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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第7部:宿命の決戦 ―1692年、再臨する勇者と老狼の牙―

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第92話:二十年の断絶 ―― 因果の灰と、昇らぬ太陽(結)

黄昏の弔鐘――地平線に沈む正義


地平線の端から溢れ出した朝日は、祝福ではなく、残酷な明晰さを持って戦場を照らし出した。


かつて大陸を席巻し、数々の伝説を紡いだ「勇者一行」の末路は、あまりにも無残だった。狐の狡知は沈黙し、鷹の鋭眼は曇り、空を統べるはずだった梟さえも、自らの流す鮮血の海の中で、引き千切られた羽のように震えている。


朝日の黄金色に染まる草原の中、一人の男が深く、軋む膝を地面についた。


勇者「狼」。


その全身は数多の裂傷に覆われ、衣服は乾いた返り血で固まっていたが、その瞳だけは、二十年の歳月を経てなお、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを失っていない。


「お、お前……一体……何者なんだ……」


虎が、もはや焦点の合わない瞳を必死に動かし、掠れた声を絞り出した。


その巨躯は、腹部を断ち割られ、内臓が零れ落ちるのを防ぐことさえままならない。圧倒的な武を誇った自分を、正面から、しかもどこか「熟知」したような剣筋で葬った目の前の怪物に対し、彼は死を前にした根源的な疑問をぶつけた。


「……まだ分からないか、虎。お前とは、あの煤けた王都の酒場で、何度も泥水のようなエールを酌み交わした仲だったはずだが」


狼の声は、低く、深く、そしてひどく懐かしい響きを帯びていた。


虎の薄れゆく意識の中で、二十年前の情景が、濁流のような勢いで逆流する。


過去へ跳ぶための禁忌術式。不完全な魔力の渦。崩壊する時空。仲間を庇い、光の断層へと消えた「九人目」の親友。


「『ルーベンカー』……!貴様、あの時、死んだのでは……ッ!」


「ああ。あの日、俺は死んだ。……死んで、この時代の二十年前へ放り出されたのだ。ラビスの、たった一人の理解者としてな」


狼は血に濡れた鉈剣なたけんを杖代わりに、折れそうな四肢を支えて立ち上がった。朝日に照らされたそのかおには、孤独と闘争に明け暮れた「二十年」という名の深い皺が、地図のように刻まれている。


「裏切ったのではない。最初から、俺の居場所は『彼ら』の側にしかなかった。対話を拒絶し、自分たち以外の繁栄を許さず、混血種を根絶やしにすることだけを『聖戦』と呼んだのはお前たちだ。エウレだ。聖教会の狂信者どもだ」


狼の言葉には、もはや激情さえなかった。そこにあるのは、ただ果てしない虚無と、愛する者を守るためにかつての友を斬るという、絶対的な孤独の決意だけだ。


「ラビスは、混血種の赤子が飢えて死ぬたびに、人知れず涙を流していたよ。俺はここで二十年、彼らの慎ましい幸せと、それを踏みにじるお前たちの『正義』を見てきた。……誰が、俺の愛した妻オリアナと、娘レオリナを、未来のために殺させるものかッ!」


________________________________________


最終瞬刻――牙と爪、火花散る草原


虎の瞳に、絶望と、そして戦士としての最後の火が灯った。彼は震える指先を無理やり動かし、折れかかった双剣を握り直す。


「そうか……。俺たちの歩みが、ただの罪だったというのか。だが……だが俺たちにも、退けぬ理由がある。この世界を、救うという……王国の誇りが、大義があるんだぁぁッ!」


「来い、虎!貴様の誇りごと、俺が断つ!」


咆哮と共に、二人の影が爆発的な初速で交錯した。


シュンッ!


虎の巨躯が風を裂く。死を覚悟した捨て身の特攻。右の短剣が狼の喉元を狙い、左の長剣が胴を薙ぐ。左右同時の不可避な一撃。


だが、狼の瞳は冷徹だった。


「見えている」


二十年の孤独が、彼の感覚を神域まで研ぎ澄ませていた。


狼は最小限の動きで左足を軸に旋回。喉元を掠める刃の風圧を感じながら、その懐へ深く、鋭く潜り込む。


ガキンッ!!


