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学校一の『氷の美少女』な姉は、家だと限界ポンコツ甘えん坊です  作者: 功刀


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夏休みの宿題

 蒸し暑い空気が教室に澱んでいる。窓の外では早くも気の早い蝉が数匹、命を燃やすように鳴き始めていた。


「いいかお前ら、来週からいよいよ夏休みだが、浮かれるなよ。この一ヶ月の過ごし方で二学期以降の成績が決定すると思え。配られた課題プリントの束は決して無きものにはならないからな」


 担任の説教臭い言葉と同時に、机の上にドサリと置かれたプリントの分厚さに、教室中のあちこちから絶望のうめき声が漏れた。

 俺も例外ではない。この紙の束を一枚一枚処理していく未来を想像するだけで、夏休みの輝きが三割ほど減衰していく気がした。


 ホームルームが終わり、解放感と絶望感が入り混じった休み時間が始まる。

 さっそく隣の席から、翔太が机に突っ伏したまま恨み言を漏らしてきた。


「なぁ湊……これマジで全部やんの? 拷問じゃん。俺の輝かしいサマーバケーションが数式と古文単語に塗り潰される」

「やらないと休み明けの地獄が待ってるだけだろ。諦めろ」

「お前はほんとドライだなあ! 家に帰れば千秋さんっていうご褒美があるから頑張れるんだろうけどさ!」

「そのご褒美は毎日マヨネーズ多めの飯を要求してくる上、休日は昼まで起きない。俺にとっての課題の八割はあの女の世話だ」

「でた、身内の贅沢な愚痴! あーあ、誰か俺の代わりに宿題やってくれる心優しい美少女いないかなー」


 翔太が天を仰いでアホな妄想を垂れ流していると、前の席から控えめに振り返ったのは相川雫だった。


「あ、あの……ちょっといいかな?」

「おっ、相川さん! どうした? もしかして俺のプリントやってくれるとか!?」

「う、ううん。そうじゃなくて……」


 翔太の食い気味の期待を苦笑いでかわし、雫は少し恥ずかしそうに言葉を紡いだ。


「もしよかったらなんだけど……夏休みに入る前に、放課後少しだけ残って、図書室で一緒に宿題進めないかなって思って。一人だと絶対サボっちゃうから」


 その提案に、俺は思わず目を見開いた。

 相川からの誘い。しかも図書室で勉強会。

 先週、千秋の妨害によって粉砕されたあの夢のシチュエーションが、思いがけない形で再び舞い込んできたのだ。


「俺は賛成だ。家に持ち帰っても集中できないからな」

「あっ、湊くん行ってくれるんだ! 嬉しいな」


 雫の顔がパァッと明るくなる。その純粋な笑顔を見るだけで、プリントの分厚さがどうでもよくなるくらいには、俺の心は救われていた。


「マジか! 俺も行きてえ! 相川さんと図書室で青春の1ページ刻みてえ!」

「お前は声がでかいから図書室出禁だろ。それにバイトのシフト入ってるとか言ってなかったか?」


 俺が冷静に突っ込むと、翔太はハッとして自分のスマホのスケジュールを確認し、そのまま机に突っ伏した。


「……今日からファミレスの魔の三連勤だったわ……。俺の青春……」

「お疲れ。稼いだ金で休み明けに購買のパン奢れよ」

「鬼! 悪魔!」


 嘆く翔太を放置して、俺は雫に向き直った。


「じゃあ、放課後に図書室で。よろしくな」

「うんっ! よろしくね、湊くん」


 嬉しそうに微笑む雫を見て、俺の胸の中に小さな期待が膨らむ。

 放課後の図書室。静かな空間。二人きりの勉強会。

 これこそが高校生の正しい青春だ。家に帰って怪獣の餌付けをするだけの日常からの、ささやかな逃避行。


 ……待てよ。千秋の奴、今日も図書委員の当番だとか言ってなかったか?


