第2回:ビガンのスペイン風洋館と、すっぱいスープ
みなさん、こんばんは。旅する怪談収集家、栞です。
気がつけば6月も半ば。日本は梅雨真っ盛りでしょうか?
私は今、フィリピンのルソン島北部にある、ビガンという街にいます。ここは16世紀からのスペイン統治時代の街並みがそのまま残っていて、ユネスコの世界遺産にも登録されている美しい古都なんです。
夜のビガンはね、本当にタイムスリップしたみたい。
オレンジ色の街灯に照らされた石畳を、パカパカと小気味いい音を立てて馬車が通り過ぎていく。耳をすませば、古い建物の隙間から、かつての住人たちの囁き声が聞こえてきそうで……ふふ、ロマンチックでしょう?
あ、そうそう! フィリピンの料理って、実は日本人の口にすごく合うんですよ。
今日私がいただいたのは、国民的スープの『シニガン』。タマリンドというフルーツを使った、とにかく酸っぱいスープです。具材はエビや豚肉、空芯菜にナス。蒸し暑い雨季のフィリピンで、このガツンとくる酸味を味わうと、旅の疲れなんて一気に吹き飛んじゃいます。
でもね、あまりに美味しそうだからって、旅先で「誰が作ったか分からないスープ」を安易に口にしてはいけません。
今夜お届けするのは、私の旅仲間から聞いた、ある美しいおもてなしのお話です。
バックパッカーのB君は、雨季のビガンを一人で旅していました。
ある日の夕方、街を歩いていると、突然バケツをひっくり返したような激しいスコールに見舞われました。
慌てて、古いスペイン風洋館の大きな軒下に駆け込みます。
雨は一向に止む気配がありません。スマートフォンの電波も悪く、途方に暮れていると、洋館の重厚な木製のドアが静かに開きました。
「よろしければ、雨が上がるまで中で雨宿りをなさいませんか?」
そこに立っていたのは、伝統的な白いドレスを着た、信じられないほど美しいフィリピン人の女性でした。
B君はすっかり見惚れてしまい、お言葉に甘えて中へ入ることにしました。
洋館の内部は、アンティークの家具が並び、どこか懐かしい、けれどひんやりとした空気が満ちていました。
女性は「冷えたでしょう」と言って、キッチンから温かいシニガンスープを運んできてくれました。
「おいしい……!」
タマリンドの鮮烈な酸味と、じっくり煮込まれたお肉の旨味。B君は夢中でスープを啜りました。
女性は対面の椅子に座り、嬉しそうに彼を見つめています。
窓の外では、ザーザーと雨の音が響いています。
美味しいスープと、美女との会話。B君はまるで夢見心地でした。しかし、スープを半分ほど飲み進めた時、彼はある違和感に気づきます。
テーブルの向こうの女性は、ずっと上品に微笑んでいるのですが、その体が……ピクリとも動かないのです。
呼吸をしている様子がありません。
それどころか、彼女の座る椅子の下から、かすかに「カサカサ……」と不穏な音が聞こえてきます。
B君は、スープを持つ手を止めず、目線だけをゆっくりと下げていきました。
テーブルの下。
女性のドレスの裾から覗くはずの、足がありませんでした。
いいえ、足がないだけではありません。
彼女の腰から下は、すっぽりと存在せず、代わりに赤黒い内臓のようなものが、床にまでだらりと垂れ下がっていたのです。
そして、その内臓の隙間から、無数の這い出るような虫と、鋭い牙を持った「何か」が、B君の足を狙って這い上がろうとしていました。
(マナナンガル……!)
B君の脳裏に、フィリピンの有名な魔女の伝承が浮かびました。
夜になると上半身と下半身が泣き別れになり、翼を生やして人間の血肉をすする怪物。
でも、マナナンガルは背中にコウモリのような羽があるはず。彼女にはそれがない。
「どうかなさいましたか? お口に合いませんか?」
女性が首を傾げました。その首が、あり得ない角度にカクリと曲がります。
B君は恐怖で凍りつきながらも、必死に頭を回転させました。
これはマナナンガルじゃない。ビガンの古い洋館に棲む、お腹に大きな空洞を持つという精霊――あるいは、もっと別の飢えたモノだ。
彼女の「空洞」を満たすために、自分は呼ばれたのだと直感しました。
「いえ、とても美味しいです。……ただ、少し酸味が強いので、塩を足してもいいですか?」
B君は震える手で、ポケットを探りました。
バックパッカーの知恵として、熱中症対策用に常に持ち歩いていた「岩塩の小袋」を取り出します。
フィリピンの魔物や精霊は、総じて『塩』と『酸』を極端に嫌う。シニガンのタマリンド(酸)は、彼女にとって、自分の正体を隠すためのカモフラージュだったのです。
B君は、スープの皿ではなく、目の前の女性に向けて、一掴みの岩塩を思い切り投げつけました。
「ギャアアアアアアアアアアアアッ!」
女性の口から、人間のものとは思えない鼓怪な悲鳴が上がりました。
塩が触れた皮膚からジクジクと煙が上がり、彼女の美しい顔が、みるみるうちに干からびたドクロのように変形していきます。
テーブルの下の臓物たちが、狂ったようにのたうち回りました。
B君はスープの皿をひっくり返し、一目散に洋館のドアを開けて外へ飛び出しました。
激しい雨の中を、ただがむしゃらに走りました。
カレッサ(馬車)の蹄の音が遠くで聞こえたとき、ようやく彼は自分がビガンの大通りに戻ってきたことに気づきました。振り返っても、さっきの洋館がどこにあったのか、もう分かりませんでした。
……というお話です。B君は無事に生還できましたが、今でもシニガンスープを見ると、あの夜の強烈な酸味と、テーブルの下の光景を思い出して、胃のあたりがしくしく痛むそうです。
みなさんも、海外の旅先で見知らぬ美女に食事を勧められたら、よーく観察してくださいね。
特に、相手の腰から下がどうなっているか、テーブルの下を覗くのをお忘れなく。
あ、でも、普通のお食事デートでそれをやったら、ただの変態だと思われて嫌われちゃいますから、加減が難しいところですけどね。うふふ。
それでは、今夜はこのへんで。
お相手は、栞でした。
あなたの旅のしおりにも、どうか奇妙なページが挟まれませんように。
おやすみなさい。……あ、そうそう、東南アジアの夜は蚊が多いですから、虫除けスプレーは必須ですよ?
……まぁ、人間以外の『お腹を空かせたお客様』には、虫除けスプレーは効かないみたいですけど。
(番組終了のジングル:カレッサの蹄の音と、ページをめくる音)
第2回、フィリピン・ビガン編でした!
シニガンの「酸味」と、魔物の「空洞」を絡めてみましたが、南国の湿っぽい空気感は伝わりましたでしょうか?