凄まじい硬質の衝撃音が、早朝の静寂を粉砕した。


狼の鉈剣が、虎の双剣を根元から「噛み砕く」ように叩き折る。


砕け散った鋼の破片が朝日に煌めき、虎の顔面を切り裂いた。


その一瞬の空白――狼は踏み込み、全身のバネを鉈剣の一撃に乗せた。


ザシュッ!!


重厚な金属音が肉を断つ鈍い音へと変わり、狼の刃が虎の首筋へと深く沈み込んだ。


「……が、あ……」


虎の喉から漏れたのは、言葉にならない溜息だった。


輝いていた双剣の残骸が手から零れ落ち、大陸最強を謳われた男の巨躯が、崩れるように草原へ沈む。事切れた鷹の隣で、彼はもう動かなくなった。


風が吹き抜け、草の波が騒ぐ。


生き残ったのは、致命傷を負いながらも魔法の残滓で命を繋ぐふくろうと、血の海に膝をついた狼だけだった。


________________________________________


因果の断層――眠りにつく狼


狼は震える足取りで、這い寄るようにして梟へと近づく。


梟の瞳には、かつての仲間を殺戮した男への、畏怖と、言いようのない哀れみが宿っていた。


「……最後はお前だけだ、梟。お前は……あの時代へ、戻れるのか?」


「……戻る、術式は……まだ、生きています……。ですが、私は……」


「なら、エウレに伝えろ」


狼は梟の言葉を遮り、喉の奥から絞り出すような声で告げた。


「不可逆な時に逆らった罰を、その老いさらばえた身で受けろとな。お前の敬愛する師が、どれほど残酷で、どれほど無意味な間違いを犯したか。その眼で、地獄の底で見届けろ」


狼はそれだけ言い残すと、支えを失った操り人形のように、その場に仰向けに倒れ込んだ。


視界の端で、朝日の光が強まっていく。かつてオリアナと見た、あの美しい夜明けの空。


「……オリアナ……すまん。……レオリナ……。ラビスを、頼む……。俺は、少しだけ……眠るよ……」


その囁きは、草原を渡る風の中に溶け、消えた。


英雄であり、裏切り者であり、そしてただ一人の愛する家族を守り抜くために二十年の孤独を牙に変えた男。その数奇な生涯の幕が、静かに下ろされた。


数舜の後。


梟は震える手で「帰還の媒体アーティファクト」を起動させた。


禍々しい紫光の魔術陣が彼女を包み、冷たい光が空間を削り取る。


転移の直前、彼女が見たのは、朝日の中で動かなくなったかつての仲間たちと、静かに目を閉じた狼の、安らかな寝顔だった。


光が収束し、彼女が消えた跡には、ただ冷たい風と、骸だけが残された。


________________________________________


残照――風が運ぶ物語


「……ルーベンカー、やり遂げたんだね」


茂みから、影が伸びるようにレラ・ゾディアックが現れた。


彼女は物言わぬ狼のそばに跪き、その温もりを失いかけた無骨な手を、そっと握りしめた。


「君の死は、この狂った因果の連鎖を閉じるために必要だったのかもしれない。……けれど私は、君に生きて帰ってきてほしかったよ。あの酒場で、また安酒を呑みたかった」


レラは瞳を閉じ、天を仰いだ。彼女の背後から、闇に溶けるようなゾディアックの影たちが現れる。


「彼らを、ここで弔おう。……誰かの身勝手な思惑に踊らされ、過去という名の檻に閉じ込められた、哀れな勇者たち。せめて闇に生きる私たちが、その最期を見届けてやるのが、せめてもの情けだ」


やがて、草原の中央から幾筋もの煙が立ち上る。


勇者という名の灯火がすべて潰えた後、新しい時代の太陽が、非情なほど美しく、何も知らぬ世界を照らし始めた。


歴史は、彼らの存在を「最初からなかったもの」として葬り去るだろう。


だが、この草原を渡る風の中に、一人の「狼」が命を懸けて守り抜いた愛の記憶だけは、永遠に刻まれ続ける。




―風が吹く。時の流れが吹いてゆくー


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