第3話 ノア
生き延びるための最初の一歩は、食料でも服でもなく「情報」だった。
王都の裏路地を這い出た俺は、まず己の置かれた環境と、この世界のルールを把握することに全力を注いだ。
14歳のガリガリの体には、一銭の金もない。
そこで俺は、街の東側に広がる巨大な「廃品市」へと向かった。そこは王都の富裕層や研究者が捨てたゴミや、破棄された古書、壊れた魔導具の部品が山のように積み上げられている場所だ。
「おいガキ、邪魔すんじゃねえ! 金がないなら失せな!」
店主のダミ声が飛んでくる。俺は冷めた目でそれをあしらいながら、観察眼と交渉術を駆使した。
ゴミ山の中から、業者が見落としたわずかに使える金属くずや、魔導具の回路になりそうな部品を見つけ出し、それを他の商人に持ち込んで微々たる銅貨に変える。
その銅貨で、薄いパンをかじり、古書堂の店主に粘り強く交渉して「売り物にならない破れかけた歴史書や魔術の初級書」を投げ売り価格で買い漁った。
そして、夜は街の外縁にある廃棄小屋に籠もり、拾ってきた本を貪るように読み込んだ。
「……なるほどな」
固い床に座り込み、月明かりと拾ってきた灯籠の微かな光を頼りに、俺は破れたページをめくっていく。
この世界『魔界』の歴史と、魔人族の生態。
大昔、魔人族は神のごとき大魔術を操り、世界を支配していたという。だが時代が下るにつれて大気中の魔力は薄れ、現代の魔人族が使う魔術は、すっかり形式化・形骸化していた。
本に書かれている魔術の使い方は、驚くほど非効率的だった。
『炎を出したくば、古代語の呪文を三行唱え、指定の魔法陣を描き、体内の魔力を一度頭頂部に集めてから放つべし』
「……バカバカしい」
俺は思わず眉をひそめた。
前世で大学まで進み、物理や化学の基礎を修めた俺の頭脳からすれば、この世界の魔術書に書かれている手順は無駄の極みだった。
呪文や魔法陣というのは、本来「脳内でイメージを固定するためのインターフェース」に過ぎない。
それなのに、この世界の魔人族は手順そのものを魔術だと信じ込み、無駄な魔力を大気中に散らしながら、効率の悪い発光や発火を行っているのだ。
例えるなら、部屋の電気を点けるために、毎回数十行のプログラムを手打ちで入力しているようなものだ。スイッチを一押しすれば済む話なのに。
もしや俺の持っている『能力』も……似たような理屈なのか?
ふと、俺は自分の胸に手を当てた。
この14歳の身体で目覚めた時から、俺の感覚の端にずっと引っかかっていた異物感。
それは、この世界の魔人族が使う一般的な魔術とは明らかに異質な、俺だけの『固有スキル』の存在だった。
試しに、脳内でその回路に触れてみる。
「アクセス」
ドクン、と鼓動が跳ね上がった。
次の瞬間——世界から「音」と「色」が消えた。
外で風に揺れていた木の葉が、空間のただ中でピタリと静止する。
落ちかけていた水滴が、空中にとどまったまま動かない。
月光すらも固着し、空間全体がまるで透明な樹脂で固められたかのように完全に静止した。
俺の意識だけが、動きを止めた世界の中でクリアに思考を続けている。
…やっぱりだ。最大で、およそ10秒。
静止した世界の中で、俺は己の身体の状態を冷ややかに観察した。
時間を止める。
凄まじい能力だ。前世のフィクションなら主人公やラストボスが持つような規格外の能力。
だが、今の俺にとって、この能力は決して「無敵のカード」ではなかった。
10秒が限界か。それに、体の負担が重すぎる。
静止した世界の中で一歩を踏み出そうとするだけで、14歳のガリガリの身体に凄まじい重圧がかかる。
脳の奥が万力で締め付けられるように痛み、鼻から生温かい液体——鼻血がツッと垂れてくるのが分かった。
10秒。それが今の俺の肉体と魔力回路で耐えられる絶対の限界だ。
10秒を過ぎれば強制的に解除され、強烈な目眩と疲労感で数分間は動けなくなる。
なるほどな……強力だが、使いどころを間違えれば自分が自滅する諸刃の剣だ。10秒という時間をどう切り取るか、事前の計算がすべてだな。
俺は心の中でカウントを刻み、9秒目で意識の接続を解除した。
ガタッ、と世界が一瞬で動き出す。
止まっていた水滴が地面に落ちて弾け、風の音が鼓膜に戻ってきた。俺は袖で鼻血を拭い、激しい息吐きを整えた。
時間を10秒止める固有スキル。
そして、前世の物理知識で組み上げる魔術。
この二つが、俺の二度目の人生の主兵装だ。
「……よし」
俺は気を取り直し、体内の微小な魔力へと意識を向けた。
固有スキルは負担が大きすぎる。だからこそ、普段の戦闘や作業は、前世のロジックで最適化した「通常の魔術」でこなす必要がある。
魔力とは、単なる『指向性を持った生体エネルギー』だ。
俺は目を閉じ、脳内で明確なアルゴリズムを組み立てた。
1 体内の微小な魔力を、右手の指先に集める。
2 大気中の酸素と熱のベクトルを視覚化する。
3 摩擦熱をコンマ数ミリの一点に集中させ、発火点に達させる。
「コード完了」
パチン。
指先を軽く鳴らした。
その瞬間、俺の親指の先で、米粒ほどの小さな青い火花が静かに灯った。
無詠唱。無陣。
大気中への魔力の漏れはゼロ。100%の変換効率。
本に書かれていた「初級火炎魔術」が、大げさな呪文もなしに、指先一つで再現できた。
「……ふむ。いけるな」
青い火花を見つめながら、俺は口角を薄く上げた。
この世界の魔人族が才能や血統で片付けている魔術を、俺は構造と物理計算で完全に分解し、扱いやすい現代魔術として組み直すことができる。
手持ちの魔力が少なくても問題ない。
変換効率を極限まで高めれば、ごく微量の魔力で、相手の構造を破壊するのに十分な威力を叩き込めるからだ。
「……さて」
俺は指先の火花を消し、自分の細い腕を見下ろした。
路地裏で生き倒れていたこの身体の元の名が何だったのかは、もう分からない。
前世の日本の名前を名乗るのも妙だし、何より過去に執着するつもりもない。
「……ノア」
ふと、口からその響きが漏れた。
意味なんてどうでもいい。単に覚えやすく、呼びやすい。
「今日から、俺はノアだ。この名前で生きていく」
名乗った瞬間、自分の中で古い前世の影と、この14歳の肉体がしっくりと噛み合った感覚があった。
俺は廃棄小屋の床から立ち上がり、腰に差した錆びた短剣の柄に触れた。
街の廃品市で、わずかな銅貨と引き換えに手に入れた一本のなまくら。刃こぼれが酷く、武器としてはお粗末な代物だが、魔力を透過させる「触媒」としては十分使える。
「知識と理論は固まった。固有スキルの限界(10秒)も把握した」
俺は廃棄小屋の不気味な暗がりから、月明かりの差す外へと視線を向けた。
「次は、こいつらを動かすための『資金』と『実戦データ』だな」
生きるために、街の外へ出る。
街の外に広がる「異獣」の領域へ向かい、素材を刈り取って金に変える。ついでに、自分の組み上げた魔術理論と10秒のスキルがどこまで通用するのか、実戦でテストしてみる。
俺は冷徹な瞳に確かな野心と余裕を宿しながら静かに歩き出した。




