―星と雲
ふと違和感を感じたのは、冬の寒さが緩む頃の事だった。
眠りの底から這いあがるようにして目を開けた。辺りは仄暗く、床に置かれた火鉢で火が焚かれていて、部屋の空気を暖めている。もうずいぶん前からそこにあったのだろうが、思い出せなかった。冬の訪れすら思い出せない。そんなことを意識した途端、忙しさで麻痺していた本来は繊細なはずの何かが声を上げたのだった。
季節を意識する事もなく、わき目も振らず時間を潰してきたのは、変化のせいであるのか。
春の町に移り住んだこと、医者を本格的にはじめたこと、薬の研究に没頭したこと、ソラネが家に加わったこと、その合間にも趣味や交流を増やしたこと……。挙げればどれもつまらないことではない。
白いベッドに横たわって、メル・カロンは考えるともなく考えていた。ここがトウフウの診療所であることにも、ようやく気付く。なぜここで眠っていたのかはまだ思い出せていない。
患者用のベッドは壁とカーテンで四方を覆われていて、以前ここには誰か他の人間が寝ていたような気がした。
誰だろう。
散漫に考え続けると、小さな子どものイメージが浮かんだ。
そう、あの子だ。内臓の異常で先日死んでしまった、女の子……
「カロン?」
思い出すと同時に、目の前の幕に影が揺れる。
呼び声ははっきりと聞こえたが、なぜか返事は出来なかった。
「カロン。起きろ、そろそろ帰ったほうが……ぁ」
カーテンをそっと開けたトウフウと、ぼんやり目が合った。起きているとは思わなかったらしい青年は、気まずそうに目を逸らして、口ごもった。
「悪い。えっと、もう今日は診察時間終わったからな……起きたんなら、早いとこ帰れ。シリウスとソラネが心配するぞ」
「ああ……そうだね」
返事をしても起き上がる気にはなれなかった。もう外は暗くなっているようで、火の淡い明るさが部屋を照らし出しているだけだ。
光の揺れる天井を見続けていると、トウフウが背を向けて、ベッドに寄りかかるように床に座る気配がした。問いかけは短かった。
「どうか、したか?」
「ううん。なんだろう。しばらく、忙しかったから、色々、考えることもなかったなと思って……」
何か感じたのだろう、人の心に敏感な彼に答えてみせる。その後で、正確にはそうではないと思った。
言葉も思考も足りなさすぎる。
「考えたいわけじゃないけどさ。考えることがないように、なにかしていた面もあるから。ただ……季節が、一つもう終わるんだって、全然気付かなくて。そう思ったら、なんかね……別にいいんだけど、ちょっと驚いた。結局何しても完璧ではないとは分かってるけど……他人事みたいなんだ。早く、あの子のお墓参りにもいかないといけないのに……」
脈絡も意味もない呟きを、トウフウの後ろ姿は黙って聞いていた。答えようもないのだろう。
ここのところ春の町では感染症が流行っていた。事故も重なり、泊り込みで働き続けた。それで仮眠を取っていたのだと、今更思い出した。今日はもう患者も落ち着いたはずだ。現実の出来事が曖昧で、どうでもいいと感じる。疲れたのだろうか。
何に?
