第18話 ジオルドの母とつまらない話
――数日後の朝食の席で、私はバターを塗ったパンを手にしたまま、小さく息を吐いた。
「……やっぱり、広がっているのね」
向かいに座るジオルドは、紅茶のカップを置きながら短く頷く。
「ああ。お前が聞いたお茶会の中だけじゃない。もう普通に噂として流れている」
「普通に、って……どのくらい?」
「少なくとも、社交界で顔を出している家のいくつかは知っているな。『元々はリュクス・ジョルアンの婚約者だった』『それを裏切って俺と結婚した』、そういう形で広がっている」
やっぱり。予想はしていたけれど、実際にそう聞かされると気分が悪い。
私はパンを皿に戻した。
「出所は?」
「探らせている」
ジオルドはそう言ってから、少しだけ目を細めた。
「だが、うまく煙に巻かれている。誰かひとりが言い出した形じゃない。あちこちで、自然とそういう話になったように見せている」
「……あいつらしいわね」
「ああ」
その返事には、変な感情は混じっていなかった。
でも、だからこそ余計に現実味がある。
リュクスは、こういうことができる男だ。
自分は直接手を汚さず、誰が最初に流したのかわからない形で噂を広げる。そうすれば、否定しても完全には消えない。汚泥のような噂だけがじわじわと広がっていく。
「出所までは探り切れていないが、やっているのが誰かはわかる」
ジオルドがナイフを置いた。
「情報戦に強くて、頭も回る。しかも自分の手を見せない。そんな面倒な真似をするのは、まああいつだろうな」
「リュクスね」
あの手紙を読んだ時から、いずれこういう形でも来るだろうと思っていたのだ。
「放っておく気はない。だが、今すぐ噂の火元を潰せるかというと、そうでもない。だから今は別の手を打つ」
「別の手?」
「いずれな」
そう言って、彼は少しだけ肩をすくめた。
「それより、今日は他にやることがある」
その言葉で、私はふと今朝ハックに聞いたことを思い出す。
「ああ……お義母様がいらっしゃるのよね」
「そうだ」
ジオルドの母親。
前公爵夫人、シロト・エリアビル。
今は王都ではなく、エリアビル公爵家が持つ領地の別邸で暮らしているらしい。その人が、息子が結婚したと聞いてこちらへ来るのだ。
私は無意識に背筋を伸ばした。
「……緊張するわ」
「そうか?」
「そうよ。初めて会うのよ?」
「別に食われたりはしない」
「そういう問題じゃないでしょう」
そう言い返すと、ジオルドがくつりと笑った。
「お前、リュクス・ジョルアン相手にはあれだけ啖呵を切るくせに、母上には緊張するのか」
「……それとこれとは別なの」
「ははっ、そうか」
面白そうに笑われて、少しだけむっとする。
でも、そんなふうに軽くされる方が、かえって気が楽になるのも事実だった。
「母には契約結婚のことは話していない」
ジオルドがふと真面目な声で言う。
「だから、普通に俺が結婚したと思っているはずだ」
「……やっぱり、そうよね」
「まあ、ただの恋愛結婚ではないことくらいは、たぶんわかっているだろうが」
「伝えていないのに?」
「ああ、母は俺のことを知っているからな」
それがどういう意味なのか、私は少しだけ気になった。
でも、その時はまだそこまで深く聞かなかった。
昼過ぎ、屋敷の前に馬車が着いた。
私はジオルドと並んで玄関へ立つ。
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。こういう場面の挨拶も、夫人としての所作も習ってきたけれど、やっぱり初めて会う相手には緊張する。
やがて馬車の扉が開いて、ひとりの女性が姿を現した。
年齢は母親世代のはずなのに、どこか凛としていて、弱々しさより静かな強さを感じさせる人だった。柔らかな色の髪をまとめ、目元には優しさがある。
この人が、シロト様。前公爵夫人。
私は一歩進み出て、教えられた通りに礼を取った。
「初めまして、シロト様。アルヴィ・エリアビルです」
少しだけ声が硬くなった気がしたけれど、私は教わった通りに礼を取った。
すると、目の前の女性――シロト様は、穏やかに目を細めた。
「初めまして、アルヴィさん。シロト・エリアビルです。こうして会えて嬉しいわ」
その声はやわらかく、思っていたよりずっと温かかった。
「道中お疲れでしょう。どうぞ中へ」
私がそう言うと、シロト様は小さく頷く。
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
そのまま私たちは屋敷の中へ入った。
玄関先ではまだ少し緊張していたけれど、シロト様は必要以上に距離を詰めてくることもなく、かといってよそよそしすぎることもなかった。
その絶妙な柔らかさに、私は少しだけ肩の力を抜きながら、応接室へ案内する。
部屋へ入ると、使用人がすぐに扉を開け、整えられた室内へ私たちを通した。
私はシロト様に席を勧め、自分も向かいへ座ろうとして――その時、少しだけ迷った。
紅茶はどのタイミングで出させるべきかしら。
こういう時の流れは教わったはずなのに、いざとなると余計なことまで考えてしまう。
「……アルヴィ?」
ジオルドに小さく呼ばれて、私ははっとした。
「え?」
「何をそんなに固まっている」
「固まってなんか……」
否定しかけて、でも自分でも少し動きが止まっていた自覚はあった。
そこでジオルドが、いかにもおかしそうに口元を緩める。
「母上が来ただけでその調子か」
「誰のせいだと思っているのよ」
思わず小声で返してしまう。
「朝からずっと変なことばかり言っていたでしょう」
「俺は何もしていない」
「していたわよ」
そのやり取りを聞いていたのか、シロト様がくすりと笑った。
