第96話:黄昏の回想 ―― 瓦解した玉座と新しい風
(現在:黒鉄期1801年 某月某日 ―― 旧王都近郊、雨に煙る場末の酒場)
窓の外を叩く雨音は、どこか遠い軍靴の響きに似ていた。
私は手元の記録帳のページを、羽ペンで静かに、そして慎重に繰った。グリズとの対話を通じて浮き彫りになったのは、古ぼけた戦略図上の抽象的な矢印や損害数ではない。一人の徴兵された男が、死の淵で泥を噛み、己の臓腑の熱さを感じながら見上げた、残酷なまでに「きれいな空」という、あまりに個人的で剥き出しの真実だった。
「では、続きをお願いします。第一次突撃の凄惨な失敗のあと……戦線はどうなったのですか?」
私の問いに、グリズは肺の奥に溜まった五十年前の灰を吐き出すように深く息を吸い込んだ。そして、琥珀色の高級酒を喉の奥へ流し込む。喉仏が大きく上下し、熱い液体が彼の記憶の底に沈んでいた「あの日」の情景を、鮮血のような鮮やかさで溶かし出していく。
「あの後、か……。まあ、嬢ちゃんも知っての通りだ。王国は潰れた。俺たち名もなき兵隊が、泥水を啜りながら必死に守ろうとした王家も、神を騙り、正義を安売りした教会も、ぜんぶ……歴史の向こう側へ煙になって消えちまったよ」
グリズの言葉に、私は静かに頷いた。
黒鉄期1801年。あの凄惨なラブラリア包囲戦から五十年の歳月が流れた今、大陸の版図は劇的な変貌を遂げている。かつて栄華を極めたオース王国は、既に歴史の地層に埋もれた亡霊に過ぎない。
今、この大地を統治しているのは、かつて「諸悪の根源」と蔑まれた魔王ラビスが建国した『魔王帝国』である。
しかし、その統治は旧王国の圧政とは対極にあった。新王ラビスは、かつて敵対し、己の首を狙った旧王国の兵士たちを処刑することも、地下牢へ放り込むこともしなかった。彼らを一人の「民」として扱い、静かに故郷の土を踏ませたのだ。
さらにこの魔王帝国は、魔族、獣族、人族、血族といった種族の垣根を打ち砕き、万民に対して平等な公正を貫くという、かつての貴族社会では空想に過ぎなかった理想を現実に変えつつあった。
「……あんたも、元は王国の人間だろ? 今じゃ魔王帝国の記者か何かか?」
グリズの鋭い視線が、私の胸元の記章に向けられる。
「はい。私は、この新しい時代の中で、過去の歴史を正しく――いいえ、誠実に記録する義務があると考えています。特に、貴方たちのような『肉の壁』として扱われ、数字の塵の中に消された人々の声を」
グリズは再び笑った。それは自嘲でもなく、権力への軽蔑でもない。すべてを失い、すべてを見届けた者だけが浮かべられる、凪のような微笑だった。
「そうか。なら、俺の知っていること、ぜんぶ話してやるさ。……あの日の空の青さが、俺の瞼の裏から消えちまう前にな」
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―― 死の平原を駆ける鉄火
(回想:黒鉄期1751年 ―― 硝煙と血に染まったラブラリア正面戦線)
グリズの語りとともに、酒場の壁が崩れ落ち、視界は一気に五十年前の地獄へと引き戻された。
「総員、突撃ィィッ!!」
耳を劈く咆哮。それは勇壮な突撃の合図ではなく、死神が振るう大鎌の風切り音だった。
第一次突撃の失敗を受け、王侯軍司令部が打ち出した「非情な戦略」。それは、壊滅寸前の徴兵部隊を再び「餌」として前面に押し出し、魔王軍の防御結界が魔力過負荷を起こすまで命を投げ込み続けるという、文字通りの肉弾戦だった。
ドォォンッ! 大地が激しく跳ねた。
グリズの視界の端で、巨大な岩石が火を噴きながら着弾した。
「伏せろ!」と叫ぶ間もない。隣を走っていた、まだ髭も薄い若者が、衝撃波だけで紙細工のように宙を舞い、紅蓮の炎に包まれて消える。
城壁からの魔術砲火は、さらに激しさを増していた。
シュンッ、シュンッ、シュンッ!
空気を切り裂く高周波の音。魔族の狙撃兵が放つ「真空刃」が、目に見えない死の糸となって草原を横切る。
グリズは錆びた盾を泥の中に突き立て、背中を丸めて突進する。右、左、そして斜め前方へ。本能が告げる死線を紙一重でかわす。
彼の頬を、白熱した鋼のような風が掠め、皮膚がじりじりと焼ける。
「止まるな! 前へ出ろ! 立ち止まるなッ!」
後ろからは教会騎士たちの冷徹な怒号が、物理的な圧力となって背中を突く。
目の前では、魔術による「青白い爆砕」が連続して発生し、泥と肉片が豪雨のように降り注ぐ。
グリズの意識は、極限状態で加速する。
心臓の鼓動が、鼓膜の内側で鐘のように打ち鳴らされる。
飛来する黒矢の軌道が、毒々しい航跡を引いてスローモーションのように視える。
彼は、もはや動かなくなったかつての戦友の死体を遮蔽物にし、地を這うように進む。
「スピードを殺すな、死ぬぞ!」
己に言い聞かせ、爆炎の合間を縫うようにして、彼は「死」という名の巨大な門へと突き進んでいった。
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虚無の膠着 ―― 凍てつく戦線
しかし、どれほどの命を注ぎ込もうとも、城壁は微動だにしなかった。
魔王軍の長距離攻撃は正確無比。王侯軍の戦線は、城壁に肉薄することさえ叶わず、広大な草原の半ばで固定されてしまったのである。
泥濘の中で、兵士たちは己の流した血で足を滑らせ、絶望という名の寒気に晒される。
この第一次突撃の失敗と甚大な犠牲は、王侯軍の士気を根底から叩き潰した。
将軍たちが豪華な天幕で「膠着状態」という言葉を吐き捨てる一方で、最前線では「全滅」という呪いの言葉が、凍てつく風に乗って兵士たちの耳元で囁かれていた。
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「……それが、戦いの『始まり』だったんだよ、嬢ちゃん。本当の地獄は、まだ口を開けたばかりだったのさ」
グリズは再び酒を煽った。彼の目は、酒場の煤けた天井を通り越し、再びあの遠い、吸い込まれるような空の青さへと向けられていた。
―風が吹く。時代の残響を連れて、吹いてゆく―