「ああ、なんだろ……わからない。いっそ、どこかへ行ってしまいたい……」
遠くへ。
「行くな」
込み上げてきた空しさを言葉にすれば、彼はすぐに硬い声を出した。
感情を堪えるように、静かに。
「どこにも、行くな」
「……」
「お前は……ちゃんと、ここにいろ」
自覚なしの無責任さに怒ったのかもしれない。あまりにまっすぐで、受け止めきれない声音だった。
引き留めてくれているはずなのに重く圧し掛かってくる。嬉しいのに辛い。少なくとも、一緒に来てなんて、絶対に言えない。トウフウじゃなくてもそんなこと、誰にも言えない。当たり前じゃないか……
「わかってるよ。そんなこと」
反射のように微笑んでみせる。
それが嘘なのか本当なのかもわからず、どうでもいいと思ってしまうことに、僅かに軋みを覚えた。
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それからまっすぐ家に帰るつもりが、気が付けば港まで歩いてきていた。
広い港には夜でも人がいて、漁船、交易船はもちろん、珍しく客船も停泊している。敷地の南側で屋台が食べ物の匂いを発していて、歩いていると人足とまばらに行き会った。
岸壁に辿り着くと、目の前に中型船が聳える。デッキで裕福そうな男女が談笑していた。彼らからしばらく目が離せなかった。
どこから来たのだろうと、思う。どこへ行くのだろう。北の大陸だろうか。それとも南の暖かい土地なのだろうか。そこはどんな場所なんだろう。そこには、どんなしがらみもないのだろうか。
「ねえ」
渡しの傍に立っていた赤帽子の荷物持ちに声をかければ、「はい?」と振り向いた若い顔が、ぽかんとこちらを見た。
「これって、いくら払ったら乗せてくれるの」
「いくら……? 乗りたいんですか?」
「どうかな。そうだって言ったら、乗せてくれる?」
曖昧に言葉を濁しながら微笑めば、若者は顔を赤くして口ごもった。困らせてから馬鹿馬鹿しくなり、その場から離れる。波止場を歩き続けるとやがて船が途切れ、暗い海が見えた。
遠くに白い月が出ていた。星が見えない。潮騒が凍れる風を彼方へ連れて行く。海や島や大陸を越えていくのか。それとも……
想像するうちに、心のどこかが不意に崩れた。
まるで小さな石が外れるように。
信じられなかった。それが積み上げられた残骸を滅茶苦茶にした。押し込めていた汚濁を大量に垂れ流し、眩暈と動悸でその場に立っていられなくした。
「っ……」
うめき声が漏れた。心臓を掴むようにして胸を押さえた。
身を引き裂いたのは、圧倒的な憧憬と、残酷な事実。
どこかへ行きたい。遠くへ。
ちがう。どこにもいられない。
どこにもいたくない。
生きている限り、二度と叶わない――
波の音が穏やかに響き続け、膝に顔をつけるとそれは森の中のざわめきへと変わってゆく。星の森のざわめきだった。
だけど、そこへ帰っても君はいないだろう。どこにもいないのだろう。
「だいじょうぶ、な、わけ、ない……」
死にたかった。あの日君が最後に何を思ったか、わかっても、何を思って闘ったのか知っていても、どんなに自分を騙しても偽っても思考を閉ざしても。変えられない。全てが夢だと思いたかった。
あの日の朝に戻りたいなんて贅沢は言わない。君に会えるのなら、もう一度攫われた日から始めたって構わない。そうしたらきっと誰よりも、何よりも大事にする。二度と離れたりはしない。だから。
震える声を無理やり優しくして、呼んだ。笑顔と明るい声だけが残っていた。
「ハレー」
会いたい。会いたい。探しに行きたかった。会いたかった。遠くへ行けば、どこかで会える気がした。
なんて、馬鹿じゃないのか。
「メル!」
羽音がして、慣れた感触が腕に触れた。小型の悪魔人形と共にシリウスの声がした。
「こんなところで何を」
過去の自分をなぞることにだって気力がいる。君が死んでから「自分」を演じ続けて、いっそそれが当たり前になればいいと思った。抜け殻のようなものでも大事にされ、必要とされ、居場所が与えられた。演じ続けなければならなかった。
