第4話 初めての異獣戦
少し歩き出したところで、風の匂いが一変した。
舗装された石畳は途切れ、湿った土と鬱蒼とした原生林がどこまでも広がっている。
大気中に漂う魔力の濃度も街の中とは段違いだ。皮膚にまとわりつくような重みが、ほんのりと肌を刺激してくる。
街の外——そこは、魔人族の支配が及ばない『異獣』たちの領域だ。
「……さて」
俺は腰の錆びた短剣の感触を確かめながら、森の入口で立ち止まった。
今日の目的は二つ。
一つは、異獣を狩ってその素材や魔石を持ち帰り、食費と当面の滞在費に変えること。
もう一つは、俺が脳内で組み上げた「無駄を極限まで削ぎ落とした魔術理論」と「10秒間の時間停止スキル」の実戦データ収集だ。
このガリガリの14歳の肉体では、正面からの力勝負など到底不可能。
だからこそ、自分の持っているカードをどこまで正確に切れるかが勝負になる。
俺はゆっくりと息を整え、体内の微小な魔力を練り始めた。
身体に巡る魔力を極限まで圧縮。大気中への散逸率をゼロに近づける。
前世の物理法則のイメージを重ね合わせ、体内のエネルギーを無駄なく指先と感覚器へ集めていく。
余計な熱も、無駄な光も出さない。ただ純粋に、体内の回路を効率化させる作業。
俺自身としては、少し魔力の扱いが器用な程度の意識だった。
何しろ量自体は貧弱そのものだ。大袈裟な大魔術を撃てるわけでもない。ただ単に、プログラミングのコードを綺麗に整理整頓して動かしているだけの感覚に過ぎない。
だが——俺はまだ知らなかった。
現代の魔人族が使う魔術というのは、膨大な魔力をダダ漏れさせながら使う「雑で濁ったエネルギー」だということ。
そして、俺が一切の雑味を排して錬成したその微小な魔術回路が異獣たちにとっては『遠くからでも一瞬で認知できる、恐ろしく高純度で美味そうな極上の気配』として暗闇の中に明々と灯ってしまっているということを。
「……ん?」
森へ足を踏み入れて、わずか数分。
不自然なほどの静寂が、周囲の木々を支配した。
風の音が止み、虫の羽音が途絶える。
……早い。もう来たのだろうか。
俺は背中の大木の幹に身体を預け、周囲の死角をなくしながら短剣を静かに抜いた。
ガサリ、と前方の茂みが大きく揺れた。
現れたのは、巨大な猪の姿をした異獣——『剛毛豚』だ。
前世の野生の猪とは訳が違う。体長は二メートルを超え、全身を鉱石のように硬質化した黒い毛並みが覆っている。口元からは鋭い牙が二本、凶器のように突き出していた。
本で読んだな。危険度ランクで言えば、初級冒険者がパーティで挑むレベルの異獣だ。
剛毛豚の赤く血走った目が、一直線に俺を捉えた。
凶暴な狂気というよりは、何か餓えたものが欲望のままに獲物を見つめるような、執着に満ちた視線。
「ブモォオオオオオン!!!」
空気を震わせる咆哮とともに、剛毛豚が巨体を震わせて突進してきた。
地響きが起きる。あの巨体と硬度の突進を14歳のガリガリの体で直撃されれば、骨が粉々に砕けて即死だ。
だが、俺の心は驚くほど冷静だった。
突進速度、時速およそ五十キロ。直線的な動き……回避の猶予は二秒。
俺は走ってくる剛毛豚をじっと見つめ、限界まで引きつけた。
三十メートル。二十メートル。十メートル。
相手の息遣いが届き、巨大な牙が目前に迫った——その瞬間。
意識接続——『時間停止』
ドクン、と心臓が強く跳ね上がった。
一瞬にして、世界から色彩と音が失われる。
突進してくる剛毛豚が、目の前わずか数十センチのところで、空中を掻く姿勢のままピタリと静止した。毛並みの先で弾ける泥の粒子すらも、空中で固まっている。
カウント1
脳に刺さるような激痛。鼻の奥で生温かい血液が滲む。
この無音の静止世界の中で、俺は動き出した。
正面から短剣を刺しても、あの硬質な皮と毛並みには弾かれる。
狙うのは、構造上の『弱点』だ。
俺は静止した剛毛豚の足元へ滑り込み、後脚の関節部分を観察した。
どれだけ皮膚が硬かろうと、関節を動かすための筋肉の隙間と腱の結合部は必ず存在する。
カウント3
右手の指先に、高純度に圧縮した魔力を集める。
発現させるのは、炎でも雷でもない。超局所的な振動と切断のベクトル。
指先から放たれた極小の魔力刃を、短剣の刃先に纏わせる。
研ぎ澄まされたメスのように、短剣の威力を一点だけに集中させる回路だ。
カウント5
静止した剛毛豚の右後脚の関節——その皮膚の隙間に向けて、俺は精密に短剣を突き立てた。
ズブッ。
豆腐に熱したナイフを押し込むような、手応えのない感触。
硬質な皮を綺麗にスルーし、内部の腱と魔力回路だけを正確に断ち切る。
カウント7……解除!
