第93話:インタビュー(忘却の底に沈んだ残響)
境界の扉 ―― 湿った静寂への沈降
黒鉄期1801年。
石畳を叩く細かな雨が、街灯の乏しい路地裏を銀色の糸で縫い合わせている。
黒鉄期の終焉から数十年。復興の槌音も届かないこの掃き溜めのような一角には、時間の流れさえも淀んで停滞しているかのような錯覚を抱かせる。その建物は、腐りかけた木材が湿気を吸って不格好に膨らみ、まるで今にも自重で崩れ去りそうな、危うい佇まいを見せていた。歪んだ窓ガラスの向こう側から漏れ出すのは、誰かの吐き出した重いため息のように鈍く濁った薄明かりだ。
私は、その場末の酒場の前に佇んでいた。
指先が、コートのポケットの中で小さく、しかし絶え間なく震える。この扉の向こう側に足を踏み入れるということは、歴史の教科書が都合よく編纂し、語りたがらなかった「あの戦い」の、剥き出しの真実を剥ぐことに他ならない。あるいは、人が触れてはならない神域、あるいは墓域を汚す不遜な行為なのかもしれない。
入るか、入るまいか。
冷たい雨が首筋を伝う。その不快感が背中を押し、私は意を決して重い木の扉を押し開けた。
――カラン。
一瞬、時が止まったような静寂が訪れる。
店内に漂うのは、安煙草の酸っぱい紫煙と、煮え切らない臓物の生臭さ、そして安酒特有の澱んだアルコールの芳香だ。それらが闖入者である私の衣服に容赦なく絡みつき、値踏みするように肌を撫でる。数人の酔客が、一様に剥げかかった椅子を軋ませ、幽霊でも見るかのような無機質な視線を投げかけてきた。その瞳の奥には、外の世界から持ち込まれた「清潔さ」や「好奇心」に対する、本能的な拒絶と、深い泥のような倦怠が宿っていた。
だが、彼らはすぐに興味を失ったように、再び手元のグラスへと意識を沈めた。ぼそぼそとした、湿り気のある会話が、壊れた機械の再起動のように店内のノイズとして響き始める。
正面に汚れの目立つカウンター、背後の壁には四人掛けのテーブル席が三つ。ほぼ満席だ。人々の背中は一様に丸く、その肩には目に見えない歴史という名の重力が、耐えがたい質量でのしかかっているようだった。
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等価交換 ―― 黄金の雫と皮肉な微笑
私は、節くれだった木のカウンターへとゆっくり歩み寄った。
店員は、脂ぎった布で曇ったグラスを漫然と拭きながら、値踏みするような視線を私の全身に這わせてくる。私は無言で、懐から丁寧に取り出した布の包みをカウンターに差し出した。それがここでの通行証であることを、風の噂で聞いていたからだ。
「……いる?」
喉の奥で震える、極めて短い問い。店員は包みの端を指先で少しだけめくり、中身を確認した。刹那、彼の無精髭に覆われた口角が、嘲笑とも感嘆ともつかない歪みを描く。彼は顎で、向かって右端の、最も影の濃いテーブルを指し示した。
視線を追う。
そこには、一人の老いた男が座っていた。
岩を削り出したかのような無骨な肩。顔に深く刻まれた皴は、荒野の地層や、あるいはかつての大地を走った亀裂を思わせる。男は周囲の喧騒から物理的に切り離されたかのように、琥珀色の安酒が溜まったグラスの底を、ただ一点、執念深く見つめながら静かに傾けていた。
店員が私の視線に合わせるように背を向け、棚の最上段、埃を被った奥底から一本の酒瓶を取り出した。
そのラベルを目にした瞬間、私は自分の呼吸が止まるのを感じた。辺境の貴族でさえ、一族の命運を祝う席でしか口にしないような、最高級のヴィンテージ。店員が無愛想に提示した代価は、この界隈の一般的な労働者が、汗水垂らして一週間働き、ようやく手にする食事代に相当した。
「……」
一瞬、財布を握る手が躊躇いに止まる。たった一人の老人の昔話に、それほどの価値があるのか。
だが、冷たい雨に打たれ、ここまで辿り着いた道程を思えば、引き下がる選択肢は既に消失していた。私は覚悟を決め、手持ちの金貨をカウンターに並べた。一枚、また一枚。重厚な金属音が、店内の喧騒をわずかに切り裂く。
「まいど」
店員は、私の困惑と覚悟をすべて見透かしたようにニヤリと笑い、素早い手つきで金を回収した。ぼったくられたという確信が胸を掠めるが、それを補って余りある高揚が私を支配していた。私はその「黄金の雫」を、壊れ物を扱うように大切に抱え、老人の席へと足を進めた。
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グリズの回想 ―― 青い空と地獄の記憶
テーブルの前に立ち、私の影が男の手元を覆った。
男は顔を上げず、グラスの中で揺れる最後の一口に、己の全存在を懸けているかのように見えた。
「――こんばんは、少しお話を聞かせてもらえる?」
「ああー? お前さん誰だ。ここは、嬢ちゃんのような育ちの良さそうな人間が、散歩がてらに迷い込む場所じゃねぇよ」
明白な拒絶。重く、喉に灰が詰まったような乾燥した声が、鉄の壁のように私の前に立ちはだかる。
「――あの“戦い”について。境界の草原で、あなたがその眼に焼き付けたもの。それを教えてほしいんです」
男は渋い顔をして、グラスに残った温い安酒を、名残惜しそうに時間をかけて喉へ流し込んだ。最後の数滴まで、あたかも己の血を絞り出すように。飲み干した後、彼は空になったグラスを見つめ、ひどく寂しげに鼻を鳴らした。
「何も話すことはねぇ。あんなもんは、酒の肴にもなりゃしねぇ。ただの腐った泥の記憶だ。……帰りな、今のうちに」
私は、無言で手に持っていた新しい酒瓶をテーブルの、彼の手が届く絶妙な位置に置いた。
その瞬間、男の濁っていた瞳が、まるで獲物を見つけた獣のように鋭く光り、ラベルの金文字へと釘付けになった。この薄汚れた酒場の、誰一人として報われない空気の中には決定的に不釣り合いな、洗練された品格。男の喉が、ゴクリと大きく、情動に突き動かされるように動く。
「――これを。あなたが話し終えるまで、私はここで待ちます。一晩かかっても構いません」
長い、静寂が流れた。
やがて、男は肺の底に溜まっていた毒を吐き出すかのような、深く、長い溜め息を漏らした。それは、数十年という歳月の呪縛を、酒の香りと引き換えに解き放つ合図のようでもあった。彼は震える節くれ立った手で、黄金色の高級酒をグラスに注ぎ、その香りを深く吸い込むと、一気に呷った。
「……ちっ。分かったよ、嬢ちゃん。ただし、後悔するなよ。あの戦いを思い出すのは、地獄の釜の中を覗き込むより、よっぽどたちが悪いんだ」
彼は、自らをグリズと名乗った。
かつて、王国の末端で盾を構え、勇者たちが踏み越えていった大地の一部となっていたというその男は、遠い目をして、誰もいないはずの草原の、遥か彼方の空を見つめた。
「俺にとってはな……凄惨な叫びも、鋼のぶつかる音も、今じゃあ遠い。……一番印象に残っているのは、あの朝、空があまりに青くて、透き通るようにきれいだなぁ、って。……そう思ったことだったよ」
その枯れた言葉とは裏腹に、彼の瞳の奥底では、今も銀狼の咆哮と、崩れ去った「正義」の残骸が、消えることのない地獄の業火を上げて燃え続けていた。




