第1話 悪魔召喚
特に何かが不満だったわけじゃない。
親に虐待された記憶もないし、学校で苛烈ないじめに遭ったこともない。人並みに友達はいたし、人並みに勉強や仕事をこなし、人並みの人生を送っていたと思う。
ただ、ずっと退屈だった。
何をしても、どこへ行っても、胸の奥底が冷め切っていた。
熱狂できる趣味もなければ、死ぬ気で叶えたい夢もない。明日という日を迎えることに何の期待も抱けず、ただ押し寄せてくる日常を惰性で消化している感覚。
この先、あと何十年もこんな消化試合を続けるのか……?
二十歳を過ぎ、狭いワンルームのアパートで一人暮らしを始めてから、その思考はより一層強くなっていた。生きていくために働き、稼いだ金で飯を食い、生き延びるために寝る。ただそれだけの循環。別に絶望して泣き叫びたいわけじゃない。ただ純粋に、「この作業、いつまでやる意味があるんだろう」という乾いた疑問だけが残っていた。
あの日も、休日の薄暗い部屋でパソコンの画面をぼんやり眺めていた。
ネットの掲示板や都市伝説のまとめサイトを適当に流し読みしていた時、ふと目にとまったページがあった。
『悪魔召喚術——願いの代償』
黒い背景に拙い文字が並んだ、いかにも胡散臭いオカルトサイト。中学生が作ったと言われても信じるようなチープな内容だ。
普段なら一秒でタブを閉じるような代物だったが、その時の俺はなぜか画面に書かれた手順をじっくりと読んでいた。
自らの血で陣を描く。
部屋を暗くし、静寂を保つ。
呪文を唱え、対価を用意する。
「……バカバカしい」
思わず口元が緩んだ。
現代社会で悪魔。科学がこれだけ発達した時代に、血で描いた落書きで悪魔が呼び出せるなら苦労はない。普通なら「くだらない」で終わる話だ。
けれど、当時の俺は信じられないくらい暇だった。そして、この退屈な日常に心の底から飽き飽きしていた。
もし……万が一、本当に現れたらどうなるんだ。
そんな、暇つぶしの延長のような軽い興味本位。
「本当にできたら面白いな」くらいの軽い悪戯心で、俺は椅子から立ち上がった。
キッチンから小さなナイフを持ち出し、部屋の遮光カーテンをきっちりと閉める。照明を消すと昼間だというのに部屋は薄暗い静寂に包まれた。
床に腰を下ろし、左手首にナイフの刃を当てる。少し力を込めるとチクッとした痛みとともに赤い血が滲み出してきた。痛む傷口を眉一つ動かさずに眺めながら、俺は指先に血をつけ、フローリングの上にサイトで見た陣を描き始めた。
円を描き、幾何学模様を組み合わせ、歪な文字を書き連ねる。
部屋の中に、うっすらと生温かい鉄の匂いが漂い始めた。
俺は本当に何をやっているんだ。
頭の片隅で冷めた自分が笑っていた。休日の真っ昼間に、一人で部屋を暗くして血で落書きをしている男。傍から見れば完全に頭のタガが外れた変質者だ。
だが、作業の手は止めなかった。
陣を書き終え、その正面に正座する。 サイトに書かれていた発音のよく分からない呪文を、息を整えて口にした。
「……アルカス・グラ・ナ・セクスト……」
静かな部屋に、俺の声だけが響く。
何も起きない。当たり前だ。やっぱりただのガセネタ——
「……ヴァル・グラ・ノ・ソム」
最後の単語を唱え終えた、次の瞬間だった。
ピチッ、と空間が爆ぜるような音が聞こえた。
「……え?」
直後、全身の産毛が逆立つほどの強烈な寒気が襲いかかってきた。エアコンの冷気なんてレベルじゃない。一瞬で部屋の空気が凍りついたかのように、吐く息が白く染まる。外を走る車の音も、風の音も、一瞬で途絶えた。完全な無音。
おいおい、マジかよ。
身体が重い。金縛りに遭ったように、指一本動かせなくなった。
床に描いた血の陣が、不気味な黒紫色の光を放ち始め、そこから泥のような黒いモヤが溢れ出してくる。
モヤは天井に向かって巻き上がり、やがて、人の形へと収束していった。
そこに現れたのは、角の生えたバケモノなどではなかった。
漆黒の衣を纏い、冷徹な双眸で俺を見下ろす、息を呑むほど整った容姿の【悪魔】だった。
圧倒的だった。
そこに存在するだけで、部屋の壁や天井が圧迫されて軋むような絶大なプレッシャー。生物としての本能が「危ない」と警鐘を鳴らしている。
悪魔は、つまらなそうに俺を見下ろした。
『……人間か。戯れに刻まれた術式かと思えば……ほう、狂いのない契約陣だ』
脳に直接響くような、低く澄んだ声。
『我は悪魔。呼び出しに応じ、お前の望みを一つ叶えよう。……ただし、悪魔との契約には相応の代償が必要だ。我が求めるのは、お前の魂の価値に見合う『対価』』
悪魔の手が、すっと俺に向けられた。
『命か、感情か、記憶か。お前は何を差し出す? 人間よ』
代償。契約。俺は動かない身体の中で、呆然とその悪魔を見上げていた。
本当に現れてしまったことへの驚きが八割。そして残りの二割は——拍子抜けするほどのあっけなさだった。
何を差し出すか、か。
金が欲しいわけでも、世界を救いたいわけでもない。この先、何十年もこの退屈で意味のない日常を消化し続ける未来を想像した。
別に生きているのが地獄のように辛いわけじゃない。でも、特にこれからやりたいこともない。執着するような夢も、守りたいものも何もない。
…あ、じゃあもう、ここで終わらせてもいっか。
驚くほどスッと、その考えが腑に落ちた。
悲壮感もなければ、自暴自棄の絶望もない。ただ「これからやりたいこともないしちょうどいい機会か」という、軽い片付けのような納得感。
俺はかすれた声で、淡々と口を開いた。
「……俺の、命でいいよ」
悪魔の眉が、ほんの僅かに跳ね上がった。
『……死を望むか。富でも、力でもなく』
「うん。特にやりたいこともないし、生き執着もないんだよね。……だから、俺の命と引き換えに、ここで俺を終わらせてくれ」
交渉でも懇願でもない。ただの雑談のようなトーンだった。
悪魔はしばし俺の顔を無感情に見つめていたが、やがて口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
『……ふむ。いいだろう。契約は成立だ』
悪魔の手が、俺の胸元へと伸びてきた。
その手が皮膚を透過し、俺の胸の奥底——魂へと直接届く。
「あ……」
熱いような、冷たいような不思議な感覚。
自分という存在の根幹が、強引に掴み出され、世界から引き剥がされていく。
視界が急速に暗くなり、身体の感覚が消えていく。
本当に死ぬのだろう。
怖くはなかった。ただ、長かった退屈な映画のスタッフロールを見つめているような、どこか他人事のような静けさだけがあった。
『契約に従い、お前の魂を受け取った。お前の存在は、今この瞬間をもって消滅する』
悪魔の声が遠ざかり、俺の意識は完全な闇へと落ちていった。
やりたいこともなく、執着もなく、ただ興味本位で悪魔を呼び出し、なんとなく命を差し出した男。
俺の人生は、こうしてあっけなく幕を閉じた。
——はずだった。
この後、まさか別の世界の路地裏で、14歳のボロボロの孤児として目を覚ますことになるなんて、この時の俺は思いもしなかった。




