第97話:二度目の地獄 ―― 凍てつく陽動と、処刑の広場
グリズの回想 ―― 枯れた琥珀と「血の陽動」
「――あの時、貴方たちが二度目の突撃を命じられたのは、そういうわけだったのですね」
私はペンを持つ手に、思わず指が白くなるほど力を込めた。インクが吸い取り紙を越えてページに深く染み込み、歴史の重みに耐えかねて黒い涙を流しているかのように見えた。
私は何一つ聞き漏らすまいと、酒場の喧騒を意識の外へ追いやり、老兵の唇からこぼれる一言一言を拾い上げた。
「続き、か。続きはな、嬢ちゃん……。結局、俺たちは二度、肉の壁になったんだ。一度目は無知ゆえに、二度目は絶望ゆえにな」
グリズは深く重いため息をつき、震える手で新しい酒をグラスに注いだ。
安物のランプが放つ煤けた鈍い光が琥珀色の液体に反射し、一瞬、戦場の凍土にぶちまけられた鮮血の色に見えた。彼の声は、五十年の時を一気に飛び越え、この湿った酒場に当時の凍える空気を引き連れてきた。
「総司令部で、あの尊大な将軍どもと、知恵を悪用することしか能のない賢者エウレが『陽動』という名の大量虐殺を決めやがったのは、冬の終わりが近づいた頃だった。食料は底を突き、野営地には死斑の浮いた病人が溢れ、誰もが『もう終わりだ』と灰色の天を仰いでた。そんな時だ、突然、鼓膜を破らんばかりのラッパが響いたのは。『全軍、三日後に総突撃を開始せよ』。……神も仏もありゃしねぇ、狂気の沙汰さ」
「二度目……しかも、残存する全兵力での総突撃。正気とは思えません」
私は記録帳の縁を握りしめた。飢餓と病に喘ぎ、幽霊のようになった八万の農民兵を、再びあの不落の黒壁へと走らせる。それが「人族の勝利」のための代価だというのか。
「ああ。だがな、初戦の時とは空気が決定的に違ったんだ。初戦はまだ、田舎もんの無知ゆえの『勝てるかもしれない』っていう、泥水みたいな淡い希望があった。だが、二度目は違った。誰もが悟っていたよ。これは勝利のための進軍じゃない。――俺たちは、王侯貴族が逃げ道を確保するための時間を稼ぐ、死ぬために歩かされる生贄なんだってな」
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―― 二度目の総突撃(黒鉄期1752年1月下旬)
(徴兵グリズの証言と非公式記録:凍土の虐殺)
黒鉄期1752年1月下旬。その日の空は、呪わしいほどに突き抜けた蒼天だった。
王侯軍は、勇者たちの暗殺作戦を成功させるための「血の陽動」として、二度目の総突撃を決行した。公式記録には「勇者たちの離脱を支援するための猛攻」と美化されているが、現場の真実は、ただの組織的な自殺行進、あるいは背中を押された処刑であった。
「進めェッ! 退く者は神の敵、王国の逆賊と見なす!」
背後から響くのは、教会騎士団――督戦隊の鋼の声だ。彼らの数は初戦の倍に増員され、抜身の剣をぎらつかせて逃亡の隙さえ与えない。
前を向けば、城壁から無慈悲に放たれる魔術の閃光。
後ろを向けば、慈悲を忘れた同胞の白銀の剣。
兵士たちは、絶望という名の巨大なプレス機に挟まれた、名もなき肉片に過ぎなかった。
ドォォンッ!!
凍てついた大地が爆ぜ、氷のように鋭利な土塊がグリズの頬を抉る。
「うあああああッ!」
数歩隣を走っていたはずの男が、不可視の衝撃波に直撃され、上半身を霧のように霧散させた。
グリズは感覚の消えかけた足で、凍った泥を蹴る。走るのではない。もはや、後方の剣から逃れるために、前方の地獄へ飛び込むしかないのだ。
シュンッ! シュンッ!
