第19話 ジオルドの過去と憧れ
アルヴィは向かいで静かに座っている。
急かさない。変に憐れむような顔もしない。
ただ、聞く姿勢だけをまっすぐこちらへ向けていた。
そのことが、逆にありがたかった。
「俺は、愛されて育っていない」
最初の言葉は、それだった。
「父にも、兄にも、だ。母は……愛してくれていたと思うが、ずっと傍にいたわけでもない」
記憶の底を辿るように、俺はゆっくり言葉を選ぶ。
兄は歳が離れていた。
外から見れば優秀な嫡男だった。頭も回るし、人当たりも悪くない。公爵家の跡継ぎとして文句のない出来だと、周囲は皆そう言っていた。
だが、内側は違う。あいつは、自分より弱い相手をいたぶるのが好きだった。
最初は、よくある兄弟喧嘩みたいなものかと思っていた。
子どもの頃は、自分がやられていることの意味を、正確に理解できていなかったからな。
だが、年齢を重ねるにつれてわかった。
あれはただの嫌がらせでも、子どもの悪戯でもなかった。
兄は、俺を使って鬱憤を晴らしていた。
機嫌が悪ければ、呼びつける。返事が遅いと殴る。
食事の席で失敗を笑い、剣の稽古では必要以上に叩きのめす。
人目のあるところではやらない。
あるいは、やったとしても『弟のため』という顔をする。
その手際だけは妙に上手かった。
『お前は本当に鈍いな』
『これくらいできないと、公爵家の人間として恥だぞ』
『兄として教育してやっているんだ。感謝しろ』
そう言いながら、よく笑っていた。愉快そうに。
まるで、俺が苦しむのを見るのが心底楽しいみたいに。
父は、それを見ても止めなかった。
いや、見ているどころか、むしろ肯定していたな。
『弱い方が悪い』
『やり返せないなら、お前に価値はない』
『強い者が上に立つのは当然だ』
父はそういう男だった。
兄が俺を嬲っているのを見て、眉ひとつ動かさない。
泣けば鬱陶しそうに顔をしかめ、立ち上がれなければ『見苦しい』と切り捨てる。
今思えば、兄は父に似ていたんだろう。
外面の良さも、中身の腐り方も。
母上は、そんな父とは合わなかった。
元々体が強くない人だったし、子どもの教育についても父とは考え方がまるで違った。
何度もぶつかって、何度も折れそうになって、それでも限界が来たのだろう。
ある時期から、実家に戻るようになった。
俺はそのことを、母を責めたことはない。
責められるような状況じゃなかったからだ。
それに、母は会うたびに言った。
『ジオルド、あの時あなたも連れて帰ればよかった』
『ごめんなさいね』
『本当に、ごめんなさい』
何度もそう言われた。
うんざりするほど聞いた気もするし、たぶん実際にはそこまで多くはなかったのかもしれない。
ただ、それくらい強く印象に残っている。
だが、その頃の俺は、もう人を信じるという感覚をかなりなくしていた。
母の謝罪も、ありがたいより先に、どうしようもなさを感じる方が強かった気がする。
父と兄は、あいつらは外でも好き放題やっていた。
金を流す。弱い家を脅して取り込む。
都合の悪い使用人を消す。事業に不正に噛み、口を塞ぎ、証拠を潰す。
全部、当然のようにやっていた。
力がある側が奪うのは当たり前なのだと、心の底から信じていたからだ。
だから俺は、隠れて証拠を集めた。
最初は、生き延びるためだった。
あいつらにやり返されないように。
どこを見て、何を隠して、誰と繋がっているのかを知っておかなければ、こちらが死ぬと思ったからだ。
だが途中から、それだけじゃなくなった。
いつか潰すために集めていた。
書類の読み方を覚えた。帳簿の誤魔化し方も、その癖も覚えた。
使用人の動き、人の顔色、裏口の出入り、金の流れ。
必要だと思えば何でも学んだ。
剣も体術も鍛えた。
兄より体格で劣るうちは、正面からぶつかっても勝てないとわかっていたからだ。
だから食事も睡眠も訓練も、全部計算した。
自分の体をでかくして、強くして、あいつらが二人がかりで来ても潰されないように。
十五の頃には、必要なものはほとんど揃っていた。
「国に証拠を出す前に、俺は一度、父と兄の前へ行った」
アルヴィの睫毛が、わずかに揺れる。
「なぜだと思う?」
「……確認のため?」
「半分はそうだな。もう半分は、あいつらの顔を見たかった」
