甘える姉
夕食の洗い物を終えてリビングに戻ると、スマートフォンが短い振動とともに着信を知らせていた。
画面に表示された『父』の文字に、俺は軽く息を吸ってから通話ボタンをタップした。
「もしもし」
『おう湊か。時差の計算間違えてないよな、そっち夜の八時くらいだろ。元気でやってるか?』
「問題ないよ。こっちも慣れたし」
『そうかそうか。母さんもお前たちのこと心配してるぞ。千秋はどうだ? 相変わらずしっかりやってるか? お姉ちゃんの言うことちゃんと聞けよ』
スマートフォンを耳に当てたまま、俺の視線は自然とソファに向けられた。
そこには『しっかりやっている』はずの姉が、ジャージ姿で仰向けに転がっている。右足はソファの背もたれに引っ掛けられ、左手には開封されたポテトチップスの袋。テレビのクイズ番組を見ながら、口をぽかんと開けている。
どう見ても野生を失った動物園のパンダだ。
「……うん。姉貴は、外では立派にやってるよ。成績も落ちてないみたいだし」
『ははは、さすが千秋だな。お前も負けないように勉強しろよ。まあ帰国までは二人で助け合って頑張れ。困ったことがあったらいつでも連絡しろよ』
「わかってる。仕事、無理しないでな。母さんによろしく」
『おう、じゃあな』
通話が切れるツーツーという音を聞きながら、俺はスマートフォンの画面を見つめて大きなため息をついた。
両親が海外プロジェクトで家を空けてからもうすぐ一ヶ月。あの父親の呑気な声を聞くたびに、この悲惨な現実を報告すべきか迷うのだが、結局いつも言葉を飲み込んでしまう。
報告したところで遠く離れた海外から何ができるというのか。むしろ余計な心配をかけるだけだ。
「……電話終わった?」
ソファの方から間延びした声が聞こえた。
振り返ると、千秋がもそもそと身を起こしているところだった。髪はあちこち跳ね返り、口の端にはしっかりとポテトチップスの塩の結晶がこびりついている。
「ああ。父さんからだ。お前がしっかりやってるか心配してたぞ」
「ふーん。で、なんて答えたの?」
「外では立派にやってるって誤魔化しておいた。これ以上嘘を重ねさせないでくれ。少しは人間らしい生活態度を取り戻せ」
「みーなーとーのーうーそーつーきー」
千秋はポテトチップスの袋をローテーブルに放り投げると、のそのそとこちらに向かって歩いてきた。足元はふらふらしていて、完全に重力に負けている。
「嘘ついたのはお前の名誉を守るためだろ。なんだよその動き、ゾンビか」
「湊が冷たいからおねえちゃんのエネルギーが枯渇したの。充電、充電……」
言うが早いか、千秋は俺の胸元にドンッと体重を預けてきた。
咄嗟に両足で踏ん張って倒れるのを防ぐ。首元に腕を回され、俺の肩に千秋の頭が乗っかる形になった。
「重っ……! おい離れろ!」
「えーやだ。湊の匂い落ち着く。柔軟剤変えた? フローラルのいい匂いする」
「お前が勝手に買ってきたやつだろ。自分で洗剤くらい入れろ。じゃなくて、離れろって言ってんの!」
俺は千秋の肩を掴んで引き剥がそうとした。
だが、その瞬間に嫌でも『ある事実』を突きつけられる。
密着した胸元から伝わってくる、尋常ではない柔らかさと確かな質量。薄いジャージ越しでもごまかしきれない、圧倒的な存在感だ。
学校で「千秋さんはスタイルも神」と男子どもが騒いでいるのは知っている。知っているが、身内の、しかも姉のソレをダイレクトに感じるのは完全に別の話だ。
脳の処理速度が一瞬だけバグを起こす。血の気がサーッと引くのと同時に、変な汗が背中を伝うのがわかった。
「……ッ!!」
俺は反射的に千秋の肩を強く押し返し、バッと数歩後ずさった。
あまりの勢いに、千秋は「きゃっ」と短い声を上げてバランスを崩し、その場にぺたりと座り込んだ。
