第17話 不穏な噂
ジオルドの暗殺未遂事件があってから、二週間以上が経った。
新聞もいつまでも同じ話題ばかりを追いかけるわけではなく、今はまた別の噂や政局の話へと移っている。
だから、私とジオルドも少しずつ社交活動を再開するようになった。
――とはいえ、私は本当に限られた場にしか出ていない。
「本当は、もっと出た方がいいと思うのだけれど」
ある日の朝食で、私は紅茶のカップを持ちながらそう言った。
「公爵夫人として、ちゃんと役に立ちたいし」
向かいに座るジオルドは、パンをちぎりながらこちらを見る。
「無理はしなくていい」
「でも」
「お前が出ると、面倒が増える」
あまりにもあっさり言われて、私は少しだけ眉を寄せた。
「それ、どういう意味よ」
「そのままの意味だ」
ジオルドは肩をすくめた。
「エリアビル公爵家が顔を出す社交会には、ほとんどジョルアン侯爵家も来る」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ強張った。
やっぱり、そこへ行き着くのね。
「……リュクスと話さないなら、大丈夫かもしれないわ」
そう言うと、ジオルドは小さく息を漏らした。
「無理だな」
「無理?」
「ああ」
彼は迷いなく頷く。
「ここ最近、俺が一人で出た時ですら、あいつはほとんど毎回こちらを見ている」
「……毎回?」
「毎回だ」
ジオルドの声は淡々としていた。
「お前を連れて行ったら、絶対に絡んでくる」
思わず黙る。
言われてみれば、その通りなのだろう。
あの男が、ただ遠くから見ているだけで済ませるはずがない。
「だから、無理をするな」
ジオルドはそう言って、まるで大したことでもないみたいに続けた。
「社交界に出るのは、使いどころを見てからでいい」
私は少しだけ視線を落とした。
気を遣われているのが、ちゃんとわかる。
私が怖がるだろうことも、リュクスが何をしてくるかわからないことも、全部わかった上で言ってくれているのだ。
「……ありがとう」
小さくそう言うと、ジオルドは特に気にした風でもなく答えた。
「礼を言われるほどのことじゃない」
「私にとっては大きいのよ」
「そうか」
「そうよ」
そう返すと、彼は少しだけ口元を緩めた。
ほんのそれだけのやり取りなのに、胸の奥が少し温かくなる。
だから今の私は、リュクスが絶対に来ない場だけを選んで出ていた。
たとえば――女性だけのお茶会。
今日も私は、ある伯爵家の屋敷へ招かれていた。
会場は屋敷の中庭だ。
手入れの行き届いた庭には淡い色の花が咲き、白いテーブルと椅子がいくつも置かれている。
そこに十数人ほどの女性たちが集まり、茶や菓子を楽しみながら話を交わす場だった。
男性がいない分、空気はやわらかい。
けれど、だからといって油断できるほど気楽なものでもない。
「エリアビル公爵夫人、こちらの茶葉はお好き?」
向かいに座った伯爵夫人が、にこやかに尋ねてくる。
「ええ、とても香りがいいですね」
私はカップを置いて微笑んだ。
「少しだけ花の香りがするのが好きです」
「まあ、よかったわ。うちの領地から取り寄せたものなの」
そうやって始まる会話は、一見するとただの雑談だ。
今日の天気、最近流行っている菓子、どこの店の茶葉が良いか。
でも少し経てば、そこへ自然に別の話題が混ざってくる。
「公爵夫人は最近、議会の空気もお聞きになるのでしょう?」
別の夫人が、扇を軽く動かしながら尋ねた。
「少しだけですわ」
私は穏やかに答える。
「まだ勉強中ですが」
「まあ、立派ですこと。中立派の方々は、やはり慎重でいらっしゃるのね」
「慎重でなければ務まりませんもの」
「でも時には、どちらかを選ぶ決断も必要ではなくて?」
「そういう場面もあるかもしれませんね」
私は曖昧に笑った。
「けれど、私ひとりで決められるほど簡単な話でもありませんわ」
答えになっているようで、なっていない返し。
最近はこういうやり方も、少しずつ身についてきた。
また別の若い令嬢は、もっと露骨だった。
「エリアビル公爵家ほどのお力があれば、王都の均衡もずいぶん変わるのでしょうね」
きらきらした目でそう言う。
「どうかしら。でも、そうなっては少し大変そうですわ」
「まあ。でもきっと、ジオルド様も奥様のお言葉なら……」
「うちの夫は、そんなに可愛らしい方ではありませんの」
にこやかに返すと、周囲で何人かがくすっと笑った。
相手の令嬢も、さすがにそれ以上は踏み込めなかったらしい。
ジオルドと政治の話は、これまでにもかなりしてきた。
派閥のこと、各家の力関係、どの言葉が探りで、どこからが誘導なのか。
