第12話 社交会の裏側で
アルヴィを控室に残して、俺はひとり廊下を歩いていた。
少し休ませた方がいいと思ったし、ついでに何か温かい飲み物でも持って行かせようと思ったのだ。
公爵夫人としての初めての社交会で、そこへあのリュクス・ジョルアンまで現れた。
平気な顔をしていたが、アルヴィの手は震えていた。
あいつの前で無理をさせるのはよくない。
そう考えて、近くを通った給仕に声をかける。
「控室に茶と、水も用意しろ。できれば甘すぎない菓子も少し」
「かしこまりました」
給仕が一礼して去っていく。
さて戻るか、と足を向けたその時だった。
「――ジオルド様」
聞き覚えのある、やけに耳障りのいい声がした。
振り向けば、そこにリュクス・ジョルアンが立っていた。
金髪に、柔らかい笑み。社交界の女どもが好みそうな、非の打ち所のない顔立ち。
だがその目の奥にあるものは、見た目ほど整っていない。
なるほど、待ち伏せしていたらしい。
「何の用だ」
リュクスは相変わらず人当たりの良さそうな笑みを浮かべたまま、ゆっくり口を開く。
「少し、お聞きしたいことがありまして」
「手短にしろ」
「ジオルド様は、なぜあの令嬢と結婚をしたのですか?」
あの令嬢。
そういう言い方をする時点で、こいつの中ではアルヴィはまだ『誰かのもの』になるだけの存在なのだろう。
「俺の勝手だろう?」
「……そうですね」
リュクスはにこりと笑う。
「ですが、あの令嬢は私が婚約を申し込んでいたのですが」
「そうだったのか、知らなかったな」
一瞬、リュクスの目が細くなった。
公爵家当主で情報通の俺が知らないわけがない、と思ったのだろう。
その通りだ、知らなかったはずがない。
エナティ伯爵家とジョルアン侯爵家の話くらい、耳には入っていた。
だが、あえてそう言った。
するとリュクスは、笑みを崩さないままこちらを見据える。
ああ、気に食わないのだろう。
気に食わないが、怒りをそのまま見せるほど馬鹿でもない。
「ジオルド様がご存じないとは、少し意外でした」
「意外か?」
「ええ。あなたほどの方が」
「そうか」
短く返す。
こいつと長く言葉を交わしたいとは思わなかった。
だが、リュクスはまだそこを動かない。
むしろ、笑みを深めた。
「まあ」
穏やかな声だった。
「アルヴィ嬢が、私を好いていないだけだったのかもしれませんね」
自分でそれを言うのか、と素直に思った。
しかも笑顔で。気味が悪いな、こいつは。
「その可能性は高いな」
「……」
「俺との婚約書類には、すぐにサインをしたから」
ぴたり、と。
リュクスの空気が一瞬だけ変わる。
笑顔はそのままなのに、周囲の温度だけが少し下がったようだった。
なるほど、そこは効くらしい。
けれどリュクスは、やはりすぐに表情を整えた。
「そうですか」
そして、ごく軽い調子で続ける。
「ただ、彼女の家族はどう思っていますかね」
その一言で、俺は目を細めた。
「……お前、何か仕掛けたな?」
問いかけると、リュクスは笑みを崩さない。
本当に、こういう顔だけはよくできている。
「さあ、何のことでしょうか」
白々しい男だ。
だが、否定の仕方がかえって答え合わせになっていた。
アルヴィの家族を脅して動かした。おそらくそういうことだろう。
俺は鼻で笑った。
「まあいい」
「いいのですか?」
「ああ」
俺はリュクスを見た。
「お前が何か仕掛けたとしても、あれはそう簡単に崩されるような女じゃない」
俺がそう言うと、リュクスの目がわずかに揺れた。
意外そうでもあり、気に食わなさそうでもある。
たぶん、こいつの中でのアルヴィは、「追い詰めれば折れる女」なのだろう。
だが実際は違う、あいつは折れない。
少なくとも、ただ怯えて泣き崩れるような女じゃない。