だけどそれを続けたらいつか偽りが真実になると、絶対に言えるのだろうか。こんなにも必死に時間を埋めても零れてしまうのに、完璧な仮面を身につけることなどできるのだろうか。保証でも証拠でも何でもいいのに、そんなものがどこにあるというのか。
疑問は違和感となって心を挫いた。
シリウスの手が有無を言わさず視界を戻す。驚いた表情から目を逸らして、海を見た。
「泣い、て……どうしたんですか……? 何か、誰かに――」
錨を上げ、船が静かに出ていく。月に導かれるように遠ざかっていく。その光景をずっと見ていた。
「メル」
心が死者の思い出だけを辿る。
何を言っても答えが得られない事にため息を堪えるようにして、優しい声が言う。
「メル……帰ろう」
どこに? と呟いていた。
今、こうして生きているのに、そう答えてしまった。
なぜなら一緒に死ぬことを疑ってすらいなかった。
あまりに長い間、自分の居場所は、あの小さな悪魔人形の元だったのだから。
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次に目を覚ましたのは、自宅の寝台の上だった。
重い眠気が抜けず、額に手を乗せると、建物を打つ雨の音がした。
「大丈夫ですか……?」
やがてこちらに気づき、声をかけてきたのは同居人のソラネである。心配そうな双眸を無視して窓の外を見ると、午前は過ぎているような活気だった。
昨夜港から帰った記憶はない。自分では一歩も動かなかったと思う。夜明けをみてもいないが、確かに一晩中海を見ていて、疲労で眠ってしまったのをシリウスが連れ帰ったのか。探しに来た挙句わざわざ徹夜で付き合うなど、人がいいにもほどがある。
「……。シリウスは」
「シリウスさんは、今朝出掛けられました」
「そう」
「冬の街と、他にも行くところがあると……」
「今何時?」
「え、と、正午を二刻ほど過ぎたところです」
「トウフウのところ、何も言ってきてないの」
「コノミさんが一度見えられました……少し、体調が優れないようだと伝えましたけど……」
「ああ、いいよ。ソラネ、先に診療所手伝いに行っててくれる? 準備できたらすぐ行くから」
体調も良くなり出会った時とは比べ物にならないほど綺麗になった少女は、困った顔をした。
ソラネは大人しそうに見えて強い。奴隷にされても生き延びるほど柔軟で忍耐力があり、適度に鈍く何物にも潰されてしまわない意志がある。責任感が強く、言われたことは丁寧にこなすし、頭もよかった。それに助手として使い始めてわかったが、どんな症状の患者に触れるのも嫌がらない。接客はもちろん自分より数段優れていて、まともな境遇だった頃は幼い兄弟達の世話でもしていたのかもしれない。
それがなぜ傍にいたいなどと言ったのだろう。
「大丈夫、ですか」
ソラネがもう一度尋ねてくる。メル・カロンは無視して着替えを始めた。心の壊れた部分が質問自体を拒絶していた。
それでも喋れているということはもう取り繕えるはずだ。今日中には戻せるだろう。また何も考えなければいい。
ソラネが頭を下げて、走るように家を出ていく。
冷たい雨が世界をぼやかすように、降りしきっている。
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診療所に顔を出し、心配するトウフウを言いくるめて診察をこなすうちに、案の定問題なくふるまえるようになった。途中休憩時間に隠れて一度吐いたが、それだけで気分は安定した。ひたすら患者の相手をし、薬を調合し、記録をつけることで時間を埋めた。
「イヅキ、カロンさん、お疲れ様。今表閉めたから」
「うえ~……疲れた疲れた……」
診察時間を一時間ほど過ぎたところで最後の患者が帰り、ハヤテが閉所を告げる。
トウフウがぐったりと机に突っ伏し、何の足しにもならない声を出した。まだ各種の帳簿や未記入の診察記録が机に積まれているが、取り掛かる様子はない。メルは自分の分を無心で済ませると、薬棚の在庫確認を始めた。
「あの、わたしがしましょうか……?」
