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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第7部:宿命の決戦 ―1692年、再臨する勇者と老狼の牙―

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第56話:黎明の咆哮――勇者再臨

世界が軋む時――因果の断裂


時をしばし遡る。

黒鉄期1692年、晩秋。


オース大陸南部の辺境は、深淵のような静寂に支配されていた。空は低く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、木々は琥珀色の葉を最後の一枚まで振り落としている。冬の先触れである鋭い風が、三十一開拓村の強固な石造りの家々の隙間を、飢えた獣の遠吠えにも似た音を立てて吹き抜けていく。


後見人であるマルカスをはじめ、村の誰もが、ルーパート――すなわちルーベンカーが村を去ったのは、孫であるラビスが誕生した黒鉄期1693年のうららかな春のことだと信じて疑わなかった。しかし、真実は違った。彼はその五ヶ月前、初雪が大地を白一色に塗りつぶす直前の晩秋に、独り静かにその「境界」を越えていたのである。


レオリナの腹に新たな命――彼にとっては孫、そしてかつての友の名を継ぐ者――が宿ったことを確信したあの日から、ルーパートは、憑き物が落ちたかのように人と接する機会を削ぎ落としていった。


「冬に備え、奥山で魔生物の間引きと備蓄を増やしてくる」


そう語る彼の言葉に、村人たちは誰も不信を抱かなかった。それほどまでに彼の隠遁者としての仮面は完璧であり、また同時に、彼が村の守護者として果たす役割を誰もが信頼していたからだ。それが彼なりの永遠の別れの挨拶であるとは、誰も気づけなかった。


そしてその日、ついに“その時”が訪れた。


ルーベンカーは、薄暗い小屋のなかで独り、鉈剣の手入れを行っていた。使い古された砥石が刃を滑る、規則正しい摩擦音。火の消えかけた炉が放つ微かな暖気。その手が、唐突に、石を噛んだかのように止まる。


――ギチリ。


それは鼓膜を震わせる物理的な音ではなく、大地を揺らす震動でもなかった。しかし、彼の全身の細胞が、魂の深淵が、世界を構築する根源の法則が悲鳴を上げたかのような凄まじい違和感を感知した。


“世界が、軋んだ”のだ。


「不可逆な時の流れ」という絶対的な理に対し、「時返りの魔術」という冒涜的な異物が無理やり割り込み、強引に因果の糸を捻じ曲げた瞬間の衝撃。二十年前、彼自身が破滅した未来からこの時代へと堕とされた時と全く同じ、魂を直接削り取るような、吐き気を催す感覚。


だが、今回訪れた「異物」の正体は、救済を求める彼自身ではない。


彼を歴史の反逆者として抹殺し、彼がこの二十年で積み上げたすべてを蹂躙するために、かつての戦友――「勇者」たちが、聖遺物の輝きを纏って時を越え、この時代に降り立ったのだ。


________________________________________


狼の武装――隠遁の終わり


ルーベンカーは静かに、しかし澱みのない予備動作で立ち上がった。


そのかたちに驚きはない。恐怖もない。ただ、二十年という長すぎる歳月を、牙を研ぎ澄ましながら待ち続けた瞬間が、ようやく、必然として訪れたという冷徹な覚悟だけが、彼の双眸を黄金色に染め上げていた。


彼はまず、かまどの中で細々と踊っていた最後の火を、掌で押しつぶすように消した。


燃え残った薪がパチパチと乾いた音を立てて絶命していく。それは、この村で過ごした平穏な日常――「ルーパート」という偽りの人生に終止符を打つ、葬送の音のようでもあった。


小屋の隅には、何年も前からこの瞬間のために整えられていた荷物があった。


必要最低限の乾燥肉と水。そして、彼が辺境の地で人知れず収集し、魔那石を加工して調整し続けてきた対・勇者用の特殊な暗器や魔導具が詰め込まれた、ずっしりと重いずた袋。


彼は迷うことなくそれを肩に背負った。腰には、もはや体の一部と化した、無骨ながらも極限まで研ぎ澄まされた愛用の鉈剣を差す。その重みが、眠っていた伝説の戦士としての記憶と、血塗られた闘争の本能を、一気に覚醒させていく。


小屋の外に出ると、肌を刺す冷気が、戦場へ戻る彼を歓迎するように吹きつけた。


彼は、一度だけ立ち止まり、ゆっくりと、愛惜を込めて振り返った。


________________________________________


無言の訣別――遠き誓い


薄暮に包まれた三十一開拓村。繁栄の証である堅牢な壁、煙突から細い煙を上げる家々。


その中の一軒には、かつて愛し、今も魂の最奥で求め続けている妻オレリアがいる。


そしてもう一軒の家には、光り輝くような笑顔を持つ娘レオリナと、彼女の胎内で今も脈打つ、未来への希望そのものである新しい命、ラビスが。


ルーベンカーは、その二つの家の窓から漏れる微かな灯火にだけ視線を止めると、肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、あえて魂を凍らせた。今、情に流されれば、愛する者たちを勇者の劫火に巻き込むことになる。


「……達者でな。オレリア、レオリナ。そしてまだ見ぬ孫、わが友、ラビス」


その言葉は、誰の耳に届くこともなく、晩秋の風に溶けて消えた。


彼はもう、二度と振り返ることはなかった。


かつての英雄は、完全に「一匹の狼」へと戻り、かつての戦友たちが現れたであろう気配の源――領都ラブラリアの方角へと、迷いのない足取りで歩み出した。


それは、最愛の者たちが生きる「今日」を汚させず、平穏な「明日」を与えるための、孤独な殲滅の旅。


黒鉄期1692年、晩秋。


「郷の冒険者」ルーベンカーの、真の、そして最後の聖戦が今、幕を開ける。


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