「いっ……なにするのよ湊! 急に突き飛ばすなんてひどい!」
「おっ、お前が急にくっついてくるからだろ! いい加減にしろ、高校生の自覚を持て!」
「なによそれ! 弟に甘えるお姉ちゃんは全国共通で正義でしょ!? 私が外でどれだけ頑張っていい子にしてると思ってるの! 家でくらい湊に抱きついたって減るもんじゃないじゃん!」
「減る減らないの問題じゃない! 距離感がおかしいんだよお前は!」
俺は顔から火が出そうになるのを必死に堪えながら怒鳴り返した。
だが千秋は床に座り込んだまま、下唇を噛んで俺を睨みつけてくる。乱れた髪の間から覗くその目は、学校で見せる冷徹な氷の視線とは全く違う、ひたすらに拗ねた子どものような目だ。
「……湊のばか」
「は?」
「ばか。私のことなんてどうせ重荷で面倒な干物女だと思ってるんでしょ。学校の連中みたいに『完璧な千秋さん』じゃないと優しくしてくれないんだ。ひどい弟」
急にそんな湿っぽいトーンで言われると、こちらのペースが完全に狂う。
本当に厄介な生き物だ。自分が悪いのに被害者ぶる天才か。
「……誰もそんなこと言ってないだろ」
「思ってる。目がそう言ってる。さっきだって汚いもの見るみたいな顔で突き飛ばした」
「突き飛ばしたのはお前の……その……密着度が高すぎたからだ。勘違いするな」
俺は気まずさを誤魔化すように後頭部を掻いた。千秋は床に座ったまま、まだジト目でこちらを見上げている。
上目遣いで見られると、どうしても顔の造形の良さが際立ってしまって調子が狂う。
「……ごめん。強く押しすぎた」
結局、折れるのはいつも俺の方だ。
ため息をつきながら千秋の前にしゃがみ込み、差し出した右手を振る。
「立て。床に座ってると冷えるぞ」
千秋は俺の差し出した手をじっと見つめた後、ふいっと顔を背けた。
「……立たない」
「おい」
「立たない。湊が引っ張り上げてくれないと一生ここに根を張って生きていく」
「植物かお前は」
「ひっぱって。はやく」
全く可愛げのない命令形。なのにその声にはどうしようもない甘ったるさが混じっている。
俺はもう一度深いため息をつき、顔を背けている千秋の腕を強引に掴んで立ち上がらせた。
引っ張り上げられた勢いで、千秋はまた俺の胸に軽くぶつかる。今度はすぐに距離を取るかと思いきや、そのまま俺の服の裾をギュッと握りしめた。
「……今日は数学、一時間延長だから」
「なんだよその罰ゲーム」
「罰じゃない。おねえちゃんからの特別個人レッスン。突き飛ばした慰謝料として湊の脳髄に微分積分を叩き込んであげる」
「お前の教え方、感覚的すぎて意味不明なんだよ……」
千秋は服の裾を握ったまま、ふにゃりとだらしない笑顔を浮かべた。
さっきまでの拗ねた態度はどこへやら、完全にいつものズボラ姉に戻っている。
「じゃ、お風呂入れてきて! 入浴剤はラベンダーのやつね!」
「はいはい」
弾むような足取りでリビングを出て行く千秋の背中を見送りながら、俺はその場にどっと崩れ落ちそうになった。
心臓がいまだに妙なリズムを刻んでいる。
あんな密着事故、海外にいる親に報告なんてできるわけがない。
いや、むしろ先ほどの電話で「実は姉が家では野生を失った巨大な幼児と化しています。あと発育が良すぎて弟の精神衛生に悪影響です」と全てを包み隠さず告発すべきだったのではないか。
そうすれば父さんも少しは真剣に、この家の惨状に向き合ってくれたかもしれないのに。
だがもう手遅れだ。
俺は残されたポテトチップスの袋を片付けながら、重い足取りで風呂場へと向かった。
この異常な日常は、両親が帰ってくるまで、いやもしかしたらそれ以降もずっと続いていくのだ。
そう思うと、風呂掃除用のスポンジを握る手に少しだけ余計な力が入った。