白湯を運んできたソラネがおずおずと申し出たが、笑顔で断った。所在無く俯いた彼女に気づき、ハヤテが仏頂面で掃除を手伝ってほしいと頼んでいる。フォローがうまい人間は苦労する。だからハヤテは冷たい私が嫌いなのだろう。
しばらくしてトウフウの妻であるニシウミコノミが奥から顔を出した。
「先生、今からご飯暖めますから」
「うん、いつもありがとう……カロンとソラネちゃん、食ってく?」
「私は遠慮しとく。ソラネは食べて帰ったら?」
「え……」
「別に遠慮しなくていいと思うよ」
こちらを見て困った顔をしたソラネに、ハヤテはあからさまなため息を吐いた。大人げないと視線で非難しているのはわかっていたが、手を動かしながら気付かないふりをする。
「そういえば今月は降誕祭だな~」
「降誕祭?」「ああ、そういえば……」
「ソラネちゃんは初めて?」
トウフウが全く何も気づかない様子でぼやき、それを契機に三人は雑談を始めた。暖かくなる頃、この町でも一応降誕祭は行われる。仮装をして踊ったり、聖教本式のものとはだいぶかけ離れた賑やかな催しであったが、春の町にはふさわしい雰囲気だと過去に思った記憶がある。
一人整理を終えて帰りの準備をしていると、ソラネが思い切ったように声をかけてきた。
「あの……メルさん。降誕祭、で」
一々許可など求めなくてもいいのにと思う。
「ん? もちろんいいに決まってるじゃない。トウフウ達と行っておいでー」
「あ、ありがとうございます……それで、そのとき――」
「ああ、おこづかいならいっぱいあげるから心配しないで。ちょっとしたものならトウフウにたかったらいいから」
「メルさんは……」
「おい、何か聞き捨てならないこと言ってねえ?」
「言ってないよ?」
「言っただろ!」
「あー、ソラネに奢ってあげるくらいできないとか、こんなに真面目でいい子だっていうのに、この世で最も心が狭いとしか……」
「うっ、そ、そうなるのか……って、ちがうだろ! たかるって言うな!」
「些細なことにこだわりすぎだよ」
トウフウが絡んできて、メルは極上の笑顔をつくってみせる。この同僚は子ども以上に邪気無く喋るから、淀んでいるものが楽になる。
ソラネは何か言いかけた気がするが、少し微笑んで、側に来た。
「やっぱりわたしも一緒に帰ります」
「ああそう? 物好きだねぇ……」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
近い家に二人で歩いて戻り、手抜きの食事を作って食べる。
いつのまにか雨は止んでいる。
大したメニューも会話も無いのに、正面に座るソラネはどこか嬉しそうだった。
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それから二十日余り、メルの記憶に残るようなことは何もなく、シリウスが町に帰ってくることもなく。やるべきことを淡々とこなす日々が続いた。
笑顔で町人に応対し、トウフウをからかい、ソラネに薬学を教え、夜一人で酒を飲んでは吐いた。深い喪失はいたるところから空しさを引き寄せ、それを抑えるために、気づけばまた少しずつ薬に手を出していた。
「カロン、お前最近痩せてないか?」
「顔色が、あまり……」
トウフウやソラネが心配すると自覚する。やめようと我慢していると馬鹿馬鹿しくなる。そんな己を嫌悪して疲労する。もがくほど深みにはまり、なんだか、どうすればいいのかわからず、涙が出る気配もなく、深夜台所の隅に蹲っていた。
そしてある朝いつも通り診療所に顔を出したメルは、トウフウ達がやけにばたばたしているのに気付いた。床に落ちていた花の髪飾りをつまんで、声をかけた。
「おはよう。どうしたの? 大事故? 疫病?」
「ばっ……、朝から大したあいさつだな……縁起でもない事ゆーな」
「やだなぁ。可能性を挙げただけじゃん」
「は? もしかして、今日の事忘れてんのか?」
「あれ、なんか会議でもあったっけ?」
「おいおい……」
棚を引っ掻き回していたトウフウは今年一番げんなりした顔をして、腰に手を当てる。
「お前の目は節穴か! 今日は降誕祭だろ!? 近距離とはいえ町を歩いてこなかったのか!」
こうたんさい?
