第91話:二十年の断絶 ―― 因果の灰と、昇らぬ太陽(承)
歪んだ物語 ―― 勇者という名の呪縛
(黒鉄期1692年:夜明け前、境界の草原)
「分かんねぇ……狂ってやがる、お前も、この世界もッ!」
狐が、麻痺した左肩を無理やり引きずるようにして立ち上がった。激痛に歪む顔、剥き出しになった歯。その瞳には、未知の怪物に対する根源的な恐怖と、信じてきた世界が足元から崩落していくことへの拒絶が混在していた。
「お前は魔王の尖兵か!混血種の汚い犬に成り下がったのか!ラビスは……あの魔王は、数多の国を焼き、世界を滅ぼす悪の権化なんだぞ!」
「悪の権化、か。聞き飽きたな、その台詞は」
狼は、地を這うような低い声で吐き捨て、鼻で笑った。その冷笑は、狐が後生大事に抱えてきた「正義」という名の虚像を、真っ向から踏みにじり、粉砕する。
「それは、賢者エウレと教会が、お前たちを戦場へ駆り立てるために書き上げた、都合のいい御伽話だ。俺は、ここでお前たちが決して知ることのない『二十年』の血と泥を見てきた。ラビスがなぜ魔王と呼ばれなければならなかったか。それは破壊を望んだからではない。虐げられ、寄る辺を失った混血種たちを、正義を騙ってお前たちが振るう暴力から守り抜くためだ。戦いを選ばされたのは、彼の方だった」
狼の言葉は、冷徹な針となって彼らの記憶の奥底を穿つ。
「それは、お前たちが知ろうともせず、賢者エウレが歴史の闇に葬り去った、この世界の剥き出しの真実だ」
「嘘です……!師エウレ様は、世界の平和のため、人族の輝かしい未来のために……!」
梟が、震える指先で杖を強く握りしめた。だが、その声は霧のように頼りなく、内側に生じた疑念の亀裂を隠しきれていない。
「エウレ――あの老人は、己が描く『清浄な世界』という歪んだ大義のために、お前たちという駒を使い潰したに過ぎない。あいつは、人族至上主義という傲慢な毒に侵された亡者だ。……お前たちの仲間の騎士団組が、あの教会で聖人の面を被りながら何をしたか、俺はこの眼ですべて見届けてきた」
狼の瞳に、極寒の怒りが宿る。鉈剣が朝露を切り裂き、大気を震わせるほどの重圧を放った。
「蜥蜴、鷲、熊、獅子。あいつらは俺がこの手で葬った。奴らの弱点を知っていたのは、かつての友情ゆえではない。奴らを一瞬で、確実に、最も無様に殺すために、脳内で何万回と殺し合いを繰り返し、その喉笛を食いちぎる予行演習を二十年間、欠かさず続けてきたからだ!」
「仲、間……だと?お前、いったい……誰なんだ……ッ!」
虎が、焼けるような肺を震わせて荒い息をつき、折れかけた精神を奮い立たせるように双剣を構え直した。
「分からなければ、それでもいい。墓の下でゆっくりと思い出すがいいさ」
狼は重心を深く、獲物を狙う野獣のように沈めた。鉈剣の切っ先が、一切の迷いを排した処刑人の殺意を宿して静止する。
「お前たちが飛ぶ前、ラビスは『時反しの魔術』の術式を手に入れていた。奴は自ら魔力を介入させ、俺を二十年前のこの地へと先行させた。俺の任務は、未来の魔王が誕生するための『正義』を死守することだ。そのためには、勇者を名乗るお前たちをここで全員、塵一つ残さず叩き潰す必要がある」
「そんなこと、知るかッ!私たちの信念は揺るがない!使命は、魔王の誕生という悪夢を阻止することだ!」
鷹が、指先の戦慄を射抜くような殺意に変え、再び弓を限界まで引き絞った。
「使命、か。それはお前たちが己の犯してきた罪から目を逸らすための、ただの呪文だ」
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造られた戦場――蹂躙の四重奏
狼が草原を蹴った。
ドォォン!と爆ぜるような踏み込み。その速度は、先ほどまでとは次元が違う。物理的な加速を超え、空間そのものを切り裂いて跳躍したかのような錯覚。
鷹が指を放し、矢が空を裂く。狐が死角から短剣を投じる。だが、狼は流れるような水のような歩法で矢の軌道をわずかに「流し」、一歩引く動作で短剣を空振りさせる。
「……ちっ、さすがに四対一は骨が折れる。ならば、分断させてもらう」
狼はこの草原を「最後の処刑場」に選ぶにあたり、あらかじめ牙を大地に隠匿していた。
彼は虎の猛攻を巧みな体捌きでいなし、鷹の射線を遮るようにして狐へと肉薄する。
ブンッ!
