帰り道②
ズボラ姉のヤバすぎる野生の勘
ビクッとして振り返ると、信号が青に変わった横断歩道を、ひとりの女子生徒が全速力でこちらに向かって走ってくる。
長い黒髪を振り乱し、制服のスカートを翻して。
千秋だ。
「えっ……千秋、先輩?」
雫が驚いたように目を丸くする。
俺は一瞬、頭の中が真っ白になった。
なぜここに千秋がいる? 今日は委員会があるから遅くなると言っていなかったか?
疑問を抱く間もなく、千秋は弾丸のようなスピードで俺たちの目の前に飛び込んできた。
「ハァッ……ハァッ……湊……っ!」
息を切らし、肩を上下させる千秋。
だが、その目は周囲の視線など一切気にしていないように、ギラギラとした鋭い光を放っていた。
そして次の瞬間、千秋は信じられない行動に出た。
ガシッ!!
「……っ!!?」
千秋は俺の腕に両手でしがみつき、そのまま俺の身体にピッタリと密着してきたのだ。
豊かな胸の感触が、腕にダイレクトに伝わってくる。
周囲の歩行者たちが「なんだあれ」「すげえ美人から抱きつかれてるぞ」と足を止めてざわめき始めた。
「お、おい! バカお前、外で何やって……!」
「湊ォ……っ!! 私を置いて、どこに行こうとしてたの……!!」
悲痛な声。まるで駆け落ちに失敗した恋人のようなトーンだ。
俺は慌てて千秋を引き剥がそうとしたが、腕の力は凄まじく、ビクともしない。
「離せ! 頭おかしくなったのか! 今日は委員会で遅くなるって……」
「委員長に土下座して帰ってきたの!! だって、湊が……湊が帰りに八百屋に寄るって言うから……っ!」
「はあ!? だからなんだよ!」
「今日特売のイチゴ……絶対買ってきてって朝頼んだのに、湊の顔見てたら絶対忘れるって直感したの! 私の野生の勘が警鐘を鳴らしたのよ!!」
……イチゴ。
たったそれだけのために、この女は周囲の視線を気にも留めず、委員会を投げ出して、全力疾走で俺に抱きついているというのか。
「お前……ふざけんな! 家でのノリを外に持ち出すな!!」
俺の怒声も虚しく、千秋は俺の腕に顔を擦り付け始めた。完全に家でコーラをねだる時と同じ『大型の甘え猫』モードだ。
「イチゴ……練乳たっぷりのイチゴ……! 湊が買ってくれなきゃ、おねえちゃん餓死するぅ……!」
「お前はフルーツひとつで餓死するほどヤワじゃねえだろ! 離れろ、みんな見てる!」
俺が必死に抵抗している横で、ポカンと口を開けたまま固まっていた雫が、ようやく我に返ったように声を震わせた。
「あ、あの……千秋、先輩……?」
その声に、千秋の動きがピタリと止まった。
ゆっくりと首を回し、俺の腕にしがみついたまま、雫の方を見る。
先ほどまでの甘ったれた顔が、一瞬にしてスッと温度を失うのがわかった。
「……あら」
千秋は、氷のような冷ややかな目で雫を見下ろした。
腕に絡みつく体温はそのままに、声色だけが『完璧な千秋さん』のトーンへと切り替わる。
「あなたは……湊のクラスメイトね。こんなところで、うちの弟と何か用かしら?」
圧倒的な威圧感。
雫は怯えたように一歩後ずさりし、俺と千秋を交互に見た。
「えっと……あの……帰る方向が同じで、たまたま……」
「そう。偶然なのね。でも残念だけど、湊はこれから私と一緒にスーパーに行かなくちゃいけないの。姉弟の大事な用事があるから」
「大……事な、用事……?」
雫が首を傾げる。
『特売のイチゴを買いに行く』という、果てしなくどうでもいい用事だとは言えない。
「ええ。だから、湊のことは私が引き取るわ。じゃあね」
千秋は強引に俺の腕を引っ張り、歩き出そうとした。
俺は慌てて踏ん張り、振り返って雫に叫んだ。
「あ、雫! ごめん、日曜の件、また明日学校で!」
「あっ、うん……! また明日ね、湊くん……!」
雫が小さく手を振るのを見届ける間もなく、俺は千秋にズルズルと引きずられるようにしてその場を離れた。
角を曲がって雫の姿が見えなくなった瞬間、俺は思い切り千秋の手を振り解いた。
「痛っ……なによ湊、ひどい!」
「お前がひどいんだよ!! なんなんだ今の態度は! あいつがビビってたじゃないか!」
「……べつに。あの子が勝手に湊に近寄ってくるのが悪いんじゃない。あの女、絶対に湊のこと狙ってる目をしてた」
「はあ!? お前な、そういう被害妄想……」
「被害妄想じゃない! 私の野生の勘は絶対なの! 湊は私のご飯を作って、私の面倒を見るために存在してるんだから、他の女にうつつを抜かしてる暇なんてないの!」
怒って頬を膨らませる千秋。
その理不尽極まりない所有欲に、俺は怒りを通り越して大きなため息をついた。
「……イチゴ、買うんだろ」
「えっ」
「特売のイチゴ。八百屋で買うんだろ。さっさと行くぞ」
俺が歩き出すと、千秋の表情が一瞬にしてパァッと明るくなった。
「本当!? 練乳も買ってくれる!?」
「お前が大人しく歩くならな。それと、二度と外であんな抱きつき方はするな。気持ち悪い」
「えー、あの子への牽制にちょうどよかったのに。凑は恥ずかしがり屋だねぇ」
ニコニコと笑いながら俺の隣に並んで歩く千秋。
さっきの氷のような視線も、雫への敵意も、イチゴへの執念の前では綺麗さっぱり消え去ったらしい。
俺は横を歩くこのポンコツ姉の顔を見ながら、心の中で雫に深く謝罪した。
……ごめん、雫。
日曜の勉強会は、多分この怪獣の妨害が入る気がする。
俺の平和な高校生活への道のりは、まだまだ遠く険しそうだ。
八百屋のタイムセールを告げる元気な声が、秋の夕暮れの空に虚しく響いていた。