証拠を机に並べた時のことは、今でもよく覚えている。
兄は最初、笑っていた。
父は面倒そうに見下ろしていた。
だが、一枚ずつ内容を理解していくうちに、表情が変わった。
『ジオルド、お前……』
『どこでこれを手に入れた』
『こんなものを集めて、何のつもりだ』
俺は、その時、妙に冷静だった。
『断罪する』
『国にも提出するが、その前に知らせておこうと思ってな』
そう言った瞬間、二人の顔が一気に歪んだ。
もちろん、反撃してくることはわかっていた。
だから、証拠を突きつけたのは、俺が二人に体格で負けなくなってからだ。
父と兄は本気で俺を潰しにきた。
机を蹴り飛ばし、掴みかかり、殴り、押さえつけようとした。
だが、遅かった。
もう俺は、やられる側じゃなかった。
兄の拳を受け止め、叩き折るように捻り上げた。
父の蹴りを避けて腹へ入れ、壁に叩きつけた。
何度立ってきても、何度でも潰した。
骨の折れる音も、呻き声も、あまり覚えていない。
ただ、ずっと静かだった気がする。
俺の頭と心の中が、だ。
『やめろ……!』
『ジオルド、待て! 話し合おう!』
『お前だってエリアビルの人間だろう!』
そうやって命乞いしてきた時、少しだけ笑いそうになった。
『弱い方が悪い。そうだろう?』
父も兄も、顔を引きつらせた。
自分たちが散々口にしてきた言葉を返されて、初めて、それが自分の首を絞めるとわかったんだろうな。
だが、俺は容赦しなかった。
その後、国に証拠を出して、二人は死罪になった。
公には、法による断罪だ。
だが、あいつらにとって、本当の終わりは俺の前で膝をついたあの時だったと思う。
そこで俺は少し黙った。
執務室の空気は静かで、窓の外の音がやけに遠い。
「母が王都へ来た時には、全部終わっていた」
俺は、自分の手元を見る。
「母は俺を見て、安心しなかっただろうな」
死んではいない。折れてもいない。
でも、生きているだけで、中身はもうだいぶ壊れていたと思う。
よく覚えている。
母が俺を見た時、一瞬だけ泣きそうな顔をした。
たぶん、目が死んでいたんだろう。
愛され方を知らないまま育って、信じるものもなく、憎しみと必要だけで動いていた十五のガキだ。
性格が歪まない方がおかしい。
その後、母がまた俺に関わるようになった。
学校へ行けと言われ、行った。
そこでハックと会った。
あいつは変な男だった。
俺がどれだけ愛想なくしていても、妙に平然としていたし、必要以上に踏み込まないくせに、勝手に隣へ居座るような奴だった。
母とハック、その二人のおかげで、まあ多少はまともになったとは思う。
多少、だがな。
でも結局、根っこはあまり変わらなかった。
誰も信頼しない。誰も信じない。
この世なんて、死ぬまでの暇つぶしだ――本気でそう思っていた。
だから、二カ月前の夜。
アルヴィが突然現れて、『あなたは二カ月後に死ぬ』なんて言い出した時も、俺は自分の命を惜しいとは少しも思わなかった。
怖くもなかった。どうでもよかった。
ただ、面白いことが起こるかもしれないと思っただけだ。
「……でも、お前は違った」
そこだけは、少しだけ声が変わった気がした。
アルヴィは、自分の命を生きるために必死だった。
殺されないために足掻いて、逃げて、それでも諦めないで、みっともなくても前へ出てきた。
しかも、自分だけ助かればいいとは言わなかった。
俺のことまで、全力で助けようとした。
あんなものを見せられたら、そりゃ目も離せなくなる。
……嬉しかったんだろうな、たぶん。
それに、少し憧れた。
まだそこは、正面から言うには少し気恥ずかしい。
だが本当だった。
命なんてどうでもいいと思っていた俺に、自分の命を生きるために足掻くアルヴィは、ひどく眩しかったのだ。
そこまで話して、俺はようやく口を閉じた。
執務室の中は静かだった。さっきまで自分の声で埋まっていた空気が、急に広くなった気がする。
俺は椅子の背にもたれたまま、しばらく黙っていた。
別に、返事が怖いわけじゃない。
ただ――少しだけ、気になった。
「……で」
自分でも驚くくらい、声は平坦だった。
「俺の過去を知って、どう思った?」
アルヴィは一瞬だけ目を瞬いた。
けれど次の瞬間には、あいつはあっさりと口を開いた。