メルは言われて思い返してみて、力の抜けた声を出した。
「あーね。なるほど。言われてみればそんな風な」
「なんかっ……全然関心なさそうなその態度が逆にすごいんですけど……。そういえば、お前過去の二年間も参加しなかったよな……」
「だって聖教信者じゃないし」
「そういうことじゃないし! 俺も違うし!」
「じゃあなに」
「聞くな!」
メル・カロンは肩をすくめてため息を吐いた。正論を一蹴するとは、全くわがままな野郎だ。付き合っていられない。
診療所が休みなのかと聞くと、昼までは開けておくというので、準備をした。祭りだから患者が発生しないわけもないし、昼からは留守番がてら薬の研究をして費やすつもりだった。一応トウフウ達に「参加しないか?」と誘われたが笑顔で断り、診療所の二階にこもった。
実際に過ごしていると想定したような事故や急病人が運ばれてくることもなく、診療所はいつもよりずっと静かだった。窓の外では美しいドレスの娘達が行き交い、露店がずらりと通りを埋め尽くす。そんな華やかさを意識することもなく、完成間近の新薬の調整作業に没頭し、時間を忘れた。
控えめにドアがノックされたのは、夕暮れが雲を赤く染める頃のことだった。
「はいはい、どうぞ」
集中力だけはまだ捨てたものではない。もうこんな時刻かと、一息ついて肩をもむ。
誰かが気を利かせて差し入れでも持ってきたのだろうか。返事をしながら考えていると、「失礼します」と入ってきたのはソラネだった。
「あれ、ソラネ……」
「メルさんっ……あの、遅くなったんですけど……」
その様子に違和感を感じた。
走ってきたのか肩で大きく息をしている。それはありえなくはないとしても、黒髪を乱して、衣装は質素な仕事着のままというのは……あきらかにおかしかった。余所行きの服も与えていたのに、祭りに参加していたのではないのか。トウフウやハヤテが誘わなかったわけがない。まずそのことに驚いて、次に彼女が腕に抱えているものに目が吸い寄せられた。ソラネはタイミングよく、手を差し出した。
「これ、あのっ……わたしが縫ったので、あんまり綺麗にはできなかったんですけど、」
「え。えっと、これは?」
差し出されたものを戸惑い気味に受け取って、とりあえず広げると――形を見せたのは、白いドレス、だった。
事態が呑み込めないながら、判断だけはできた。
すべらかでさわり心地のいい布地。細身のシンプルな型ではあるが、緻密な刺繍が裾や胸元を細かく彩っている。花を幾重にも重ねたデザインで、一針一針、かなりの時間をかけて縫われたことは間違いなく、一瞥しただけで感嘆に値した。
ソラネが縫ったという。
「これを、本当に?」
メルはにわかに信じられなかった。手先の器用さの問題ではない。だって全然気づかなかったのだ。毎日仕事を真面目にこなしていた彼女が、いつこんなことをしていたのか。
ソラネが緊張した顔で、それでも安堵を滲ませた声で、言った。
「メルさんに、渡したくて……今日、降誕祭で、みんな着飾るんだって聞いて。大事な人に衣装をつくってあげることもあるって、聞いて」
「……自分で、買ったの、布も」
渡していた給料だってたいした額ではなかった。これまでの分全部を貯めていても、こんな高級な布地や糸を買って余ることはない。
それに、
「昼からも作ってた……? 祭りにも行かないで……」
そうだ。一年で一度の盛大な祭を、ようやく得た自由の中で楽しみにしていただろうに、よりにもよって、
「仕上げに手間取ってしまったんですけど、今日、どうしても渡したかったので」
予想通りの答えに、思わず胸を押さえた。視界が歪み、込み上げてきた怒りが顔を熱くした。
「なんで……?」
ソラネは意味を勘違いした。一歩下がり、眉尻を下げて笑った。
