姉とホラーゲーム
深夜0時。
部屋の電気は消してあり、壁掛け時計の秒針の音とコントローラーのボタンを弾くカチャカチャという音だけが響いている。
モニターの青白い光に照らされた画面の中では、血塗れの洋館を探索する主人公がショットガンを構えていた。
「よし、ここを抜ければセーブポイントだ……」
明日の日曜の予定、すなわち雫との勉強会が消滅した今、俺に失うものは何もない。
今日はこのまま徹夜で積んでいたホラーゲームを一気にクリアしてやるつもりだった。
そんな静寂と集中に包まれた自室のドアが、ノックの音すらなくガチャリと無遠慮に開かれた。
「みーなーとー」
「……」
「まだ起きてるー? おねえちゃん来たよー」
振り返らなくてもわかる。だらしないスウェット姿のまま、枕を抱き抱えたズボラ怪獣の襲来だ。
俺は画面から目を離さず、コントローラーを握ったままため息をついた。
「用がないなら寝ろ。俺は忙しいんだ」
「用なんてないよ。ただ湊と同じ空気を吸っていたいだけ。同じ空間で二酸化炭素を共有するの」
「観葉植物のほうがまだマシな理由だな。邪魔だけはするなよ」
呆れつつ無視を決め込む。すると、背後のベッドがギシッと軋む音がした。どうやら俺のベッドに我が物顔で潜り込んだらしい。
画面の中では、洋館の暗い廊下をジリジリと進んでいる最中だ。いつどこからクリーチャーが飛び出してくるかわからない、ヒリヒリするような緊張感。
ドンッ!!
突然、ゲーム内の窓ガラスをぶち破って、腐肉を纏った犬型の化け物が飛び出してきた。
「うおっ!?」
「ひぃやあああっ!!?」
俺の声に重なるように、背後から鼓膜を突き破らんばかりの悲鳴が上がった。
ビクッとして振り返ると、ベッドの上で布団を頭まですっぽりと被り、ガタガタと震えている不審な塊がある。
「おい……お前、今の悲鳴のほうがよっぽどホラーだぞ。近所迷惑になるだろ」
「だ、だって……! 今のっ、急にバンって! 窓から血だらけのワンちゃんが……っ!!」
「バイ〇ハザード的な世界観でワンちゃんなんて可愛いもんじゃない。立派なクリーチャーだ」
「もうやだ! 湊、それやめて! 違うゲームにしてよ! マ〇オとか! カー〇ィとか、もっと丸くてピンクで平和なやつあるでしょ!」
布団の隙間から涙目の千秋が顔を覗かせて抗議してくる。だが、ここでゲームを変えるわけにはいかない。
「却下だ。明日予定がなくなったからな。どうせなら今日か明日中にこいつをクリアしてエンディングまで見たいんだよ。あと少しでボスの部屋なんだ」
「やだやだ! 心臓が持たない! そんなの見てたら夜一人でトイレに行けなくなる!」
「だったら見なきゃいいだろ。自分の部屋に戻って寝ろ」
至極真っ当な解決策を提示したつもりだった。
ゲームをやめる気はない。怖いのならこの部屋から退出すればいい。完璧な論理だ。
だが、この姉の思考回路に論理という言葉は存在しない。
「……部屋に戻るのは、やだ。一人になるの、もっと怖い……」
モゾモゾと布団から這い出してきた千秋は、ベッドから降りると、床に座ってゲームをしている俺の背中にぴたりと張り付いてきた。
両腕を俺の首に回し、顎を俺の右肩に乗せる。その状態で、なぜかモニターを薄目で凝視しているのだ。
「お前なぁ……怖いなら見るなって言ってるだろ」
「見ないのも怖いの! 音だけで想像するほうが何倍も怖いじゃない! だから湊の体温で心の平穏を保ちつつ、薄目で状況を把握するのが一番安全なプレイスタイルなの!」
「プレイスタイルってなんだよ。ただの重りじゃないか。肩に温かい生肉乗せながらホラーゲームやる俺の身にもなれ」
「ひどい! おねえちゃんを生肉扱いした! ……あっ、ちょっと待って右! 右のドアの隙間からなんか呻き声聞こえない!?」
耳元でギャーギャー騒ぐ千秋のせいで、本来のホラー要素とは全く別の恐怖と疲労が蓄積していく。
ただでさえ背中に密着されると、柔らかな質量やら甘いシャンプーの匂いやらで意識が引っ張られるのだ。画面のゾンビより背後の姉のほうがある意味でよっぽどタチが悪い。
それでも、俺は無心になってコントローラーを操作し続けた。
千秋はいちいち「ひっ」「ギャッ」「湊、撃て! 早く撃て!」と大騒ぎしながらも、決して俺の背中から離れようとはしなかった。
それから約二時間後。
時計の針が深夜二時を回った頃、ようやく目当てのセーブポイントに到達した。
「ふぅ……今日はこの辺にしとくか」
「終わったぁ……」
