第2話 死と生
頭が割れるように痛かった。
重い瞼を押し上げると、まず視界に飛び込んできたのは、苔と煤で汚れた灰色の石造りの天井だった。隙間から差し込むかすかな光に、埃の粒子がチラチラと舞っている。
鼻を突くのは、湿った土と腐敗したゴミの混ざり合った不快な臭気。
……ここは、どこなのだろう。
記憶を手繰り寄せる。
確かに俺は、薄暗い自分の部屋で、都市伝説のサイトで見つけた陣を描き、悪魔を呼び出した。そして「これからやりたいこともない」という理由で、あっさり命を対価に渡したはずだ。
あの悪魔の手が胸を貫き、意識が闇に落ちたあの冷たい感覚ははっきりと覚えている。
死んだはずだ。消滅したはずだ。
なのに、なぜ俺はまだ思考している?
「……っ」
体を起こそうとして急激な痛みに呻き声が漏れた。背中と関節が軋む。地面に叩きつけられたような打撲痕と全身を覆う激しい疲労感。
ふと自分の視界に入った腕を見て、俺は動きを止めた。
「……なんだ、これ」
かすれた声が出た。それは二十歳を過ぎた男の声ではなく、まだ声変わりを終えたばかりのような頼りない青年の声だった。
視線の先にあるのは、垢と泥で黒く汚れた恐ろしく細い腕だ。
骨と皮膚しかついていないようなガリガリの腕。手首には無数の擦り傷があり、爪の隙間には黒い土が詰まっている。着ている服も、服と呼べるような代物ではなかった。麻袋を適当に破って巻き付けたような、ボロ布の一片だ。
俺はゆっくりと自分の身体を触り、確認していった。
骨が浮き出た頬、痩せこけた体幹、そして短く伸びっぱなしになった硬い髪。
どう見ても、日本のワンルームマンションで怠惰に暮らしていた俺の身体じゃない。せいぜい14、5歳程度の、今にも餓死しそうなガキの体だ。
信じられないが俺は生きているのだろう。
死んだと思った。だが、どうやら死ねなかったらしい。
あの世界の俺は死んで、この死体に魂ごと打ち込まれたのか。
「……ハは、マジかよ」
思わず引きつった笑いが漏れた。
命を差し出してあっさり人生を畳んだつもりだったのに、まさかこんなゴミ捨て場みたいな場所で、生き残りゲームの敗者みたいな姿で二度目をスタートさせられるなんて冗談にしては出来が悪い。
だが、嘆いていても始まらない。
俺は壁に背を預け、冷たい石畳の上に座り直した。
まず、ここがどんな場所なのか。
この身体に残された記憶と、耳から入ってくる情報から整理していく。
路地の外からは、ガタガタと馬車が石畳を走る音や、聞いたこともない言語で叫ぶ行商人の声が聞こえてくる。日本語じゃない。……だが、なぜか意味が理解できた。
脳の深層に、この身体がもともと持っていた知識が、薄っすらと残っている感覚。
…この世界に生きているのは『魔人族』だけ、か。
魔人族、という大仰な響きではあるものの、別段角が生えているわけでも、吸血の習性があるわけでもない。見た目も生活様式も、前世の人間と大差ない生き物たちだ。
かつての大昔には、誰もが絶大な魔術を操る栄華を誇っていたらしいが……それは疾発の昔の話。今の魔人族はすっかり魔力が衰退しており、平民に至っては「手元に小さな火を点けられるかどうか」程度の、ごくささやかな力しか持っていない。
要するに、名前こそ『魔人族』だが、中身はほぼ前世の人間と変わりない世界だ。
「そして俺は……その魔人族の中でも、最底辺の行き倒れってわけだ」
俺は自分の胸に手を当ててみた。
心臓の鼓動は聞こえるが、魔力と呼べるようなエネルギーの感覚はさっぱり分からない。身体が弱りすぎていて、それどころではないのだろう。
せいぜい14歳のガリガリの体。着る物も食料も、身寄りもない。
放置すれば、あと数日で間違いなく餓死する。
「……最悪だな」
俺は壁に頭を預け、吐き捨てるように呟いた。
前世では、特にやりたいこともなく、退屈に耐えかねて命を捨てた。
そして目覚めた先は、何も持たない貧民街の路地裏。
普通なら絶望してやはり悪魔なんて信じるものではなかったと泣き叫ぶ場面かもしれない。
けれど。
胸の奥から湧き上がってきたのは、不思議と絶望ではなかった。
前世の俺は、何をしても満たされなかった。何不自由ない世界で、与えられた選択肢をただ消化するだけの毎日に退屈していた。
だが、今は違う。
放っておけば死ぬ。だからこそ「どうやって生き残るか」という明確な課題が目の前に転がっている。
「……まあいいか」
俺は息を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。
膝が生まれたての小鹿のようにガクガクと震えたが、壁に手をついて強引に身体を支える。
前世で死んだときの、あの乾いた納得感を思い出す。
一度は捨てた命だ。未練も執着もない。
なら、二度目の人生くらい、誰の目も気にせず好き勝手に生きさせてもらおう。
俺は壁から手を離し、貧民街の薄暗い裏路地から、光が差し込む大通りに向かって一歩を踏み出した。