「ごめんなさい。わたし、どうしたらいいかわからなかったんです。でも、何かしたかったんです。わたしにできることなんて無いって、わかってても、降誕祭の話を聞いたとき、プレゼントしたいって思って……わたしのわがままなんです。だから、着てくれなくてもいいんです……」
ちがう。責めているんじゃない。
彼女の頬を伝った涙を見て、思わず俯いた。窓からの斜光が、白を切ないような夕色に染め上げていた。言葉を探して、探しきれなくて、思ったことをただ口に出した。
「……綺麗だね」
もどかしかった。人として生きてこなかったからだと思った。
ずっと魔女として存在してきて……忌み嫌われることが当然だった。この町で、人として生きていくことを決めたのに、愛されることが、信頼を寄せられることが恐かった。
与えるだけならいい。愛するだけならいい。感謝されるたびに、頼りにされるたびに心の底で裏切りと憎しみに怯えた。ハレーのことが頭から離れなくなった。相棒との思い出に縋って、信じようとした。思い出せば思い出すほど、ハレーが居ない事自体に心が耐えられなくなった。
側にいるのに周りの人間を拒絶したのだ。残酷な優しさだけを見せて、不安にさせて、拒絶された人々はどんな思いをしただろう。人として生きて、きっと信じてみせると誓ったのに、なぜこんなにも自分を守ってしまうのだろう。なぜ裏切られることをまだ恐れるのだろう。
「ありがとう」
呟き、ドレスを持ち上げ、そっと口づけた。笑え、と自分に強く命じた。誤魔化すためじゃなく、騙すためでもなく、喜びを伝えるために。できただろうか。できなかったような気がする。
ソラネが恥じるように涙を拭き、唇を噛んだ。メルは立ち上がって足早に歩き、彼女の手を取った。
「さあ! 早く準備をしないと。ハヤテ君とか待ってるよ。今から急げばダンスには間に合うんでしょ? 髪と化粧してあげるから!」
「わたしは、そんな……」
「君が行かないと、私が恨まれるだろ、もう」
喋っている間も惜しかった。ここで間に合わなかったら自分が許せない。
戸惑うソラネを引きずって家まで帰り、着替えさせ髪を結いあげ紅をさして飾りを付けて、半刻もかけず家から追い出した。深い藍色に金の刺繍を施したドレスは、メルが一目ぼれして買ってやったものだったが、とてもよく似合っていた。上品な髪飾りも装飾品も我ながら全て完璧だった。もう絶対に今夜この町でソラネ以上にかわいい子は存在しないと言い切れる。攫われたらどうしてくれる。
「はぁ……」
しかし、高揚は一瞬のことだった。嵐のように彼女を送り出すと眩暈がして、束の間目を閉じた。祭りの喧騒が遠くに聞こえた。その分家の中はいつもより静かで、透明だった。
色々なことがありすぎて何も考えられない。鈍く頭痛がしたが気分は悪くなかった。ため息交じりに立ち上がって前を見る。白いドレスが闇の中で存在を主張している。
祈るような気持ちで、生地に腕を通した。鏡台で薄く化粧をし、伸びた白髪を左サイドでまとめる。結び目に羽根とガラス玉を連ねた飾りを垂らし、同じ玉のネックレスを身に着ける。大判のストールを肩にかけ、柔らかい革の靴に足を入れた。鏡を確認して、苦笑した。
「もったいない……」
とても素人とは思えない仕上がりは、ソラネがどれだけ労力をかけたのか、改めて知らしめた。同色の刺繍は目立たない分上品で、いつまでも見ていたくなる。
墓参りに行こうと思った。
今更祭りに参加しようという気持ちはないから、せめて死者に挨拶をしておこう。それから、帰ってきたソラネにもう一度礼を言えばいい。
家を出て数歩歩いたところで、人影が歩いてくるのに気付いた。意外に思ったが特別関心もなく、そのまま歩いて行こうとしていたのに。ふと止まった足音に振り返る。家の前。だから、それは……
「あ」
ちょうど、相手もなにげなく振り返るところだった。声が漏れそうになって、慌てて口を閉じて、顔をそむけた。
「……メル?」
心臓が不規則に波打った。
シリウス。今、帰ってきた?
