第3回:ジョグジャカルタの影絵芝居と、甘いお肉
みなさん、こんばんは。旅する怪談収集家、栞です。
異国の夜って、どうしてあんなにワクワクするんでしょうね。
今夜私がいるのは、インドネシアのジャワ島にある古都、ジョグジャカルタ。伝統芸能やジャワ文化の中心地として知られる、とても風情のある街です。
インドネシアの夜の楽しみといえば、やっぱりナイトマーケットの屋台めぐり!
私のお気に入りは『サテ・アヤム』。甘辛いピーナッツソースをたっぷり絡めて、炭火でじっくり焼いたインドネシア風の焼き鳥です。東南アジアのスパイスとお肉の脂が焦げる匂いって、どうしてあんなに人を惹きつけるんでしょうね。冷たいビール……あ、インドネシアはイスラム教徒の方が多いので、屋台では甘いインドネシア風のジャスミン茶を合わせるのが現地流。これがまた、お肉の脂をすっきりと流してくれて最高なんです。
でもね、そんな賑やかな夜の喧騒から一歩路地裏に入ると、ジャワの闇は一気に深くなります。この土地には、何百年も前から語り継がれる『ワヤン・クリ』という影絵芝居があるのですが……。
本日お届けするのは、その「影」に魅せられてしまった、あるバックパッカーのお話です。
大学生のC君は、ジョグジャカルタの王宮周辺を熱心に観光していました。
その夜、彼は念願だった『ワヤン・クリ(影絵芝居)』を観劇することにしました。
暗い舞台の裏からガムランの幻想的な音楽が響き、スクリーンに映し出される精巧な人形の影が、まるで生きているかのように滑らかに踊る。C君はその妖艶な世界観に、すっかり心を奪われてしまいました。
劇が終わったのは、深夜0時近く。
興奮冷めやらぬまま、彼はひと気のない路地を歩いてホテルへ向かっていました。すると、どこからともなく、サテ(焼き鳥)を焼く、えも言われぬ香ばしい匂いが漂ってきたのです。
(こんな時間に、まだ屋台が出ているのかな?)
匂いに誘われるように路地を曲がると、古びたバナナの木の陰に、ぽつんと一台の小さな屋台が佇んでいました。
店主の男は、黙々と団扇で炭火を煽っています。
「いらっしゃい。特製のサテがあるよ」
男は顔を上げず、低い声で言いました。
お腹が空いていたC君は、引き寄せられるようにベンチに座りました。
男が差し出してきたのは、見たこともないほど大ぶりで、ツヤツヤと黒光りするタレが絡んだサテでした。
一口、齧ってみる。
「……っ! 美味い……!」
鶏肉とも牛肉とも違う、信じられないほど柔らかくてジューシーなお肉。噛むたびに、濃厚で官能的な甘みが口いっぱいに広がります。ジャワの伝統的な黒蜜の甘さの奥に、何か脳を麻痺させるような独特の風味が隠れていました。
C君は夢中で5本、10本と平らげていきました。
ふと、満腹になって落ち着いたとき、彼はあることに気づきました。
屋台の裸電球が、彼と店主を煌々と照らしています。
当然、地面には二人の影が伸びているはずでした。
店主の影は、足元から確かに伸びていました。
しかし、その影の形がおかしいのです。
人間の形をしていません。
まるで、さっき見たワヤン・クリの影絵人形のように、不自然に細長く関節が折れ曲がり、頭には尖った冠のようなものを被った『異形』の影。
しかもその影は、店主の動きとは全く無関係に、クネクネと嬉しそうに踊っていたのです。
(これは……人間じゃない……!)
ジャワの伝承にある、影に棲む精霊か、それとも人を惑わす魔物か。
恐怖のあまり固まるC君に、店主はゆっくりと顔を上げました。
電球の光に照らされたその顔には――目も、鼻も、口もありませんでした。のっぺらぼうの顔の皮膚が、影絵のスクリーンのように、ただ怪しく光っているだけ。
「美味いだろう? それはな……」
口がないはずの顔の『裏側』から、直接脳に響くような声が聞こえました。
「お前の『影』の肉だよ」
え? と思った瞬間、C君は自分の足元を見ました。
そこには、何もありませんでした。
街灯の光があるのに、自分の影が、どこにも映っていないのです。
視線を店主の影に戻すと、細長い影絵のような怪物が、C君の形をした「普通の影」を、手で引きちぎっては、むしゃむしゃと口に運んでいるところでした。
お肉を噛むたびに感じていたあの濃厚な甘みは、自分自身の存在が消えていく味だったのです。
C君は悲鳴を上げようとしましたが、声が出ません。影を喰われたことで、存在の半分を失いかけていたのです。
体が急速に軽くなり、意識が遠のいていく中、彼は必死の思いで、ポケットに入っていたお釣りの『コイン』を、店主の足元の「影」に向かって投げつけました。
チリン、と金属が地面を叩く音が響いた瞬間。
「……お客さん? お客さん、大丈夫ですか?」
強い光に目をあけると、そこは先ほどまでいた、賑やかな大通りのワルン(屋台)でした。
目の前には、現地の優しいおじさんが焼いてくれた、普通のサテ・アヤムが湯気を立てています。
「ひどくうなされていましたよ。熱中症かね?」
C君は自分が夢を見ていたのだと思い、ホッと胸をなでおろしました。
代金を払い、今度こそ急いでホテルに戻り、部屋の明かりをつけたとき。
彼は、鏡に映る自分を見て、息が止まりました。
彼の体は、確かにそこにあります。
部屋の照明に照らされて、床には影も伸びていました。
でも。
その影の『右腕』だけが。
まるで影絵人形のように、カクカクと不自然に細長く、奇妙な形にねじ曲がっていたそうです。
うふふ、いかがでしたか? 影の国、インドネシアのお話。
ジャワの夜に漂うサテの匂いは本当に魅惑的ですが、あまりに美味しそうな匂いに魂まで持って行かれないよう、気をつけてくださいね。
もし現地でサテを食べる時は、まず自分の足元を見て、影がちゃんと自分の動きと連動しているかチェックすること!
あ、それから、万が一のときのために、お財布に何枚か硬貨を残しておくのもお忘れなく。影の魔物は、金属の擦れる冷たい音が苦手みたいですから。
それでは、今夜はこのへんで。
お相手は、あなたの心のブックマーク、栞でした。
おやすみなさい。……あ、寝る前に部屋の電気を消すとき、壁に映る自分の影を、よーく見てみてくださいね?
もしかしたら、あなたの一歩後ろで、影だけが先に踊っているかもしれませんよ……?
(番組終了のジングル:ガムランの切ない音色と、ページをめくる音)
第3回、インドネシア・ジョグジャカルタ編でした!
伝統の影絵芝居「ワヤン・クリ」のビジュアルと、サテの美味しさを絡めてみましたが、ジャワの濃密な夜の空気は伝わりましたでしょうか?
さてさて、次はどんな不思議な土地へ旅をしましょう?
ヨーロッパの古城、あるいはアフリカの活気あふれる市場、はたまた南米の神秘的な遺跡……あなたの行きたい場所を、ぜひ教えてくださいね。




