第1回:貴船の川床と、溶けない氷
みなさん、こんばんは。旅する怪談収集家、栞です。
6月も末ですね。この時期の京都は「油照り」と言って、じっとりと湿り気を帯びた熱風が街を包みます。扇子をいくら仰いでも、まるで熱いおしぼりで顔をなでられているみたい……うふふ、少し例えが色気なさすぎました?
さて、6月30日は、京都では「夏越の祓」という大切な節目。半年間の穢れを落として、あとの半年の健康を祈る日なんです。この日に欠かせないのが、和菓子の『水無月』。白い外郎の上に、小豆がたっぷりのった三角形のお菓子です。
この三角形は「氷」を、赤い小豆は「魔除け」を表しているんですって。昔、氷が貴重だった時代、貴族たちは冬に貯めておいた氷を食べて夏を凌ぎましたが、庶民には手が出せません。だから、せめて氷に似せたお菓子を食べて、暑さを乗り切ろうとした……。健気で、ちょっと食いしん坊な知恵だと思いませんか?
本日お届けするのは、そんな「水無月」の由来にも通じる、ひんやりと冷たい、けれど甘くはないお話です。
京都の奥座敷、貴船。
市内より数度は気温が低いと言われるその場所に、彼女――仮にAさんとしましょう――は、一人で訪れていました。
お目当ては、川の上に座敷を設ける「川床」。
清流のせせらぎがすぐ足元で聞こえ、青もみじが影を落とすその場所は、まさに都会のオアシスです。
Aさんは老舗の料理旅館で、贅沢な昼食を楽しんでいました。
鮎の塩焼きに、透き通ったお造り。最後に出てきたのは、やはりこの時期らしいデザートの「水無月」でした。
「おいしそう……」
一口食べようとしたときです。
不意に、隣の席に座っていた、古風な着物姿の老婦人が声をかけてきました。
「……お嬢さん。その水無月、小豆の数を数えてごらんなさいな」
唐突な言葉に、Aさんは戸惑いました。
「えっ? 数、ですか?」
「そう。魔を払う小豆は、偶数であってはならない。割り切れてしまうと、魔が入り込む隙ができるからね。……もっとも、それは人間が食べる『お菓子』の話だけど」
老婦人は意味深な笑みを残し、代金を置くと、音もなく去っていきました。
奇妙なこともあるものだと思いながら、Aさんは皿の上の水無月を眺めました。
小豆の数は、十、十一、十二……。
「……あっ」
ちょうど、十二個。偶数でした。
なんだか気味が悪くなったAさんは、結局その一切れを残して、店を出ました。
帰り道、貴船神社の参道を歩いていると、強い既視感に襲われました。
いつの間にか、周りから観光客の姿が消えています。
聞こえるのは、川の音。でも、さっきまでの涼やかな音ではありません。
ゴウゴウと、地底から響くような、重苦しい水の音。
ふと足元を見ると、自分の影が、三角形に歪んでいます。
「あつい……」
突然、耐え難い熱気が彼女を襲いました。
心臓の鼓動が激しくなり、喉が焼けるように渇く。
水分を求めて川に駆け寄ろうとしたとき、目の前の水面に、さっきの老婦人が立っていました。
いえ、立っていたのではありません。
彼女の足元は、川の水が凍りつき、鋭い三角形の台座のようになっていたのです。
「氷が足りないねぇ」
老婦人が口を開くと、その喉の奥に、真っ赤な小豆のような「何か」がぎっしりと詰まっているのが見えました。
「お嬢さん、あんたが残したから、私の氷が完成しないんだよ」
老婦人が指差した先。
Aさんの腕に、ポツリと赤い斑点が現れました。
一つ、二つ。
それは皮膚の下で蠢きながら、まるで小豆のような形に盛り上がっていきます。
三つ、四つ。
「……割り切らせないで」
老婦人の声が、頭の中で反響します。
五つ、六つ……。
斑点が増えるたび、Aさんの体温は急速に奪われ、手足が凍りついたように動かなくなっていきます。
九つ、十、十一……。
あと一つ。あと一つ増えれば、偶数になる。
十二個目が盛り上がろうとしたその瞬間、Aさんは必死の思いで、バッグの中にあった数珠――京都土産に買ったばかりの、安物の木製の数珠を、力任せに引きちぎりました。
バラバラと、木の玉が川に散らばります。
その音で、風景が弾けました。
「お客様? 大丈夫ですか?」
気づけば、彼女はまだ川床の席に座っていました。
目の前には、一口もつけていない「水無月」。
店員が心配そうに覗き込んでいます。
「……すみません、少し立ちくらみがして」
「お暑いですからね。よろしければ、こちらのお茶をどうぞ」
店員が淹れてくれた新しいお茶を飲み、Aさんは恐る恐る、皿の上の水無月を見ました。
小豆の数は、十一。
……さっき数えたときは、確かに十二だったはずなのに。
彼女は逃げるように店を後にしました。
けれど、帰りの電車の中で。
彼女は自分の腕を見て、絶句しました。
斑点は消えていました。
でも、代わりに。
爪の間から、小さな、小さな……真っ赤な小豆の芽が、顔を出していたそうです。
いかがでしたか? 貴船の涼しいお話。
氷に憧れた人々の思いが、時としてお菓子ではない「本物」を呼び寄せてしまうのかもしれません。
数珠をちぎって難を逃れたAさんですが、彼女、それ以来あだ名が『アズキちゃん』になっちゃったんですって。……あ、これは私の冗談です。笑えません?
でも、みなさんも気をつけてくださいね。
割り切れない思いを抱えたまま、冷たい川のそばを歩くときは。
あなたの影が、三角形になっていないか。
そして、腕に変な斑点ができていないか。
それでは、今夜はこのへんで。
栞がお送りしました。
次はあなたの街の、不思議な栞でお会いしましょう。
おやすみなさい。……あ、寝る前に甘いものを食べたら、ちゃんと歯を磨くんですよ?
虫歯という名の『魔』に、付け入る隙を与えないように!
(番組終了のジングル:風鈴の音と、ページをめくる音)
いかがでしょうか。
京都の風土と、この時期ならではの恐怖を混ぜてみました。
もしお気に召しましたら、第2回はどこの国へ、どんな食べ物を探しに行きましょうか?