 いや、さすがに広い図書室だ。隅っこの席でひっそりとプリントをこなすだけなら、あの独占欲の塊に見つかるリスクは低いだろう。

 それに、俺だって自分の高校生活を楽しむ権利がある。姉の機嫌ばかり窺って生きるなんてごめんだ。


「……よし」


 心の中で小さなガッツポーズを決め、俺は午後の授業を乗り切るためのモチベーションを密かに燃やし始めた。


 そして、放課後。

 西日が差し込む図書室は、テスト期間が終わった直後ということもあり、数人の生徒が疎らに座っているだけで静まり返っていた。


「ここ、涼しくていいよね」

「ああ。クーラーが一番効いてる奥の席にしよう」


 俺と雫は窓際から少し離れた、静かな奥のテーブル席に向かい合って座った。

 鞄から真新しいプリントの束と筆記用具を取り出す。

 向かいの席では、雫が丁寧にシャーペンの芯を出している。その小さな動作のひとつひとつが、なぜか少しだけ新鮮に見えた。


「じゃあ、数学からやろうかな。湊くん、わからないところあったら教えてくれる?」

「俺でわかる範囲ならな」


 そう言って問題に向き合い始めた。

 クーラーの微かな機械音と、時折響くページをめくる音。

 翔太の騒がしさも、家で寝転がる千秋の「麦茶ー!」という叫び声もない、完璧な平穏がそこにあった。


 三十分ほどが経過した頃だろうか。

 俺が数式の展開に行き詰まってシャーペンを止めた時、雫が小さな声で話しかけてきた。


「……凑くん」

「ん、どうした? どこかわからない問題あったか?」

「ううん、違うの。あのね……」


 雫は手元のプリントから目を離し、少しだけ躊躇うように上目遣いで俺を見た。


「湊くんとこうして静かに勉強してるの、なんだか……落ち着くね」

「そ、そうか? 別に俺は普通に問題解いてるだけだけど」

「うん。湊くんはいつも静かだし、一緒にいても急かされないっていうか……。私のペースに合わせてもらえてる気がして」


 頬を少し朱に染めながら、恥ずかしそうに微笑む雫。

 その素直な言葉に、俺の心臓が急にリズムを乱した。

 なんだこの甘酸っぱい空気。これが青春か。今まで縁がなさすぎて免疫がない。


「……俺の方こそ、助かってるよ。家に帰ったら騒がしいのがいるから、こうやって静かな時間があるのはありがたいし」

「ふふっ」


 俺が照れ隠しに目を逸らしながら答えると、雫は小さく笑った。


「そっか。でも、私は湊くんのお姉さん、やっぱりすごいと思うな。美人で、頭も良くて……今日だって図書カウンターでキビキビ働いてたし」

「えっ」


 俺は弾かれたように顔を上げた。


「千秋、今日カウンターにいたのか?」

「うん。私たちが入ってきた時、貸出の処理してたよ。すごく手際よくてかっこよかった……」


 全身の毛穴がキュッと締まるような嫌な予感が走った。

 入ってきた時に、いた?

 つまり、俺と雫が二人で図書室に入ってきて、奥の席に並んで座ったのを……あのズボラ怪獣は完全に視認していたということか。


「い、いや待て。あいつ、俺たちに気づいてたか?」

「どうだろう。忙しそうだったから声はかけなかったけど……でも、私たちのこと見てたような気はするかな」


 その瞬間、図書室の静かな空気が、俺の背後で急激に冷え込んだような気がした。

 まるでホラーゲームの敵が背後にスポーンした時のあの感覚。


「――奇遇ね。こんなところで勉強会かしら」


 頭上から降ってきたのは、氷結魔法でもかけられたかのように冷たく低い声だった。

 首の関節が軋むような感覚を覚えながら振り返る。

 そこには、図書委員の腕章をつけ、貸出用の返却本を何冊も胸に抱えた千秋が、文字通り見下ろすように立っていた。


「ち、千秋先輩……お疲れ様です」


 雫が慌てて立ち上がろうとするのを、千秋は目で制した。


「座ったままでいいわ。図書室ではお静かにね。……湊」

「……なんだよ」

「今日、放課後はまっすぐ帰るって言ってなかったかしら。冷蔵庫の豚肉、今日中に使わないと傷むわよ」


 声はあくまで静か。だが、その底に流れる『私の許可なく他の女とイチャついてんじゃないわよ』という凄まじい威圧感が、痛いほど俺に突き刺さってくる。


「……宿題進めるだけだ。一時間くらいで帰るから、豚肉くらい待てるだろ」

「あら、随分と熱心なのね。家ではあんなにダラダラしているのに、相川さんが一緒だとやる気が出るのかしら」


 嫌味の刃が鋭すぎる。家でダラダラしているのはお前だろうが、と叫びたい衝動を必死に抑え込む。ここで反論すれば、雫の前でどんな惨状を引き起こすかわからない。


 千秋は抱えていた本のうちの一冊、分厚い哲学書をドンッと俺の机の上に置いた。


「これ。私が返却棚に戻す予定の本。ちょうどこの列だから、ついでに戻しておいて。私、あっちのカウンターが忙しいから」

「はあ? 委員の仕事だろ、自分でやれよ」

「図書委員の権限で命じているの。弟なら手伝いなさい。……それとも、相川さんの前だからってかっこつけたいのかしら?」


 千秋の目が細められる。

 絶対に引かないという意志が、その冷たい瞳に宿っていた。


「……わかったよ。戻せばいいんだろ」

「ええ。よろしくね」


 千秋はヒールのないローファーを静かに鳴らしながら、悠然とカウンターの方へ戻っていった。

 その後ろ姿を見送る俺の横で、雫が心配そうに小首を傾げた。


「湊くん、大丈夫? お姉さん、なんだか怒ってたみたいだけど……私、邪魔しちゃったかな」

「違う違う。あいつがただ面倒くさいだけだ。雫は何も気にするな」


 俺はため息をつきながら、分厚い哲学書を手に取った。

 まったく、どこまでも邪魔をしてくる怪獣だ。

 この平穏な青春の1ページが、どうしてこんなにも困難に満ちているのか。


「……少しだけ待ってて。これ、棚に戻してくる」

「うん、待ってるね」


 俺は席を立ち、指定された書架の列へと向かった。

 本を隙間に押し込みながら、今日このあとの展開を予測する。

 家に帰ったら、また『相川とデレデレしてた』と泣きつかれるのか、それともポテチの要求量が倍になるのか。

 どっちにしても、俺の平穏な夏休みへの道は、まだまだ遠そうだった。

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