「ふふ……仲がよさそうで安心したわ」
「お恥ずかしいところをお見せしました」
「まあ、悪くないな」
ほとんど同時に言葉が重なって、私は思わずジオルドを睨む。
けれど、そんな空気すらシロト様はどこか嬉しそうに眺めていた。
その視線に気づいて、私は慌てて姿勢を正す。
「し、失礼しました。すぐにお茶をお持ちします」
そう言って近くに控えていた使用人へ視線を向ける。
「紅茶をお願い。お菓子も少し」
「かしこまりました」
使用人が一礼して下がっていく。
ようやくひとつ整った、と思ったところで、隣からまた小さく笑う気配がした。
「そんなに気を張らなくていい」
ジオルドが、いかにも面白そうに言う。
「今さら取り繕っても遅いぞ」
「取り繕ってなんかいないわ」
「さっきまで、どのタイミングで茶を出させるか悩んでいただろう」
「……なんでわかるのよ」
「顔に出ていた」
言い切られて、私は少しだけむっとする。
「本当に嫌なところばかり目ざといわね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてないのだけど」
そう返しながらも、緊張していた胸の奥が少しだけほぐれていくのを感じた。
すると、シロト様がやわらかく口を開く。
「アルヴィさん」
「はい」
「そんなに気を遣わなくていいのよ。今日は息子の妻に会いに来ただけなのだから」
その言葉は、思っていた以上に真っ直ぐで、温かかった。
私は一瞬だけ目を瞬いてから、小さく頷く。
「……ありがとうございます」
そう答えると、シロト様は穏やかに微笑んだ。
「ええ。改めて、よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
今度はさっきより、少しだけ自然に言えた気がした。
「いい人と結婚できたのね」
その言葉に、私は少しだけ目を瞬いた。
ジオルドが先に肩をすくめる。
「まあ、退屈はしないな」
「ちょっと」
私が軽く睨むと、シロト様はますますやわらかく笑った。
「……よかったわ」
その一言は、小さかった。
でも、なぜだか胸の奥にすっと入ってきた。
その後、私たちは応接室へ移った。
運ばれてきたお茶を前に、シロト様は道中のことや領地の様子、こちらの暮らしについて穏やかに話してくれた。
私も少しずつ緊張がほぐれて、なんとか自然に受け答えができるようになる。
「屋敷にはもう慣れた?」
「ええ。皆さんによくしていただいています」
「そう。ジオルドはどう?」
不意にそう聞かれて、私は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……どう、とは」
「ちゃんと意地悪してないかしら」
「母上」
ジオルドが呆れたように口を挟む。
私は思わず少し笑ってしまった。
「意地悪は先ほど見ていただいた通り、します」
「おい」
「でも、ちゃんと教えてくれますし、助けてももらっています」
そう言うと、シロト様は満足そうに頷いた。
「それなら安心ね」
しばらくそんな穏やかな会話が続いていたけれど、不意にシロト様がジオルドの方を見た。
「ジオルド」
「何だ」
「アルヴィさんに、あのことは……」
一瞬、空気が変わった気がした。
ジオルドはほんの少しだけ間を置いてから、答える。
「話してない……まだな」
「そう……」
私はカップを持ったまま、二人を見た。
あのこと……何だろう。
気になる。でも、ここで無理に聞くような空気でもなかった。
だから私は、その場では何も言わなかった。
シロト様はそれ以上その話題を広げず、やがて日が傾く前に王都の別邸に向かった。
見送りを終えて、屋敷の中へ戻る。
廊下を歩きながら、私は隣のジオルドをちらりと見た。
「……さっきの」
「ああ」
彼は、私が何を指しているのかすぐにわかったらしい。
「気になるか」
「別に、無理に聞きたいわけじゃないの」
私は少しだけ迷いながら言葉を選ぶ。
「気になるけど、話したくないことなら話す必要はないと思うわ」
そう言うと、ジオルドは少しだけ黙った。
それから、ごく自然な声で答える。
「いや」
「え?」
「俺からしたら、もう終わった話だしな」
彼はそのまま歩きながら続ける。
「お前に話しても、言い触らすことはないだろうから」
その言い方は、妙にあっさりしていた。
でも、そのあっさりさが逆に、何か重たいものを通り過ぎてきた人のもののようにも感じる。
私は小さく息を飲んだ。
「……何の話なの?」
ジオルドは少しだけ目を細めた。
そして、低い声で言った。
「俺が父親と兄を断罪した話だ」
思わず足が止まりそうになる。
父と兄。
以前、リュクスの手紙にも書かれていた。冷血公爵。父と兄を断罪した男だと。
でも私は、その詳しい経緯までは知らない。
ただ、表向きの結果だけしか。
ジオルドはそんな私を見て、軽く顎をしゃくった。
「場所を変えるか」
そうして私たちは、彼の執務室へ向かった。
扉が閉まり、外の気配が少し遠くなる。
ジオルドは机の前まで歩いてから、すぐには座らず、窓の方へ一度視線を向けた。
そして、赤い瞳が、静かにこちらを捉える。
「……まあ、少し長い話で、つまらない話になる」
そう言って、彼はわずかに口元を緩めた。
「聞く気はあるか?」
私はまっすぐ頷いた。
「ええ」
その返事を見て、ジオルドはようやく椅子へ腰を下ろした。
「じゃあ、話すか」
低く落ちたその声と一緒に、部屋の空気が少しだけ深くなる。
私は無意識に背筋を伸ばした。
ここから先が、たぶんジオルド・エリアビルという人のいちばん深いところなのだと、そんな気がした。