足が動いて、反射的に逃げ出していた。とにかく、走った。
「え、ちょっと! 待って……!」
メルは体力と魔力と気力ととにかく全部総動員して全力疾走した。なのに、振り切れなかった。大体このドレスで走れというのが無茶な話ではあるのだが。
「メルでしょう!? どうして逃げるの!」
シリウスは天性の無駄な運動神経を発揮して、こちらの手をつかんでいた。引っ張られて平衡感覚を失っている内に、ひょいと抱きすくめるように背中を支えられた。思わず縋るような体勢になり、何の覚悟もしない内に、誰もいない往来の真ん中で、青の瞳と間近で目が合っていた。
遠くで明りが揺れて、互いに言葉を失っていた。
先に自我を取り戻したのは、シリウスの方だった。
「ああ、綺麗、だなぁ……」
「え……え? なに、が?」
「え、なにって……、その、メルのそういうドレス姿を見たの初めてで……すごく、綺麗だったから……」
「ばっ!? あのね……! 色々あって、久々に会って、しかもこんなことになってるのにそんなどうでもいいこと開口一番に言うな!」
思わず顔に血が上って、突き飛ばすようにして彼の手から逃れた。それでも怒りが収まらず、もったいないとばかりに背を向ける。ドレスなんて人目を誑かすために若い頃散々着た。珍しいもなにもない、外見など所詮目くらましではないか。今日はソラネのために仕方なく着たのだ。
「ごめん。でも、本当ですし……」
シリウスが遠慮がちな声で言う。その間延びした様子に、余計イライラした。
「ソラネが縫ってくれたからだろうね」
「そうなんですか? すごいじゃないですか!」
「ソラネがね」
「とても上品で」
「ドレスがね」
「はぁ……」
「なに」
「頑固」
「…………」
ぷちっときて思わず振り向いてしまった。思い切り罵るつもりだった。でも、言葉は消えてしまった。
祭りの仄かな明るさの中、以前見た時と変わらない姿が佇んでいる。今、彼は目の前にいる。間違いなくそこにいる。
どうしてだろう。
そのことが、信じられなかった。
あの時港で後悔と意地だけをぶつけて、もう帰ってこないかもしれないと、どこかで諦めていた。
優しい目。暖かい身体。
君が好きだから生きている。
それでも信じてはいなかった。いっそ嫌われたかった。
解放してやりたいのに、泣きたくなった。
ただ、君のことが好きだった。
「ごめん、嘘。メル、ただいま。長い間留守にしてすみませんでした。でも、今日帰ってこれてよかった……渡したいものがあるんです」
何もいらない。もう少し焼き付けていられればいい。
そんな思いをよそに、シリウスは荷物から小さな箱を取り出すと、メルの手を取った。
置かれたものは指輪だ。これは――
「え? この石、どこで……」
反射で感じ取った気配に眉を顰めた後、口を噤む。
ああ、それだけではない。複数の素材が混ざった石だ。
明りに指輪をかざすと光に触れて、細かく彫られたデザインが明らかになる。
「わかりますか? 塵の杖の破片……あの時、アンクが保存していたんですよ。その中から加工できるものを選んで、それから星の森に行きました。大部屋に置いてあるあの石のテーブルから、少しだけ破片をもらってきて」
それは魔女としての誇りと、偽りでもささやかにあった平穏の象徴。
「彫ってもらったのは、わかりにくいかもしれませんが――」
「わかるよ」
空を背景に、照らし出されたモチーフを見つめて、思わず目を閉じた。残像が脳裏をよぎった。わからないはずがない。
星の形をした植物の葉と、コウモリの羽とは――