俺はすぐさま地面を転がり、後方へと距離を取った。
瞬間、世界に音が戻る。
「ガアアッ!?」
突進の勢いのまま通り抜けようとした剛毛豚だったが、右後脚の腱を断ち切られたことで体勢が激しく崩れた。
時速五十キロの巨体が横転し、勢い余って巨木へと激突する。
凄まじい落雷のような破砕音が森に響き渡り、土煙が舞い上がった。
「……フゥ、ハァ……っ」
俺は膝をつき、激しい息を吐き出しながら袖で鼻血を拭った。
頭が割れるように痛い。時間停止を使ったのは、わずか7秒。だが、14歳の未熟な身体にはこれだけでも相当な負担だ。
「……だが、狙い通りだな」
土煙の向こうで、右脚を潰された剛毛豚が苦しげに悶絶している。
どれだけ皮膚が硬く、パワーがあろうと、脚の筋肉と腱を破壊されれば巨体を支えることはできない。
俺は荒い息を整えながら、ゆっくりと立ち上がった。トドメを刺すために、動けない剛毛豚へと近づく。
喉元の薄い皮を狙い、再び高効率に圧縮した魔力刃を刺し込んだ。
「グル……ル……」
短く絶命の声を残し、巨大な異獣は動かなくなった。
初戦としては、完璧な勝ち方だ。
自分の組んだ魔術理論の切断力も、時間停止を使った回避と弱点攻撃の組み立ても、計算通りに機能してくれた。
だが——俺の胸の中に残ったのは、勝利の達成感ではなく、拭い去れない違和感だった。
「……妙だな」
俺は倒れた剛毛豚の死体を見下ろし、冷ややかに眉をひそめた。
剛毛豚は、本来なら森の奥深くに生息する縄張り意識の強い異獣だ。
こんな森の入口付近にまで一匹で降りてきて、遭遇した瞬間にナワバリ主張でも威嚇でもなく、殺気全開で襲いかかってくるなど、生態としておかしい。
まるで——俺が魔術を練った瞬間、その匂いを遠くから嗅ぎつけて、なりふり構わず喰らいつきに来たかのような暴走ぶりだった。
俺の魔力操作が、何か刺激でも与えたのか?
だが、俺が使った魔力の量はごくわずかだ。
そこらの初級魔導師が使うような大げさな火の玉よりも、はるかに省エネで小規模なエネルギーしか使っていない。
「……まあいい。深く考えても今は情報が足りないか」
俺は思考を切り替え、短剣を使って剛毛豚の体内から最も金になる魔石と、換金性の高い牙を切り出し始めた。
一戦ごとに身体にかかる負担は大きいが、得られた手応えは十分だ。
手持ちのカードを正しく使えば、この世界でも十分に食っていける。
「よし……素材を回収したら、一度街に戻るか」
血の匂いが他の異獣を呼び寄せる前に、俺は回収作業を急いだ。
自分の放つ魔力の本当の質に、そしてそれが引き寄せる今後のトラブルの規模に、まだ何の確信も持てないまま。