だから今は、以前よりはだいぶ落ち着いて捌けるようになっていた。
でも、さすがに少し疲れる。
ひと通り相手をしたあと、私は休憩がてら席を外すことにした。
中庭の端、屋敷の回廊に近いあたりまで歩いて、そっと息を吐く。
「……はぁ」
笑顔を作るのも、相手の意図を読みながら言葉を返すのも、思っていたより神経を使う。
だから少しだけ、静かな場所にいたかった。
ちょうどその時だった。
回廊の先、植え込みの向こうから、女性たちの話し声が聞こえてきた。
あまり聞き耳を立てるつもりはなかった。
すぐに別の場所へ行こうと思った。
けれど――。
「エリアビル公爵夫人って、もとはリュクス様の婚約者だったんだって」
その一言に、足が止まった。
「私もそれ聞いた」
別の声が続く。
「リュクス様を裏切って、ジオルド様の方へ行ったらしいよ」
「最悪よね」
三人目の声が、くすくす笑うみたいに言った。
「何様のつもりって感じ。没落寸前の伯爵家の令嬢が」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
まさかそんなふうに言われているなんて、思ってもみなかった。
しかも、リュクスの元婚約者だなんてことは、社交界で誰にも言っていない。
ジオルドも、ハックも、そんなことを軽々しく漏らす人たちではない。
なら――考えるまでもない。
(リュクスね)
あの男が流したのだ。
私はその場からそっと離れた。
心の中だけが、ざわざわと落ち着かなかった。
リュクスは、そういうことをする男ではないと思っていた。
少なくとも、自分が振られたように見える噂をわざわざ流すような真似はしないと、どこかで思っていたのだ。
あの男はもっと、表面だけは完璧で、体裁を崩さないタイプだと。
でも、違ったらしい。
今回はなりふり構わずに、私とジオルドの評判を下げにきたのだろう。
私が裏切った、と言えば、自分は被害者のように見える。
同情も集まるだろう。
それに、没落寸前の伯爵家の娘が公爵家へ取り入った、という見え方もする。
(本当に……気持ち悪い)
どこまでも執念深い。
どこまでも、自分の都合のいい形にしたがる。
結局その後も、私は最後まで笑顔を崩さず茶会を終えた。
けれど帰りの馬車の中では、ずっとその話が頭から離れなかった。
屋敷へ戻ると、玄関で使用人が恭しく一礼した。
「奥様、お帰りなさいませ」
「ただいま。何かあった?」
「お手紙が届いております」
「手紙?」
差し出された封筒を受け取り、私はそこで差出人を見て、ぴたりと手を止めた。
――リュクス・ジョルアン。
最初の手紙から、一度も届いていなかったのに。
よりによって、今このタイミングで。
胸の奥に、ぞわりと嫌なものが走る。
私はそのまま自室へ戻り、椅子に腰を下ろしてから封を切った。
中の便箋を広げる。
「……暗号じゃない」
意外だった。
あの男のことだから、また何か隠しているのかと思ったのに。
今回は、表向きの文面そのものが、本音だった。
目で追っていくうちに、指先が冷えていくのがわかった。
『ジオルド・エリアビルは冷血公爵です』
『父と兄を断罪した男が、いつか君にも牙を向けないとどうして言える?』
『今は優しくしていても、いずれ君を殺すかもしれない』
『君は本当に、そんな男の隣にいて幸せですか?』
『君はジオルド・エリアビルの真実を知らない』
そこまで読んだところで、私は便箋を握りしめていた。
「……何よ、それ」
小さく、でもはっきり声が漏れる。
嫌な手紙だった。
脅しとも違う。忠告のふりをした、毒だ。
わざと不安を煽るように、じわじわと心の中へ入り込んでくる言葉。
でも同時に、私は少しだけ安堵もしていた。
――あいつは、そうするしかないのだ。
私を直接連れ戻せない。
だから、言葉で揺さぶろうとしている。
それにしたって、あまりにも悪趣味だった。
父と兄のことを持ち出してくるあたりが、特に。
確かにジオルドは父と兄を断罪した。
冷血公爵と呼ばれてもいる。
でも、そんなことはもう知っている。
その上で私は、ここにいる。
それをあえて蒸し返して、私に疑念を植えつけようとするなんて。
本当に、どこまでも陰湿だ。
だがリュクスはやはり、まだまったく諦めていないのだ。
それが形になって届いたことへの気味の悪さ。
――さて、どうしましょうか。
見なかったことにはできない。
他人の不安や傷を抉って、そこから入り込もうとする、あの男らしいやり方。
「……やっぱり、あいつは最悪ね」
そう呟いて、私は静かに手紙を畳んだ。




