夏休みの始まり
体育館の蒸し風呂のような熱気の中で行われた終業式が終わり、教室に戻った俺たちはようやく真の解放感を味わっていた。
黒板には誰が書いたのか『祝! 夏休み!』という巨大な文字が踊り、女子たちは放課後のカラオケや週末の海の話で盛り上がっている。
「いやーっ! ついにこの日が来たぜ!! 俺の黄金のサマーバケーションが幕を開ける!」
翔太が机の上に立ち上がりそうな勢いで両腕を突き上げている。
「お前は明日からファミレスのバイトだろうが。黄金どころか油まみれだろ」
「うるせえ! 労働の汗の後に飲む炭酸の美味さをお前は知らねえんだ! 終わったら絶対海行って水着のねーちゃんたちをナンパしてやる!」
「その前に課題終わらせろよ。プリントまだ半分も終わってないだろ」
「うぐっ」
俺が容赦なく現実を突きつけると、翔太は胸を押さえて大袈裟に崩れ落ちた。
かくいう俺自身も、図書室での数回の勉強会のおかげでそれなりに量は減らせたものの、まだ数学の応用問題や読書感想文というヘビーな山が残っている。
家にいるあのズボラ怪獣の相手をしながらこれらをこなさなければならないと思うと、少しだけ気が重い。
「凑くん、翔太くん」
騒ぐ翔太を放置して荷物をまとめていると、前の席から雫が振り返った。
その顔には、夏休みの解放感とは少し違う、どこかソワソワとした期待の色が浮かんでいる。
「相川さん! 今からカラオケ行く!? 俺の美声聴きたいだろ!」
「えっと、翔太くんは今日からバイトだよね? 頑張ってね」
「ぐふっ……相川さんの笑顔が眩しい……行ってきます」
雫のふんわりとした笑顔による完璧なスルーに、翔太はフラフラしながら教室を出ていった。あのバカの回復力はゴキブリ並みだ。
翔太が去った後、雫は俺の方に向き直り、鞄の紐をギュッと両手で握りしめた。
「湊くんは夏休み、お姉さんのお手伝いで忙しいかな?」
「いや……手伝いっていうか、あいつは基本的に家で溶けてるだけだからな。俺がご飯作って家事してるようなもんだし。忙しいっちゃ忙しいけど、時間はどうにでもなるよ」
「そっか。……あのね、湊くん」
雫は少しだけ上目遣いになり、頬をほんのりとピンク色に染めながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「もし……夏休み中に暇な日があったら……また、一緒に宿題やらないかなって思って。私、数学の応用問題がどうしてもわからなくて……湊くんに教えてもらいたいなって」
その言葉に、俺の心臓がトクンと大きく跳ねた。
図書室の勉強会はあくまで学校の延長だった。だが、夏休み中に会うということは、つまり『プライベートな約束』だ。
私服で会って、カフェかどこかで勉強して、もしかしたらその後一緒にどこかへ寄ったりして……
脳内で急速に広がる青春のシミュレーションに、俺の顔も少し熱くなるのを感じた。
「お、俺でよければ、全然教えるよ。どうせ家にいても姉貴にコキ使われるだけだし、外に出る口実ができるのはこっちも助かる」
「ほんと!? よかったぁ……! 湊くんに断られちゃったら、私、一人で応用問題と格闘して夏休み終わっちゃうところだったから」
「大袈裟だな。じゃあ、また近いうちに連絡するよ」
「うんっ! 待ってるね、湊くん!」
パァッと花が咲いたような雫の笑顔。
これだ。俺が求めていた高校生の夏休みはここにあったのだ。
家にいる『隙のないクールビューティー(大嘘)』では絶対に摂取できない、清涼感と癒しのマイナスイオン。
「……じゃあ、気をつけて帰れよ」
「湊くんもね! バイバイ!」
手を振って教室を出ていく雫の後ろ姿を見送りながら、俺は心の中で静かにガッツポーズを決めた。
今年の夏は違う。
毎日エサを与え、風呂でアニソンを歌わされ、ホラーゲームに怯える姉のクッション代わりにされるだけの奴隷生活から脱却し、相川雫というオアシスと共に爽やかな青春を謳歌するのだ。
そんな決意を胸に鞄を肩に掛け、教室を出ようとした――その時だった。
「――なんだか、随分と嬉しそうね。湊」
「うおっ!?」
教室の開け放たれた前のドア。
その死角になっていた壁際に、いつからそこにいたのか、千秋が腕を組んで立っていた。
窓から差し込む夏の強い陽射しを背に受けながら、その表情は絶対零度の氷のようだった。
「ち、千秋……お前、なんでここに……っ」
「一学期最後のホームルームが終わるのを待っていたの。弟と一緒に帰ろうと思って」
嘘だ。その冷たく細められた目と、僅かにピクピクと引きつっているこめかみが、さっきの俺と雫の会話を最初から最後まで聞いていたことを如実に物語っている。
「いや、俺は今日寄り道して帰るから……」
「ダメよ」
千秋は一歩、俺の方へ踏み出した。
「夏休みはね、湊。家族の絆を深めるための大切な期間なの。お姉ちゃんは、湊にこの一ヶ月のスケジュールをみっちり立ててあげようと思ってね。もちろん、私のサポート中心のスケジュールだけど」
「なんで俺がお前のサポート中心の生活送らなきゃならないんだよ! 俺にだってプライベートの予定がある!」
「……プライベートの予定って。さっきの『相川さん』との予定のこと?」
声のトーンがさらに一段階下がった。
図書室の時以上の強烈な威圧感。完全に地雷を踏み抜いた。
「別にいいだろ! 勉強教えるだけだ!」
「私には教えてくれないのに?」
「お前は教えてもどうせ途中でポテチ食わせろって言うだろ!」
「今回は言わない! 頑張る! だから他の女に勉強教えに行くなぁっ!」
ついに千秋が『クールな姉』の仮面をかなぐり捨て、廊下の真ん中で俺の腕にしがみついてきた。
「ちょっ、お前バカ! 外でそれやるな! まだ他のクラスのやつ残ってるだろ!」
「嫌だ嫌だ嫌だ! 湊の夏休みは全部私のものだもん! そうだ、合宿! 家で二人だけの地獄の強化合宿しよう! クーラーガンガンに効かせた部屋で一歩も出ないの!」
「お前が動きたくないだけだろ! 離れろ!」
廊下を通りかかった別のクラスの男子が「えっ、千秋先輩……?」と目玉をこぼしそうな顔でこちらを見ている。
俺は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、腕に絡みつくスライム状の姉を引き剥がそうと必死にもがいた。
「湊、私を見捨てないでぇ……っ! お昼は毎日そうめん茹でてぇ……っ!」
「そうめん茹でるのくらい自分でやれぇ!!」
俺の輝かしい青春のサマーバケーションは、始まる前からすでに、このズボラ怪獣の理不尽な独占欲という名の黒雲にすっぽりと覆い隠されようとしていた。
セミの鳴き声が、俺の絶望を煽るように激しく響き続けていた。




