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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第8部:『後日談:未完の連歌 ― 狼の墓標と風の行方』

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第95話:戦火の残響 ―― 沈黙する記録と、老兵の真実

冷徹な数字 ―― 王侯軍総司令部「第一次突撃」報告


(黒鉄期1751年10月:王侯軍本陣・極秘執務室)


揺らめく蝋燭の灯火が、羊皮紙の上に落とされた非情な数字を青白く照らし出していた。


 天幕の外では、初戦で深手を負った兵士たちの、獣のような呻き声が凍てつく夜風に混じって絶え間なく響いている。肉を焼く魔術の残滓と、泥に混じった鉄錆の臭いが鼻を突く。しかし、ここに集う将校たちの関心は、失われた「命」の重みなどではなく、盤上に残された「駒」の損耗率にのみ向けられていた。


【作戦名】 領都ラブラリアに対する初期攻勢(第一次突撃)

【日時】 黒鉄期1751年10月上旬

【戦果】 城壁への到達、および損害を与えることに完全に失敗。


【王侯軍 損害概算】

徴兵部隊(農民兵):80,000名超 /損害率15% - 20% 備考:魔術攻撃により甚大な被害。練度不足露呈

教会騎士団:30,000名超 /損害率 5%未満 備考:主力を後方に配置。損害を意図的に抑制

総損耗 :120,000名 /損害率16,000名以上 備考:開戦初週にして、総兵力の約1割を消耗


【魔王軍 損害概算】城壁内部からの長距離魔術攻撃が主体。敵側の損害は極めて軽微、あるいは皆無と推定。


報告書を読み上げた若き参謀の指先が、わずかに震えていた。一万人。数日前まで笑い、怯え、故郷の家族を想っていた男たちが、この数行の羅列で「ゴミ」のように処理された。だが、上座に座る将軍の瞳には慈悲の色など微塵もなかった。ただ、計算違いを正そうとする冷徹な算盤の珠だけが弾かれている。


「初戦の敗因は明白だ。敵の長距離魔術の射程と破壊力を過小評価していた。これにより戦線は城壁から離れた位置で固定され、作戦は予定外の膠着状態に陥った」


羽ペンが硬い紙を走る音が、まるで処刑宣告のように執務室へ響く。


「極寒期が来る前に、城を落とさねばならん。兵の士気などどうでもいい。魔族の魔力を枯渇させ、城門をこじ開けるための――さらなる非情な戦略が必要だ」


________________________________________


五十年後の再会 ―― 真実の味


「――それが、あの戦いの真実だったのですね」


私は静かに記録帳を閉じ、テーブルの上に置かれた高級な酒瓶を見つめた。琥珀色の液体は既に半分ほどに減り、その量に比例して、目の前の老人の記憶が、この湿り気を帯びた薄暗い酒場に濃密に溢れ出していた。


グリズは、空っぽになったグラスを無造作にテーブルへと叩きつけた。カツン、という乾いた音が、かつて戦場で鳴り響いた鋼と鋼の衝突音を連想させ、私の背筋を冷たく撫でた。彼の濁った目は、数秒前まで見ていた遠い過去の血生臭い草原から、ようやく現代の、カビ臭い酒場の空気へと戻ってきた。


「真実……ねぇ」


グリズは鼻で笑った。その枯れた冷笑には、幾多の死線を潜り抜け、信じていた全てを裏切られた者だけが持つ、深い諦念と皮肉が混じっている。


「真実なんざ、見る奴の立ち位置でいくらでも形を変えるもんだ。教会が聖水で清めればそれは『聖戦』になり、王族が絹の布で隠せばそれは『無かったこと』になる。だがな、嬢ちゃん……。あの時、爆風でぶっ飛ばされて、泥の中に顔を突っ込みながら見上げた、吸い込まれるような空の青さだけは……。どんな英雄譚を捏造したって、書き換えようがねぇ事実なんだよ」


