帰り道①
放課後のチャイムが鳴り終わるか終わらないかのタイミングで、俺は鞄を掴んで席を立った。
今日は寄り道をしている暇はない。冷蔵庫の野菜室が空に近づいているからだ。帰りに商店街の八百屋に寄って、キャベツと玉ねぎを補充しなければならない。
「湊、今日このあとゲーセン寄ってかない? 新作の格ゲー入ったらしいぜ」
「悪い、今日はパス。夕飯の買い出しがある」
誘ってきた翔太の言葉を遮り、足早に教室を出る。
「出たよ、主夫・湊! お前ほんと偉いよな。千秋さんみたいな美人の姉ちゃんが家で待ってると思うと、まっすぐ帰りたくなるのもわかるけどさ!」
「お前は一生黙ってろ」
背後から飛んでくる的外れな冷やかしを無視して階段を降りる。
家に帰ってあのズボラ怪獣の顔を見たいわけじゃない。ただ、俺が帰って餌を与えなければ、あいつは本気で餓死しかねないという切実な生存競争の問題なのだ。
下駄箱で靴を履き替え、昇降口を出たところで、見覚えのある背中を見つけた。
黒髪のボブカット。大人しそうな歩き方。
相川 雫だ。
「雫」
声をかけると、彼女はビクッと肩を揺らして振り返った。
「あ……湊くん。奇遇だね」
「一人で帰るのか? いつもの友達は」
「うん。今日、みんな日直とか委員会で残るみたいで」
はにかむような笑顔。午前の昼休みに見せた恥ずかしそうな表情を思い出して、俺は少しだけ言葉に詰まった。
だが、帰る方向が同じなのだ。無理に避ける理由もない。
「そうか。俺も今から帰るところだ。途中まで一緒に帰るか?」
「えっ……い、いいの?」
「同じ道だろ。それに、お前一人だとまた変な勧誘とかキャッチセールスに引っかかりそうで危なっかしいし」
俺が言うと、雫は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
中学の時、駅前で怪しいお札を買わされそうになっていた彼女を助けたのは俺だ。あれ以来、危機管理能力の低さは俺の中で要注意リストに入っている。
「う……あの時は、ほんとにごめんね。でも、最近はちゃんと断れるようになったよ!」
「はいはい。じゃ、行くぞ」
二人で並んで学校の坂道を下り始める。
秋の夕暮れは釣瓶落としで、すでに空はオレンジ色に染まりかけていた。少し冷たい風が吹き抜け、雫の柔らかな髪を揺らす。
隣を歩く彼女の歩幅は小さく、俺は無意識に歩く速度を落としていた。
「湊くん、今日の買い出しって……夕ご飯の材料?」
「ああ。冷蔵庫の中身がすっからかんでな。姉貴は料理どころか、スーパーの袋詰すらまともに出来ないから、俺がやるしかない」
「ええ……千秋先輩、お料理しないの? すっごく上手そうなイメージなんだけど」
「そのイメージ、今すぐ窓から投げ捨てろ。あいつに包丁持たせたら大惨事になる」
雫は「ふふっ」と小さく笑った。
「湊くんって、なんだかんだ文句言いながら、お姉さんのこと大事にしてるよね」
「してない。ただの義務感だ。放置したら生ゴミの中で朽ち果てそうだから、仕方なく世話をしてるだけだ」
「でも、私がスマホのこと聞いても嫌な顔しないで教えてくれるし……凑くんは、本当は優しいんだと思う」
上目遣いでこちらを見上げてくる雫の目に、俺は気恥ずかしさを感じて視線を逸らした。
こういう真っ直ぐな好意を向けられるのは慣れていない。普段、家で千秋から向けられるのは「飯!」「コーラ!」「肩揉んで!」という欲望剥き出しの要求ばかりだからだ。
「……別に、そんな大層なもんじゃない」
照れ隠しにぶっきらぼうに答えると、雫はクスッと笑って前を向いた。
しばらく無言で歩いていると、駅前の交差点に差し掛かった。ここを右に曲がれば商店街、まっすぐ行けば俺の家だ。
信号待ちをしている間、ふと視線を感じて横を見ると、雫が何やら言いたげな顔で俺を見つめていた。
「どうした?」
「あ、あのね。もし、よかったらなんだけど……」
雫が指を絡ませながら、もごもごと口を開く。
「……今度の日曜日、一緒に、勉強……しないかなって」
「勉強?」
「う、うん。私、来週の中間テスト、数学が本当にやばくて……。湊くん、教えるのうまいから、もし暇だったら……その……」
顔をリンゴのように赤くして、必死に言葉を紡ぐ雫。
これは、つまり……そういうことなのだろうか。ただの勉強会以上の意味が含まれている気がして、俺の心臓が少しだけドクンと跳ねた。
「……日曜、か。俺は別に構わないけど……」
俺が答えようとした、その瞬間だった。
「みーなーとーーーー!!!!」
交差点の向こう側から、空気を切り裂くような場違いな声が響き渡った。




