雫と宿題
夏休みの過酷な労働(姉の世話)と熱波に耐えながら数日が経過した。
俺の部屋の机の端には、片付けられた夏休みの課題プリントの山が着実に高くなっている。
残るは数学の厄介な応用問題と、少しの英語の長文読解だけだ。
「よし、ここまで来たらあとは一息だな」
俺はペンを置き、大きく背伸びをした。
スマホの画面をタップして時間を確認する。午前十時。
昨日、千秋は深夜まで映画のDVDを見ながらポテチを貪っていたため、今頃はまだ自室のベッドで死体のように眠りこけているはずだ。
「……チャンスだ」
俺はスマホのメッセージアプリを開き、相川雫のアイコンをタップした。
『おはよう。宿題、まだ残ってるなら今日一緒にやらないか? 駅前のファミレスでどうだ?』
少し唐突だったかもしれないと思いながら送信ボタンを押す。
だが、数秒も経たないうちに「既読」がつき、ポポンと軽快な通知音が鳴った。
『おはよう! 誘ってくれてありがとう! 私も数学の応用が全然わからなくて困ってたところなの。一緒に行きたいです!』
『何時頃がいいかな?』
文面からでも伝わってくる素直な嬉しさに、俺の口元が自然と緩む。
『俺はいつでも大丈夫だけど、十一時に駅前の時計台の下で待ち合わせでどう?』
『わかった! 準備して向かいます!』
よし。
俺は小さくガッツポーズを決め、音を立てないようにクローゼットから外出着を引っ張り出した。
シンプルな白のTシャツに黒のハーフパンツ。変に気合を入れすぎるのもおかしいが、だらしない格好で会うわけにはいかない。
準備を整え、リュックに課題の束と筆記用具を詰め込む。
ドアノブに手をかけ、そっと回す。
廊下は静まり返っていた。千秋の部屋のドアはしっかりと閉ざされている。耳を澄ませても、いびきすら聞こえてこない。完全に熟睡している。
「……完璧だ」
抜き足差し足で階段を降りる。スパイ映画の主人公になった気分だ。
玄関でスニーカーを履き、鍵を閉める時の金属音にすら細心の注意を払い、俺は無事に家から脱出することに成功した。
「……ふぅっ!」
外に出た瞬間、灼熱の太陽が容赦なく降り注いできたが、今の俺にはそれすらも自由の輝きに思えた。
背後から「みーなーとぉー」という呪いの声が追いかけてこない。それだけで、足取りが羽根のように軽い。
駅前の時計台の下。
十一時の少し前に到着すると、そこにはすでに雫の姿があった。
「あ……湊くん!」
こちらに気づいた雫が、小走りで駆け寄ってくる。
薄いブルーの涼しげなノースリーブのワンピース。白いカーディガンを羽織り、少しだけ日焼けした素肌が眩しい。いつも学校で見ている制服姿とは違う、私服の可愛らしさに俺は少しだけドギマギしてしまった。
「早いな。待たせたか?」
「ううん、私もちょうど着いたところだよ」
はにかむように笑う雫。
その笑顔を見て、俺の心の中に溜まっていた千秋の理不尽な毒素がスーッと浄化されていくのを感じた。
「じゃあ、ファミレス行くか。すぐそこの角曲がったところだから」
「うんっ!」
二人で並んで歩き出す。肩が触れ合いそうな距離。
これだ。これこそが健全な高校生の夏休みの姿だ。クーラーの効いた部屋でだらしなく寝転がる姉の足を避けて通るだけの日常から、ようやく抜け出せたのだ。
ファミレスに入ると、涼しい冷気が俺たちを包み込んだ。
平日の昼前ということもあり、店内は比較的空いていた。奥の四人掛けのボックス席に案内され、向かい合って座る。
ドリンクバーで適当な飲み物を確保し、机の上にプリントを広げた。
「えっと……この確率の応用問題なんだけど、ここからどう展開すればいいのかわからなくて……」
「ああ、それか。これは先に条件を整理したほうがいい。ほら、こっちの式を使って……」
雫のノートに軽く線を弾きながら解説していく。
俺の部屋でやっている時のあの絶望的なスローペースが嘘のように、問題がサクサクと解けていく。
「あ……! そっか、ここで代入すればよかったんだ! すごい、湊くん教えるの上手!」
「そうか? 雫の理解が早いだけだと思うけど」
「ううん、学校の先生より全然わかりやすいよ。私、湊くんのおかげで赤点回避できそう……」
パァッと明るい顔をして感謝を伝えてくる雫。
家では「マヨネーズ少ない!」「コーラ買ってこい!」と暴君のように振る舞う姉とは大違いだ。
誰かの役に立ち、純粋に感謝されることがこんなにも心地よいものだとは。
「俺の方こそ、雫とやってるおかげでかなり進んだよ。家だと集中できなくてさ」
「ふふっ、よかった。お互い様だね」
時折ドリンクバーでおかわりを取りに行きつつ、雑談を交えながら宿題を進める。
あっという間に時間が過ぎ、気がつけば時計の針は午後三時を回ろうとしていた。
「よし……これで俺の分の数学は終わりだ」
最後のプリントに答えを書き込み、シャーペンを置く。
「私も……! わぁ、本当に終わっちゃった。湊くん、今日は本当にありがとう!」
「いや、俺の方こそありがとう。おかげで捗ったよ。一人だったら多分まだ半分も終わってなかった」
大きく伸びをして、俺は冷たくなったアイスコーヒーを飲み干した。
完全な達成感。
夏休みの宿題を早々に終わらせたという事実と、雫と過ごせたこの数時間が、俺の夏休みの満足度を最高潮に引き上げていた。
「湊くん、この後どうする? もしまだ時間があるなら……」
雫が少しだけもじもじとしながら、上目遣いで聞いてきた。
「えっと、駅の向こう側に新しくできたクレープ屋さん……一緒に行かないかなって」
クレープ。
俺たちのような男子高校生には少しハードルが高い場所だが、誘いを断る理由などどこにもない。
それに家に帰ればきっと、起きてきた千秋が腹を空かせてリビングを徘徊しているはずだ。帰還は少しでも遅らせた方が身のためである。
「俺は全然平気だぞ。甘いもの最近食べてなかったし」
「ほんと!? よかったぁ……一人で入るの、ちょっと恥ずかしくて。湊くんと一緒なら安心だよ」
嬉しそうに鞄にノートをしまう雫の姿を見ながら、俺は今日の自分の完璧な行動に酔いしれていた。
千秋の監視を抜け出し、雫と宿題を終わらせ、さらにクレープ屋で寄り道。
俺の夏休みは、今、まさに輝きの頂点に達している。
だが、この時の俺はまだ気づいていなかった。
世界は残酷で、運命はいつだって理不尽に満ちているということに。
――ピリリリリリッ!
ファミレスを出て駅の方へ歩き出した矢先、俺のズボラのポケットでスマホが甲高く鳴り響いた。
「え?」
画面に表示された文字を見て、俺の心臓は一瞬で氷点下まで凍りついた。
『着信:悪魔(姉)』
しまった。家を出る時、置き手紙すら残してこなかった。
昼の三時。奴が目を覚まし、家の中に俺がいないことに気づく最悪のタイミングだ。
「……湊くん? どうしたの?」
怪訝そうに覗き込んでくる雫の顔と、鳴り止まないスマホのバイブレーション。
俺の黄金のサマーバケーションは、たった数時間で終わりを告げようとしていた。