そう言い切れる程度には、この一カ月半でよくわかった。
俺はそのまま横を通り過ぎようとした。
だが、背後からまた声が飛んでくる。
「彼女がいらないと思ったら、いつでも離婚してください。僕が高く買い取りますよ」
その言い方に、腹の底が冷えた。
買い取る。まるで、人ではなく品物だ。
いや、こいつの中では本当にそうなのかもしれない。
珍しい宝石だか、気に入った装飾品だか、その程度の感覚でアルヴィを見ている。
胸の内で、ひどく不快なものがざらりと広がる。
苛立ちだ。思った以上に、はっきりとした。
俺は振り返った。
リュクスは相変わらず微笑んでいる。
その笑顔を見た瞬間、言葉が勝手に口から出た。
「――もう、アルヴィは俺の妻だ」
廊下の空気が、一気に張り詰める。
俺はリュクスをまっすぐ見据えた。
「手を出すなら、覚悟しておけ」
威圧するつもりはあった。
だが、自分でも思っていた以上に声音が冷たくなっていたらしい。
リュクスの笑みが、今度こそわずかに固まる。
それを確認すると、俺はそれ以上何も言わず、その場を離れた。
歩きながら、自分で少し可笑しくなる。
「……絆されすぎだろうが」
ただの契約結婚、最初はそのはずだった。
死を回避するために、互いに利用し合う関係。
そこに情など挟むつもりはなかった。
だが、どうにも今の言葉は、そういう割り切ったものではなかった気がする。
嘘をつかず、妙なところで肝が据わっていて、しかも予想外のことばかりする。
あんな女を、そう簡単に見捨てられるはずもない。
そうして控室の前まで戻ってきて、俺はすぐに扉を開けた。
「……何事だ」
中に入った瞬間、状況はだいたい理解できた。
床に倒れている男が二人。
顔面蒼白のエナティ伯爵夫妻とベッラ。
そして、その前に立つアルヴィ。
手には、俺が渡した扇子型の魔道具。
一瞬だけ、笑いそうになった。
さすがだな、と。
俺がいない間に、すでに返り討ちにしていたらしい。
だが、そんな感心を表に出すわけにもいかない。
俺はそのまま冷え切った声で伯爵を見た。
「俺の妻、公爵夫人に手を出したようだな」
伯爵の顔が引きつる。
「どうやらエナティ伯爵家は、よほど潰れたいようだ」
そう言ったあとは、アルヴィを連れてその場を離れた。
あの一家には、あれ以上言葉をかける価値もない。
別の控室に移ってから、ようやく少し落ち着いてアルヴィを見る。
そこで初めて気づいた。
足を少し引きずっている。
彼女に言うと、気づいていなかったらしい。
包帯を巻きながら、さっきの控室での様子を思い返す。
今回の社交会で、はっきりわかった。
リュクスがなぜアルヴィに執着しているのか、その理由までは知らない。
だが、あれは危険だ。
笑顔の下にあるものが、まともではない。
あいつはアルヴィを欲しがっているが、それは愛情の形をしていない。
所有欲と執着だ。諦める気はないのだろう。
そして同時に、俺の中でも答えはもう出ていた。
アルヴィは守る。
それは契約だからではない。
もう、身内みたいなものだからだ。
つまり――リュクス・ジョルアンは、俺にとっても敵になった。
包帯を結び終えて、俺は顔を上げた。
アルヴィは視線を逸らしている。
顔がわずかに赤い。
「……ありがとうございます」
小さく言われて、俺は短く息を吐いた。
「礼を言うのはこっちだ」
「え?」
「よく無事でいたな、さすがだ」
そう言うと、アルヴィの目が少しだけ揺れた。
やはり、この女は面白い。
強いくせに、こういうところでは妙に初心な顔をする。
俺は立ち上がりながら、心の中で静かに思う。
リュクスが何を仕掛けてこようと、もう遅い。
アルヴィは渡さない。
この先はたぶん、面倒になる。
だがその面倒すら悪くないと思えてしまうあたり、俺ももうだいぶ手遅れなのかもしれなかった。