シリウスが名を呼んだ。包み込むように。
「メル。俺と結婚してください」
「げほっ!」
しかし、そうくるとは思わなかった。
思い切りむせた。
背をさすられるが、無理だった。とっくに限界だった。
「あーもー、ああもうっ、あーもうっ……!」
メルは夜の往来の真ん中で、喚いた。
「なんでいつもそんなタイミングなんだよ! わけがわからん!」
シリウスが立ち尽くして頬を掻く。
「タイミングっていうか……ただ、必死なだけ、だと思う……」
「必死なだけ!? なんだよそれ! そんなんで、私は、わたしは、いっつも君に全部もっていかれて、もうなんかぐちゃぐちゃになってっ――」
「置いていかれたくなかった。さよならって、言いたくなかった。気付いたら傍にいられる方法を考えてた。会いたかった。近くに居たら幸せで……だから、必死だった。怒らないで下さい」
「怒ってない!」
「じゃあ、迷惑、だった……?」
「そうじゃない!」
「じゃあ」
「そんなんじゃないのっ! なんで、何で私だったの! よりによって? 同情だろう? わからないよ。き、君だったら、いくらでも、いい人……」
言い募ると、シリウスは眉尻を下げて笑みを零した。
「メルだから」
「…………」
「俺を助けたのも、笑わせたのも、泣かせたのも、動かしたのも、全部メルだから。一番印象的で、忘れようとも思わないほど心を奪われた人だから。知ってる、よね」
それは。ああ……
「……知ってるよ……。好きだって言うんだろう……? わたしが……」
シリウスが頷いた。
「あなたが俺を試す以上に」
好きです、と伝えた声が、表情が、真摯で柔らかくて秘密めいて、何にも代えられない美しさを帯びて心を溶かした。
前にも。ずっと前にも。私が信じられなくなるたびに、何度でも言う。何度でも抱きしめた。信じられるまで証明した。
視界が滲んだ。
「だって、大好きだったんだ」
シリウスが頷く。わかっていると。
「ハレーだけが、傍にいてくれたんだ」
指輪を胸元に包み込んだ。絶対に忘れられない。一生忘れない。シリウスが好きなこととは別の場所に、深い悲しみがある。それが完全に癒えることはない。おそらくそのことで、これからも誰かを傷つけるだろう。
「忘れなくても、いいというの……?」
祈るような声が、答えた。
゜・*.:。+゜.。o.:。+゜.。o゜.:。+゜ .。.:*・゜
星を探していた。
深い森の中でずっと。
できるのならば、あの人が望んだものを、見せてやりたかった。
『俺、古登の村のシリウスって言います。名前聞いてもいいですか?』
長い闇の中で君を見つけた。その小さな光にすら気づかずに。
『あぁ、魔女って名前ないんだよ。知らなかった?』
もうあの人はいなかった。出会いの意味は失われていたはずだった。
だが、もし、と思う。
もし、意味が残っていたのだとしたら。
それが偶然ではなかったのだとしたら。未来が見えた唯一の魔女が、この場面を知っていたとしたら――
愛することを知らなかったあの人を、もう憎むことはないだろう。
「忘れないで。覚えていて……」
シリウスが、確かな声で答える。その表情が、視線が、嘘を全部すり抜けてゆく。
君の傍にいたい。
あの日が遠ざかることを恐れながら、痛みを抱きながら、手を伸ばした。
驚いたようにシリウスは顔を上げた。
やがてその頬を滴が伝う。
「傍にいるよ」
思いを込め、繋いだ手の上に光の粒が落ちた。
それはまるで永遠のような、綺麗な光だった。
fin.