社交界でもその話は有名だ。
でも、その詳細までは知らなかった。
どう育って、何を見て、どんなふうにそこへ辿り着いたのか。
その中身までは、誰も知らない。
少なくとも、私は知らなかった。
それを、彼は話してくれた。
信頼していると、言葉でも言われた。
でも、それだけじゃなくて。
ああいう過去を話してくれたこと自体が、ちゃんとそういうことなのだと思えた。
私だって、家族とは誰一人仲良くなかった。
ジオルドには母親がいた。味方ではあったのだろう。
けれど、本当に一番必要な時には、遠くにいた。
私も同じだ。
私には最初から、味方なんていなかった。
父も母も、ベッラも、誰も守ってくれなかった。
怖いと言っても、嫌だと言っても、助けてと言っても、全部無視された。
その果てに、私はリュクスに三度も殺された。
だから、彼の話を聞いて、少し思ったのだ。
私も、あんなふうになれたらよかったのに、と。
自分の手で全部ひっくり返せるくらい、強くなれたらよかったのに、と。
でも今さら、ないものを羨んでも仕方ない。
だからせめて、彼みたいに頑張りたいと思った。
折れずに、諦めずに、自分の足で立っていたいと。
しばらくして、私が先に小さく息を吐いた。
「……じゃあ、今日はもう寝るわ」
そう言って立ち上がると、ジオルドも自然に椅子から腰を浮かせた。
「ああ、送るよ」
私は思わず目を瞬いた。
「え?」
「部屋までだ」
「……今までそんなこと、したことなかったでしょう」
「そうだったか?」
「そうよ」
むしろ、ここで話は終わりだな、でそれぞれ解散する方がいつもだった。
なのに今日は、彼は当然みたいな顔で扉の方へ向かっている。
私は少し戸惑いながらも、その後を追った。
夜の廊下は静かだった。
足音だけが、やけに控えめに響く。
隣を歩くジオルドは、さっきまであれだけ自分の過去を話していたくせに、今は何も言わなかった。
私も、何を話せばいいのかわからなくて黙っていた。
そうして自室の前まで着いて、私は扉の前で足を止める。
「……じゃあ、おやすみなさい」
「ああ」
いつもなら、そこで終わりだったはずだ。
でも、その次の瞬間。
ジオルドが一歩だけ近づいてきたと思ったら、額に何か柔らかいものが触れた。
「――っ」
一瞬、本当に何が起きたのかわからなかった。
でも、すぐに理解する。
額に、キスされた。
「な、なにすんの!?」
私は慌てて一歩下がった。
顔が一気に熱くなる。
額を押さえて睨みつけると、ジオルドはまるで悪びれもしない。
「ふっ、俺が信頼している妻が愛おしくなってな」
「はぁ!?」
何を言っているの、この人は。
「意味がわからないんだけど!?」
「そのままの意味だ」
「なおさら意味わからないけど!」
「駄目か?」
「駄目に決まってるでしょう!」
私がそう言うと、ジオルドはくつくつと笑った。
絶対に楽しんでいる。
完全に、面白がっている。
「じゃあ、おやすみ」
「ちょ、ちょっと……!」
怒鳴ったところで、もう遅い。
ジオルドはそのまま機嫌のよさそうな顔で廊下を戻っていった。
私はしばらく扉の前で固まったまま、額を押さえていた。
「……何なのよ、もう……」
ひとりになってから呟いても、顔の熱は少しも引かなかった。
翌朝起きてからも、思い出すたびに腹が立つような、恥ずかしいような、妙な気持ちが続いていた。
しかも、こういう日に限ってジオルドは朝から仕事へ行ってしまっている。
文句を言いたくても相手がいない。
だから私は、午前の仕事がひと段落したあと、半ば愚痴をこぼすつもりでハックに話した。
「あの人、本当に意地悪よね」
開口一番そう言うと、ハックは書類を持ったまま一瞬だけ目を瞬かせた。
「……何かありましたか?」
「何かあったわよ」
私は腕を組んだ。
「昨日、過去の話をしてきたの」
「過去?」
「父親と兄のこととか、ギフテッドのこととか」
そこまで言った瞬間、ハックがわかりやすく固まる。
「……ジオルド様が?」
「そう」
「あなたに?」
「そうよ」
ハックはしばらく黙った。
それから、本気で驚いたように言う。
「まさか、ジオルド様があなたにそこまで話すとは思っていませんでした」
「そんなに珍しいことなの?」
「珍しいどころではありません」
きっぱり言われて、私は少しだけ言葉に詰まった。
「そう……」
やっぱり、あれは軽いことじゃなかったのだろう。
もちろん何となくはわかっていたけれど、ハックにまでそう言われると、余計に実感する。
「それで?」
ハックが少しだけ口元を緩める。
「何をされたんですか」
「されたって何よ」
「今の流れで、何もないとは思えません」
この人、妙なところで鋭いのよね。
私は少しだけ視線を逸らした。
「……額にキスされた」
「なるほど」
「なるほど、じゃないのよ!」
思わず声が大きくなる。
「いきなりよ!? 意味がわからないでしょう!?」
「そうですね」
「しかもあの人、『信頼した妻が愛おしくなって』とか言ったのよ」
言いながら自分で思い出して、また頬が熱くなる。
「本当に何なのかしら……」
ハックはそんな私を見て、少しだけ楽しそうに、それでいてどこか安心したようにも見えた。
「……どうか、私の主人を」
ふいに、彼は真面目な声になった。
「友を、よろしくお願いします」
私はその言葉に、思わず顔を上げる。
ハックの目は冗談ではなかった。
軽口ではなく、本気で言っているのがわかる。
「べ、別に」
私は少しだけしどろもどろになりながら言った。
「契約結婚とは言っても、夫婦だから……少しはね」
言いながら、自分でも何を言っているのかわからなくなる。
でも、否定するのも違う気がした。
ハックはそんな私を見て、小さく笑った。
「ええ。それで十分です」
その返し方が妙に穏やかで、私はまた少しだけ落ち着かなくなった。
昨日の額の感触が、まだ消えない。




