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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第6部:『守護者の二十年 ― 「ルーパート」という名の仮面』

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第55話:そして、時は流れる――運命の胎動

芽吹きの季節――祝福の産声


季節は巡り、時は淀みなく流れる。


黒鉄期1693年、春。


南部辺境を閉ざしていた厳しい冬がようやくその手を離し、雪解け水が川底を叩く瑞々しい音とともに、新たな命の芽吹きが大地を震わせていた。凍てついていた土からは若草の匂いが立ち上り、三十一開拓村は、生命の躍動に満ちた喜ばしい季節を迎えていた。


かつて幾多の魔生物の襲撃から、血を流して守り抜かれたその地で、今、一つの尊い生命が産声を上げた。


「元気な男の子ですよ!ほら、なんて力強い声!」


産婆の朗らかな声が、早春の澄んだ空気に高く響き渡る。


家の外で、落ち着かずに何度も同じ場所を往復していたトビアス。そして、聖母のように静かに祈る手を組み続けていたオレリア。腕組みをして仁王立ちし、眉間に深い皺を寄せていたマルカス。


その場にいた全員から、安堵と歓喜が混じり合った、地鳴りのような大歓声が沸き起こった。


産屋の奥。汗に濡れた黄金の髪を額に張り付かせ、荒い息を整えながら、レオリナは腕の中の小さな、あまりにも小さな命を愛おしそうに見つめた。指先で柔らかな頬に触れると、その温もりに涙が溢れる。彼女は震える声で、その名を慈しむように呼んだ。


「……ラビス。この子の名前は、ラビスよ」


その名は、かつて彼女の父ルーベンカーが、生涯で最も信頼し、共に死地を潜り抜けた友の名として大切にしていた響き。父から語り聞かされた「真実の強さ」と「不屈の魂」を持つ英雄の名であった。


その名を聞いた瞬間、オレリアは目元を抑え、静かに微笑んだ。亡き、あるいはどこかにいる夫への想いが胸を去来する。


「いい名前ね。ええ、本当に……きっと、誰よりも強く、そして誰よりも優しい心を持つ子になるわ」


新しい命の誕生。それは停滞していた辺境の歴史に、新たな希望という名の聖火を灯す、厳かな儀式であった。


________________________________________


無人の小屋――去り行く「狼」の背中


しかし、その祝祭の輪の中に、あの男の姿はどこにもなかった。


村人たちが赤ん坊の誕生を酒の肴に笑い合い、至る所で祝いの灯火が揺れている頃、村外れの森の境界に建つ、あの古びた小屋は、すでに不気味なほどの静寂に包まれていた。


マルカスは、村の喧騒を離れ、言いようのない胸騒ぎを覚えてその小屋を訪れた。


ギィ……と、冬の風雪に耐え抜いた建付けの悪い扉が、頼りなく開く。


そこは、もぬけの殻であった。


使い古された木製の机、簡素なベッド、そしてかつてレオリナが「おぢちゃんに」と贈った、不器用な手作りの細々とした品々。それらは埃を被ることなく、丁寧に整頓されたままそこに残されていた。だが、主の体温だけが完全に消失していた。


土間の埃の積もり具合、そして冷え切った炉の跡から見て、主が出て行ってから既に数ヶ月は経っているようだった。あの大災害から八年、彼は誰にも告げず、春の足音を聞く前に風のようにこの地を去っていたのである。




壁に立てかけられていた、あの錆びついた鉈剣。そして必要最低限の旅装。それらだけが、主とともに姿を消していた。彼が生きていた痕跡は、この村から静かに、しかし確実に取り除かれていた。


「いないのか……結局、一言も交わさずにか」


マルカスは無人の土間に立ち尽くし、絞り出すように呟いた。


拳を白くなるほど固く握りしめ、その震えを抑えることができない。八年前のあの日から、自分はこの男にどれだけのものを背負わせてきたのか。英雄としての名誉も、父親としての権利も、すべてを奪い、影の中に押し込めてきたのではないか。


「……悔しいなぁ。俺は、結局何にも、恩返し一つできやしない」


彼は小屋を飛び出し、ルーパートが去ったであろう方角――未だ深い万年雪を残し、天を衝く峻厳な山々の連なりを見つめた。


「死ぬなよ、ルーベンカー……!」


マルカスは初めて、その名を公然と空に向かって叫んだ。その瞳には、隠しきれない熱い涙が浮かんでいた。


もはや「ルーパート」という仮面を疑う必要はなかった。彼の中で、孤独な狩人と、かつて村を愛し、今また孫の未来のために旅立った英雄は、完全に一つの巨大な魂として重なっていた。


________________________________________


運命の歯車――魔王誕生


ルーベンカーは、再び孤独な旅路へと身を投じた。


彼にはまだ、果たすべき使命が残されている。彼の脳裏にある未来の断片。やがて現れるはずの「勇者たち」との決着。そして、自分がいなくなった後の世界で蠢くであろう、中央の巨悪や人智十字教会の陰謀との、見えざる終末戦。


何より、今しがた産声を上げたばかりの孫、ラビス。


彼が歩むであろう、あまりにも過酷で、あまりにも輝かしい運命。その行く末を歴史の影から見届け、出来うればその過ちを正す道標となる。そのために、彼は愛するオレリアとレオリナ、そして新しい命の幸せを最優先し、自らを歴史の闇へと埋葬したのだ。


風が吹き抜け、無人の小屋の扉が再び「ギギ……」と音を立てた。


それは去りゆく老いた狼の、悲しくも誇り高い遠吠えのようにも、あるいは次代への祝福のようにも聞こえた。


黒鉄期1693年。


のちに世界を震撼させ、天をも恐れぬ覇を唱え、あるいは絶望の底から世界を救済へと導くことになる存在。


魔王ラビス、誕生。


運命の歯車は、凄まじい音を立てて回り始めた。


「郷の冒険者」が遺した、愛と犠牲という名の血塗られた種は、いま、次代の混沌という名の土壌で、静かに、しかし力強く根を張り始めたのである。



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