風を断つ鉈剣の一閃。狐が本能的な危機感に突き動かされ、後方へ大きく五歩跳びのいた。
「そこだ」
ガガァンッ!
重厚な金属音が草原に轟いた。それは鷹の弓ではない。
「がっ……あ……ッ」
狐の胸から、無骨な鋼の矢が背後まで貫通していた。狼があらかじめ草むらに設置し、不可視のワイヤーで連動させていたバリスタが、狐の回避先を寸分の狂いもなく射抜いたのだ。
「ぬ、ぬかったぜぇ……ここは奴の、造り上げた……屠殺場……だったか……」
狐の瞳から急速に生命の光が失われ、その場に崩れ落ちる。
「狐ッ!!」
鷹が絶叫した。彼女は初めて悟った。この男が現れた時点で、勝機などどこにもなかったのだ。ここは自然の草原ではない。自分たちという獲物を確実に仕留めるために、あらゆる地形、死角、そして心理が計算し尽くされた「鉄火の檻」であることを。
「鷹、戦場で私情に駆られて目を逸らすのは、死への招待状だ」
ヒュンッ。
風を切る、あまりに微かな音。鷹が目を見開いた時には、既に終わっていた。
狼が足元を薙ぐようにして蹴り上げたのは、草むらに埋もれていた無数の暗器――錐のように鋭い毒針の雨。
「ごぼっ……あ、あ……」
喉元を深く貫かれた鷹が、血を吐きながら力なく倒れ伏す。瞬く間に、未来の希望であった勇者たちの半数が、物言わぬ骸へと変えられた。
「鷹、お前は俯瞰して戦場を操る駒としては優秀だった。だが、指揮官が単体で前に出すぎれば、ただの脆弱な標的だ」
残るは、虎と梟。狼は梟の魔術の射線を、虎の背中で物理的に塞ぐように立ち回る。
「耳と目を塞いだぞ。どうする、虎!お前の『正義』で俺を止めてみろ!」
「……はぁ、はぁ……。梟、気にするな!俺ごと、この男を屠れェッ!」
虎は自暴自棄に近い叫びを上げ、折れかけた精神の破片を掻き集め、狼と激しい剣戟を繰り広げる。
キン、ギン、ガッ、キン!
鋼の咆哮が草原を震わせ、火花が夜明けを焼き尽くす。虎の双剣と狼の鉈剣。かつては背中を預け合い、同じ焚き火を囲んだはずの技が、今は互いの内臓を掻き出すための狂気となる。
梟は逡巡した。虎の命か、師の厳命か。
(師、エウレ様の命令は絶対。魔王を消し、その母を暗殺する。ここで立ち止まることは許されない……たとえ、仲間を犠牲にしても!)
「第3位階魔術:烈風刃――点!」
一筋の圧縮された真空の刃が、虎の背中を貫通し、そのまま狼の胸部を刺し抜いた。
「がっ……あぁッ!」「うっ……!」
鮮血が舞い、二人は衝撃で大きく左右に弾け飛ぶ。
「はぁ、はぁ……梟、よくやった……。あとは、止めを……刺せ……」
虎が血反吐を吐きながら狼を睨みつける。だが、狼は倒れなかった。
「まだだ、虎。お前たちは、最後の最後まで甘い」
狼の姿が、虎の霞む網膜の中でブレた。
斬ッ!
雷光。虎が振り返ったときには、狼は既に梟の目の前に潜り込んでいた。
無防備な魔術師の胴体を、重厚な鉈剣が容赦なく、そして正確に一文字に切り裂く。
「あ……」
絶叫すら喉に詰まり、梟が絶望を抱いて倒れ伏す。
「梟。後衛の魔術師が独りで攻めに転じる時、そこには守護者も、退路もない。……焦ったな、お前も。エウレの期待が重すぎたか」
傷口から溢れ出した鮮血が、皮肉にも彼女が守りたかったはずの『清浄な世界』をあざ笑うかのように、泥にまみれた草原を真っ赤に染め上げていった。