頭上を掠める黒矢の、耳障りな風切り音。
「来るぞ、伏せろぉっ!」
直後、城壁の上から青白い炎が雨となって降り注ぐ。それは雪の結晶のように冷酷に美しく、触れた瞬間に人体を芯から凍てつかせ、陶器のように砕き割る。
パキパキ、ピシィッ。
絶叫さえも氷の中に封じ込める極寒の地獄。グリズは滑り込むように転倒し、積み上がった戦友の骸の影に己を潜ませた。
「……俺たちはまた、城壁の裾に指一本触れることさえできなかった。最初の数分で半分が消え、残りの半分は凍った泥の上で、ただ芋虫みたいに這いずり回るしかなかった。視界にあるのは誰かの千切れた腕、耳に届くのは誰かの断末魔……そして鼻にこびりつくのは、凍りきらない生暖かい血の鉄臭さだけだ。……ああ、でもな、思い出すのは、あの時泥の中にぶっ倒れて、たまたま上を見上げたんだ。あの空が……あまりに遠くて、透き通るように青かったことだけなんだよ」
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―― 決戦の瞬間(領都背面での暗殺計画)
(王侯軍総司令部 戦果記録:魔王ラビスとの対峙)
正面の草原で数万の命がゴミのように、あるいは魔力を浪費させるための薪のように捨てられていたその時、ラブラリアの背面では、人族の最後の希望とされた勇者一行が、密かに潜入を成功させていた。
静まり返った城門の裏、広場。
重装甲に身を包んだ「選ばれし十二名」が、死の沈黙を乱さぬよう石畳を踏みしめる。
だが、その歩みは、城の影からするりと現れた、あまりに軽装な一人の影によって止められた。
「ごきげんよう、勇者殿。歓迎しよう。ここまでたどり着くために、ずいぶんと多くの『同胞』を使い潰したようだね」
陽動計画は、最初から魔王の手のひらの上で踊らされていたに過ぎなかった。
(アクション:神速の作業)
勇者のリーダーが、聖剣を抜こうと柄に指をかけた、その刹那。
――。
音すらなかった。
魔王の指先がわずかに空を弾いたかと思うと、勇者の先頭を走っていた重戦士の首が、物理法則をあざ笑うかのように優雅に宙を舞った。血が噴き出す暇さえ与えない、次元の違う断罪。
「そんな、馬鹿な……っ!」
後方の魔導師が必死に杖を掲げる。だが、詠唱の第一音さえ許されない。魔王の影から伸びた漆黒の棘が、一瞬で彼女の胸を貫き、氷の彫像へと変えた。
それは戦いではなかった。それは、庭に紛れ込んだ不快な害虫を、感情も交えず無造作に指で潰すような、圧倒的で冷酷な「作業」であった。
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逆鱗 ―― 禁忌の名「梟」
「……正面では、いきなり魔王軍が攻撃を止めて静かになった。誰かが『勝ったぞ!』って叫び、すぐに誰かが『あれは罠だ、撤退しろ!』って絶叫し直した」
グリズは自嘲気味に、残った酒を飲み干した。
「……数日後、俺たちは放り出された勇者たちの遺体を見たよ。教会の連中は『魔王を討たんとして奮戦し、惜しくも敗れた』なんて反吐が出る綺麗事を吹聴してたがな。遺体を見りゃ分かる。あれは戦いじゃねぇ。ただの、慈悲すらない『処刑』だ」
王侯軍は、この二度の無意味な攻撃で総兵力の六割以上を失い、完全に崩壊。ラブラリアの包囲を無様に放棄し、公式には「冬場の補給困難」を理由に敗走を開始した。
グリズは、濁った、しかし深淵をのぞき込むような目を私に向けた。
「なあ、嬢ちゃん。あんたが本当に知りたい『真実』ってのは、俺たちが見た『血と泥と、青い空』の話か? それとも、あの『勇者』と呼ばれた連中が、一体何のために、そして本当は誰に殺されたのか……その裏側のことか?」
私は記録帳のページをめくり、勇者一行の名簿の中で、一際異質な一人の名前に指を止めた。
「――どちらも、です。特に、この勇者。なぜ、『梟』という名の勇者だけが、他の七人の勇者とは全く別の、不自然で隠密性の高い特務を受けていたのか。公式記録から組織的に消されたその空白の理由を、私は知りたいのです」
その瞬間、酒場の空気が凍りついた。
グリズの目が、一瞬、鋭く、そして耐え難いほどの恐怖と悲しみが混じった光を宿した。
「……梟?。あんた、どこでそれを‥‥‥、知らねぇ、知らねえ!。もう帰ってくれ!これ以上話すことはねぇ!」
老兵の声は、先ほどまでの穏やかな回想とは一変し、悲鳴に近い拒絶へと変わった。彼は杯に残っていた酒を、喉を焼くような勢いで一気に煽った。
「帰れ! その名は……その名は口にしちゃいけねぇんだ!」
グリズはガタガタと震える手で頭を抱え、テーブルに突っ伏した。その後は何を問いかけても、どんな言葉を尽くしても、彼は二度と顔を上げず、何も語らなかった。ただ、激しく刻まれる呼吸の音だけが、酒場の隅で虚しく響いていた。
―風が吹く。老兵の震えも、血塗られた真実も、すべてを虚無の彼方へと運び去るように。―