俺がコントローラーを床に置くと、背中の千秋も魂の抜けたような声を出し、俺の背中からずるずると滑り落ちて床に伸びた。
「お前が勝手に見て勝手に疲れてるだけだろ。ほら、どけ。俺は風呂入ってくる」
こわばった肩を回しながら立ち上がる。深夜のシャワーを浴びて、そのまま眠りにつくのが一番の贅沢だ。
タオルと着替えをタンスから出そうとした、その時だった。
床に転がっていた千秋が、むくりと起き上がり、俺のジャージの裾をギュッと掴んだのだ。
「……なんだよ。お前も風呂入りたいのか? 先に入ってもいいぞ」
俺が何気なく言うと、千秋は上目遣いでこちらを見上げ、とんでもないことを口走った。
「ううん。湊と一緒に入る」
「…………は?」
俺の脳が、今の言葉を理解するまでに数秒の時間を要した。
部屋の空気が止まった気がした。
「……お前、今なんて」
「だから、一緒にお風呂入ろうって言ってるの。湊が背中流してよ」
当たり前のように、さも「明日の朝ごはんパンでいいよ」くらいの軽いテンションで放たれた爆弾発言。
俺は持っていたタオルを床に落としかけた。
「バカかお前は!! 頭の中までゾンビウィルスに感染したのか!?」
「なによ大袈裟な。別に減るもんじゃないでしょ。小さい頃はいつも一緒に入ってたじゃない。私が湊の頭洗ってあげたこともあるし」
「その小さい頃ってのは小学生、いや幼稚園児の頃の話だろ! お前自分が今何歳かわかってんのか! 高校二年生だぞ!」
冗談じゃねぇ。学校では『誰もが憧れる完璧な美少女』として君臨している姉と、深夜の風呂場に二人きり。
しかもその……無駄に発育のいいアレを直視することなど、精神衛生上絶対に不可能だ。俺の理性が秒で死ぬ。
「年齢なんて関係ないもん。私たちは血の繋がった姉と弟なんだから、隠すものなんて何もないでしょ」
「ある! 隠すべきものが山ほどある! というか倫理観をどこに置いてきたんだお前は!」
「細かいこと気にしすぎ。湊は自意識過剰なの。私は湊の裸見てもなーんとも思わないから安心して」
「俺が思うんだよ!! いいから一人で入れ! どうしてもって言うなら俺は明日の朝入るから!」
俺が後ずさってドアの方へ逃げようとすると、千秋は床から立ち上がり、俺の行く手を塞ぐように両手を広げた。
「だーめ! 絶対に一緒に入るの! 湊が入らないなら私も一生お風呂入らないから!」
完全に駄々をこねる三歳児だ。なぜこの期に及んでそこまで『一緒』にこだわるのか、俺には全く理解できない。
「お前なぁ……なんでそこまでして俺と入りたいんだよ。そんなに俺の背中流したいのか?」
額に手を当て、頭痛を堪えるように問い詰める。
すると、千秋はパッと視線をそらし、指先をもじもじと絡ませ始めた。
頬が少し赤い。
「……だって」
「だって、なんだ」
「……怖いんだもん」
消え入りそうな、蚊の鳴くような声だった。
「……は?」
「さっきの……窓からバーンって飛び出してきた血だらけのワンちゃんとか……クローゼットからうーって言いながら出てきたゾンビとか……」
「……」
「絶対、シャワーの目閉じてる時に背後に立つ気がするんだもん……! だから湊がいないと、怖くて頭洗えないのぉ……っ!」
最後に涙目で訴えかけてくる千秋を見て、俺の口から今日一番の、特大のため息がこぼれ落ちた。
ホラーゲーム。
その恐怖のせいで、一人で風呂に入れないから弟を道連れにしようとしている。
これが、全校男子の憧れの的、『絶対零度のクールビューティー』の正体だ。
「……お前が勝手に見て勝手に怖がってるだけだろ! 知るかそんなの!」
「お願いっ! 目瞑ってるから! 湊の背中しか見ないから! 一生のお願い!」
「お前の一生のお願いは今週で三回目だ! 却下!」
「みーなーとぉーー!!」
俺の足にしがみついて号泣する千秋を引きずりながら、俺は風呂場のある一階へと向かった。
結局、ドアの前で「入るまでここを動かない」と座り込みを始めた千秋を説得するために、風呂のドアを全開にしたまま、俺は外で歌を歌いながら待機するという羞恥プレイを強いられることになった。
深夜三時。
風呂場から響く姉のシャワーの音と、それに合わせて適当なアニソンを歌わされる俺の歌声。
もしこの異常な光景を誰かに見られたら、俺の社会的な死は免れない。
このズボラで泣き虫な怪獣の世話から解放される日は、まだまだ先になりそうだ。俺は脱衣所の床に座り込みながら、ただ虚空を見つめて歌い続けた。