「すごいなぁ、いいなぁって思ったわ」
「はぁ?」
あまりにも予想外で、間の抜けた声が出た。
いいなぁ? 何だそれは。
アルヴィはそんな俺を見て、少しだけ首を傾げる。
「だって、そうでしょう?」
「いや、どこがだ」
「大変な幼少期だったのはわかるわよ。そこは普通にひどいと思うし、同情もする」
そこで一度言葉を切って、彼女は続けた。
「でも、境遇は近いもの。暴力を振るわれたわけじゃないけど、家族に愛されなかったって意味では、私も似たようなものだし」
そう言ってから、アルヴィはまっすぐ俺を見た。
「その上で、あなたは自分の力で父親と兄を仕留めて、復讐して、そこから成り上がったのよね」
「……」
「それって、すごいことじゃない」
声音は妙に素直だった。
「そこまでいくのに、どれだけ努力したのかも想像できるもの。書類も、証拠集めも、体を鍛えるのも、全部ひとりで積み上げたんでしょう?」
「まあ、そうだな」
「だから、尊敬するわ」
あまりにも自然にそう言われて、俺は一瞬だけ言葉を失った。
尊敬する。
そんな言葉が返ってくるとは、思ってもみなかった。
アルヴィは、少しだけ視線を落とした。
「私だって、できるものなら自分の手でリュクスを仕留めたいもの」
その言葉には、静かな熱があった。
「でも、現実には難しいわ。あいつは侯爵家嫡男で次期当主、私はただの伯爵家令嬢だった。力の差がありすぎたもの」
「……」
「だから、なおさら思うのよ。あなたはちゃんと自分の手で道を切り開いたんだって」
そこまで聞いて、俺はふと尋ねていた。
「……憐れんだりはしなかったのか?」
アルヴィが顔を上げる。
「憐れむ?」
「ああ」
自分でも、少しだけ妙な問いだとは思った。
だが、聞かずにはいられなかった。
「ひどい幼少期だった、可哀想だった、不幸だった。そういうふうには思わないのか」
すると、アルヴィは本当に不思議そうな顔をした。
「その境遇は同情するわよ?」
「……」
「でも、憐れむところある?」
あっさりと言われて、今度こそ黙ったのは俺の方だった。
アルヴィは続ける。
「だって、あなたがすごいだけじゃない」
「……は」
「たしかに環境は最悪だったでしょうけど、その中でちゃんと力をつけて、証拠を集めて、潰して、公爵家当主にまでなったんでしょう? それって、憐れむ話じゃなくて、すごい話じゃないの?」
そこで、とうとう俺は吹き出した。
「……っ、はは」
笑いが漏れる。
止まらない。
「はははっ……!」
肩が揺れるくらい、久しぶりにまともに笑った気がした。
アルヴィは目を丸くしている。
自分が何か変なことを言ったのか、本気でわかっていないらしい。
その顔を見たら、余計に可笑しくなった。
「な、何よ」
「いや……っ」
笑いを抑えようとしても、喉の奥からまだ込み上げてくる。
「お前、本当に……」
「だから何なのよ」
「ははっ……いや、悪い」
悪いどころか、こんなに笑ったのはいつぶりだろうなと思う。
父と兄を断罪した話。
それを知った連中の反応は、だいたい決まっていた。
可哀想だと憐れむか。怖いと引くか。
あるいは、歪んだ俺を受け止められるのは自分だけだ、とでも言いたげに近づいてくるか。
どれも、退屈だった。
浅くて、気味が悪くて、面倒だった。
けれど、アルヴィは違った。
可哀想ではなく、すごいと言った。
憐れむのではなく、尊敬すると言った。
しかも何の打算もなく、本気でそう思っている顔だった。
そんな反応、想像したこともない。
「……お前は、本当に予想がつかないな」
ようやく笑いが収まってきたところで、俺はそう言った。
アルヴィはまだ少し不服そうに眉を寄せている。
「だから、何で笑っているのよ」
「いや」
俺は口元を押さえながら、もう一度小さく息を漏らした。
「過去を話した相手に、そんな反応をされたのは初めてだっただけだ」
「初めて?」
「ああ」
「変な人たちばっかりだったのね」
「ふっ、そうだな」
即答すると、アルヴィは少しだけ呆れたような顔をした。
でもその目は、どこか柔らかい。
お前が一番変な奴だよ、アルヴィ。
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