彼は大きな節くれだった手で酒瓶を掴み、グラスの縁ギリギリまで並々と注いだ。微かな震えがあるその指先は、かつて錆びた槍を握りしめ、泥濘でいねいを這い回った老兵の証だ。


「あんたが書き残したいのは、その事実か? それとも、教会や王家が金貨を払って作らせるような、都合の良い『輝かしき英雄譚』か?」


「私は……」


私は、彼の濁った、しかし射抜くような鋭い瞳をまっすぐに見つめ返し、静かに、だが揺るぎない決意を込めて言葉を紡いだ。


「あなたが語ってくれた『肉の壁』の物語を記録したいのです。誰かが、あの非情な青空の下で、名もなきまま使い潰されていった人々の叫びを覚えていなければならない。そうでなければ……彼らは歴史という名の暗闇で、二度殺されることになってしまうから」


グリズは一瞬目を見開き、私を凝視した。その眼差しは、先ほどまでの刺々しい警戒心ではなく、不毛の荒野で思わぬ花を見つけたような驚きに満ちていた。


「へっ、変わったお嬢ちゃんだ。教会にも王家にも、そんな物好きな奴はいなかったがな。……まあいい。あんたのその真っ直ぐな目は嫌いじゃない。おかげで少しは、胸の内の煤が払えた気分だ」


彼はなみなみと注がれたグラスを、私の前へと差し出した。


「もう一杯付き合え。今度は、誰が俺たちをあの地獄の最前列へ送り込んだのか――その『気高き英雄様たち』の、ドロドロに腐った裏話でもしてやるよ」


________________________________________


再開される物語 ―― 泥にまみれた英雄譚


私のペンは、再び記録帳の真っ白なページを開いた。酒場の外では止まない雨が石畳を打ち続けていたが、このテーブルの上だけは、五十年前のあの乾いた、血の匂いのする風が吹き荒れている。


「グリズさん。あの戦い――黒鉄期1751年10月の出来事から、もう五十年近くが経ちました」


男は鼻で笑い、高級酒を惜しげもなく喉へ流し込んだ。


「ふん、随分昔の話だ。俺もすっかりガタが来ちまった。あんたみたいな若い娘が、何で今さらそんな古い泥水をすすろうってんだ」


「公の記録では、ただの『勇者たちのための輝かしい陽動戦』として片付けられています。私は……それを、欺瞞に満ちた真実として世に知らしめたいんです。いや、違います」


私は一度言葉を切り、深く呼吸を整えた。


「私が知りたいんです。あの戦場で、貴方たちが何を感じ、何を想って倒れていったのかを。それを、一握りの支配者たちの都合の良い記憶に埋もれさせてはいけないんです」


グリズは酒を煽りながら、鋭い視線を私に向けた。


「真実、ねぇ。それを掘り返して、一体誰が喜ぶ? 死んだ奴はもう帰ってこねぇ。王国はあの地獄を、きれいな金箔で塗り固めて美談に変えちまった」


「それでも、です。死んでいった大勢の徴兵たちに報いるためです。そして、これからまた同じことが繰り返されないように」


「……(酒を飲み干す音)……。嬢ちゃんは、よっぽど暇か、それとも救いようのない正義感の塊だな」


グリズはそう言い放つと、テーブルに置かれた酒瓶をドンと叩いた。


「どちらも、かもしれません」


 私は微笑み、ペンを滑らせた。


「では、続きをお願いします。第一次突撃が失敗し、損耗率が二割を超えたあの凄惨な朝の後……戦線はどう動いたのですか? 総司令部が打ち出した、さらなる『非情な戦略』とは……一体、何だったのですか?」


グリズの目が再び細められた。その瞳の奥で、再び「あの日」の、残酷なほどに明るい太陽が昇り始める。


「ああ……地獄は、そこからが本番だったのさ。俺たちの命をただの『餌』として、奴らが何を仕掛けたのか……。覚悟して聞きな、嬢ちゃん」


―風が吹く。時の流れが吹いてゆく―


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