姉と買い物
休日の商店街は家族連れや買い物客で賑わい、あちこちから威勢の良い呼び込みの声が飛び交っている。
その雑踏の中を、俺の少し前を歩く千秋の姿は明らかに異彩を放っていた。
「湊、少し歩くのが遅いわよ。今日中に終わらせたい用事がまだあるの」
振り返る千秋の顔は、すっきりとまとめられた髪と上品なアイボリーのカーディガンのおかげで、完璧な『休日の清楚なお嬢様』だった。
すれ違う男たちが次々と振り返り、ひそひそと「すげえ美人」「モデルか?」と囁き合っている。
背筋は真っ直ぐに伸び、歩幅も均等。口調すらも家の中でのダラダラとした甘え声とは別人のように凛としている。
「わかってるよ。人が多いんだから仕方ないだろ」
「言い訳はいいから。早くスーパーに向かうわよ」
千秋はコツコツとヒールの低いパンプスを鳴らして歩き出した。
その後ろ姿を見つめながら、俺は心の中でため息をついた。
……いつもこのくらいしっかりしてくれたら、俺のストレスも半分で済むのにな。
家の中でのあのスライム状態が嘘のようだ。外の空気を吸った瞬間にスイッチが切り替わるこの防衛本能は、ある意味で才能なのかもしれない。
だが、その見事な擬態に騙されている周囲の人間を見ると、無性に居心地の悪さを感じるのも事実だった。
駅前の大型スーパーに到着すると、千秋は入り口に積まれたカゴを優雅な手つきで取り出し、俺に手渡した。
「さあ、今日の夕食の材料を揃えるわよ。冷蔵庫の余り物と合わせて無駄のないようにね」
「はいはい」
俺はカゴを受け取り、千秋の後をついて野菜売り場へと向かった。
キャベツ、玉ねぎ、豚肉。千秋は手際よく特売品を見定め、鮮度の良いものを次々とカゴに入れていく。その姿は本当に『頼れる姉』そのものだ。
「今日は野菜炒めでいいわね。栄養バランスも大事だもの」
「助かるよ。それなら俺も作るのが楽だし」
「ふふ、弟の健康管理は姉の務めだからね」
完璧な微笑み。通りすがりの主婦たちが「なんてしっかりしたお姉さんかしら」と感心したような視線を送ってくる。
俺は顔を引きつらせながら曖昧に頷くしかなかった。
順調に買い物が進み、このまま平穏に終わるかと思われたその時。
精肉売り場から乾物コーナーへと差し掛かったところで、千秋の足がピタリと止まった。
その視線の先にあるのは、特設コーナーに山積みにされたスナック菓子の数々。
新発売のポテトチップス、期間限定のチョコレート、大袋のクッキー。
千秋の瞳の奥に、獲物を狙うハンターのようなギラリとした光が宿るのを俺は見逃さなかった。
「……湊」
声のトーンが、ほんの少しだけ下がった。
「なんだよ。お菓子なら先週買ったストックがまだ……」
「カゴ、前に出しなさい」
千秋の動作は素早かった。
棚から期間限定のコンソメパンチ味を二袋掴み取ると、躊躇なく俺の持っているカゴに放り込んだ。さらに隣の棚からチョコレートのファミリーパックをふたつ、イチゴ味のビスケットを一箱。
「おい待て! 多すぎだろ!」
俺は慌ててカゴを引っ込めようとしたが、千秋はすかさず三袋目のポテトチップスを追加してきた。
「多くないわ。これは脳の疲労回復に必要な糖分と塩分の補給用備蓄よ」
「備蓄って、これじゃ三日も持たないだろ! だいたいお前、さっき『栄養バランスが大事』って言ったばかりじゃないか!」
「それは食事の話よ。お菓子は別腹の栄養素なの。それに、この期間限定フレーバーは今を逃したら二度と出会えないかもしれないのよ? 一期一会の精神を蔑ろにするの?」
「どんな精神構造だ。ダメだ、そんなに買ったら生活費が圧迫される。戻してこい」
俺はカゴからポテトチップスの袋を取り出そうとしたが、千秋はその手をガシッと押さえて阻止した。
周囲の客がチラチラとこちらを見ている。千秋は外向きの『完璧な美少女』の表情を保ちながら、声だけを限界まで低くして凄んできた。
「……戻さない。絶対に離さないわ」
「離せ。お前、家でどれだけお菓子食べてると思ってんだ。このままじゃ確実に太るぞ」
「太らないって言ってるでしょ! 基礎代謝が違うの! いいからカゴに入れさせて!」
力比べに発展しそうになったその時、俺は最終手段に出ることにした。
これ以上騒ぎを長引かせれば、千秋の『完璧な姉』のメッキが剥がれかねない。
「……わかった。そんなにお菓子が食べたいなら買えばいい」
「! 本当? さすが凑、話がわか――」
「その代わり、今日の夕飯から俺は一切手伝わない。お前のお菓子がなくなるまで、ご飯は作らないし、洗い物もしないからな」
「…………は?」
千秋の顔から、見事に表情が抜け落ちた。
「お前のその糖分と塩分があれば生きていけるんだろ? だったら俺が栄養バランス考えた飯を作る必要はない。勝手に自給自足の生活を楽しめ」
「ちょ、待って湊。それは極論すぎるわ。野菜炒めはどうなるの」
「野菜はお前が自分で切って炒めろ。俺は部屋に籠もる」
俺が冷たく言い放つと、明らかに狼狽している。
外では完璧だけど、家事能力に関しては致命的なまでにゼロだ。
包丁を持たせれば指を切る恐怖に震え、火を使えば焦げ付き確定。俺が作らないということは、千秋にとって『飢餓』を意味する。
「……わ、わかったわよ。じゃあ、ひとつだけ……」
「ダメだ。全部戻せ」
「冷酷! 悪魔! 血も涙もないの!?」
「夕飯抜きにされるのと、どっちがいいんだ」
千秋はポテトチップスの袋を握りしめたまま、数秒間ワナワナと震えていた。
周囲の客からの視線が痛い。早くこの不毛な争いを終わらせたい。
やがて、千秋はガクッと肩を落とし、敗北者のような顔でカゴからお菓子を取り出し始めた。
「……わかったわよ。戻せばいいんでしょ、戻せば」
恨めしそうな声で呟きながら、コンソメパンチ味を棚に戻す。
その手つきは、我が子と引き離される母親のように未練がましかった。
「ファミリーパックのチョコもだぞ」
「……鬼」
最後のビスケットの箱を棚に戻し終えた時、千秋は大きなため息をつき、俺をジロリと睨みつけた。
「これで満足? 私の心のオアシスは砂漠と化したわ」
「夕飯の後に、昨日買ったプリンが一個残ってたはずだから、それ食えばいいだろ」
「っ! ほんと!? 湊の分だったプリン、食べていいの!?」
先ほどまでの絶望が嘘のように、顔がパァッと明るくなった。
本当に現金なやつだ。外ではこんなにも大人びて見えるのに、中身は幼稚園児と大差ない。
「ああ。だからさっさとレジ行くぞ。これ以上恥をかく前に」
「ふふん、やっぱり湊は優しい弟ね! 今日は特別に、野菜のカットくらいは手伝ってあげようかしら!」
「お前が包丁持つと余計時間がかかるから座っててくれ……」
再び足取り軽く歩き出した千秋の後ろ姿を追いかけながら、俺は小さく息を吐き出した。
外でどれだけ取り繕おうと、やっぱりこの姉の正体は俺にしか扱いきれない。
重たいカゴの重みと一緒に、その厄介な事実を再確認させられた休日だった。




