第44話:戦士の決断――孤独なる殲滅、再会の誓い
火種の切り離し
領都ラブラリアの一等地、その静謐な特別室を包んでいた空気は、もはや交渉や談論のそれではなく、戦場の前夜に近い冷たく重い鉄の臭気に満ちていた。
ルーベンカーの瞳の奥には、八十年後の未来で見た地獄――業火に包まれる村、血の海に沈む愛する妻の亡骸、そして絶望の中で命を散らす自分自身の無惨な姿が、鮮明な呪いとなって焼き付いていた。
(俺がこの時代の平穏を乱す「火種」だというのなら、その火種を自ら切り離すしかない)
彼は、隣で身を震わせ、今にも崩れ落ちそうなオレリアの肩からそっと手を離した。その指先はわずかに震えていたが、顔を上げた時には、冷徹なまでの静寂を纏った戦士の表情へと変貌していた。
「レラ、男爵。……俺はこの地を離れる」
その一言が落ちた瞬間、部屋の温度が物理的に数度下がったかのような錯覚を周囲に抱かせた。
「俺という明確な標的が辺境から消えれば、中央の矛先は曖昧になる。俺がいない辺境を叩く大義名分を、奴らは持たない。……レラ、男爵。俺の代わりに、オレリアを守ってくれないか」
オレリアは顔面蒼白になり、縋り付くように立ち上がろうとした。
「ルー!何を言っているの……行かないで!私を置いていかないで!」
「すまない、オレリア。別れよう」
ルーベンカーは、あえて心を引き裂くような冷たい声を選んだ。慈悲を捨て、突き放すことこそが、彼女に届こうとする無数の刃を遠ざける唯一の術だと信じて。
「俺との縁を完全に切り、お前がただの『無知な被害者』になれば、教会の狂信者も王宮の役人も、お前を追う理由はなくなるはずだ。それが一番安全なんだ」
「ルーベンカー、君……本気か」
男爵がその覚悟の重さに息を呑み、静かに、しかし重々しく尋ねた。
「どこへ行くつもりだ。この広大な大陸に、君が安らげる場所などもう残っていないぞ」
「俺は、開拓民になる前はただの戦士だった。……いや、勇者という名の怪物を狩るために魔王の手で鍛え上げられた、ただの殺人機械だった。もう一度、あの頃の、血を啜る戦士に戻るだけだ」
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攻勢防御――狩人の帰還
レラ・ゾディアックは、男の決意を試すように、その燃えるような黄金色の瞳を細めた。
「ただ逃げ隠れして、どこかの洞窟で震えているだけなら、私のゾディアックの面子が立たないわ。この事態を引き起こした責任、お前はどう取るつもりなの?」
ルーベンカーは窓の外、王都へと続く果てしない街道の先を、まるで千里眼で敵の動きを捉えているかのように凝視しながら答えた。
「男爵、王国軍は止められるか。俺が消えたと公に分かれば、彼らは軍を引くか」
「……ああ、引くだろうな。大義名分を失ったまま居座れば、今度は私の領軍が『王命なき侵略』として彼らを追い返す法的口実ができる。軍の目的はあくまで、禁忌の技術を持つ君の身柄だからな」
「なら、残る問題は研究所と教会の『暗部』だ。……レラ、奴らは俺の首と技術を、是が非でも、泥を啜ってでも奪いに来るな?」
「ええ。既に王都の門を出撃したという報告が入っているわ。彼らは表の軍とは違う。夜の闇に同化し、目的を果たすまで決して止まらない飢えた猟犬よ。一度放たれれば、死体を確認するまで帰らない」
ルーベンカーは小さく頷き、腰に下げた、数多の魔生物を葬ってきた鉈剣の柄に手を置いた。その瞬間、彼の全身から立ち上る魔那の質が劇的に変質した。穏やかな「郷の冒険者」としての皮が完全に剥がれ落ち、未来で人類最強の勇者たちを戦慄させた「戦士」としての凄絶な殺気が剥き出しになる。
「……なら、俺が出向く。逃げるのではなく、俺から奴らの懐へ、その喉笛へと飛び込み、全てを殲滅する」
レラとオレリアの声が、悲鳴のように重なった。
「お前、正気なの!?暗部を一人で相手にするというの!?」
「あなた、そんなこと……死にに行くようなものだわ!」
しかし、ルーベンカーの眼差しは微塵も揺らがなかった。それは、既に数多の死線を超えてきた者だけが持つ、絶対的な虚無と確信。
「分かっている。……俺には、そのための力がある。あいつらの想定を遥かに超える、未来の絶望を教えてやる」
彼はオレリアの前に跪き、涙で汚れ、震える彼女の頬を親指で優しく拭った。そして、愛おしさを噛みしめるように、まだ目立たぬ彼女の腹部にそっと触れた。
「泣かないでくれ。お腹の娘に障る。……暗部を全て屠り、歴史の裏側に姿を隠す。そしていつか、必ず、世界が俺のことを忘れた頃に生きて戻ってくる。それまで、待っていてくれるか、オレリア」
「あなた……ルー……嫌よ、行かないで……!」
オレリアは言葉にならず、ただ夫の胸に顔を埋めて、その服を破れんばかりに掴み、泣きじゃくった。
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影の誓約
レラはその凄まじい決意――未来から来た者だけが持ちうる、確信に満ちた死の予感と勝利への冷徹な計算――に、重い、重い溜息を吐き出した。
「はぁ……。本当に、やるんだな?嘘ではないんだな?」
「成して、必ず帰ってくる。約束だ」
「いいわ。なら、ゾディアックも総力を挙げてお前を支援するわ。……聞いているか、影ども!」
(はっ)
どこからともなく、低く、しかし剃刀のように鋭い意思が部屋に響き渡った。オレリアが驚いて周囲を見回すが、誰もいない。ゾディアックの特級隠密部隊は、最初からこの部屋のあらゆる「死角」に溶け込み、主の命を待っていたのだ。
「王立研究所、そして教会の暗部の動きをすべてルーベンカーに流しなさい!奴が戦場を選ぶのではない、奴が歩く場所そのものが戦場になる。奴の進む先に、死と敵の情報を敷き詰めろ!」
(御意!)
気配が霧のように消え、領都の闇へと散っていく。
男爵もまた、立ち上がり、己の家門の盾を背負う覚悟で力強く宣言した。
「オレリア母娘は、このラブラス男爵が預かる。我が家門の誇りと名にかけて、誰一人、指一本触れさせはしない。君が外で孤独に戦っている間、この領地は彼女たちの揺るぎない揺り籠であり続ける」
ルーベンカーは、その言葉に深く、戦士としての礼を捧げた。
「……恩に切る、男爵」
彼は最後に、もう一度だけオレリアを強く抱きしめた。その温もり、その鼓動、彼女が放つ命の香りを心臓に深く刻みつけ、二度と繰り返さぬ悲劇への唯一の糧とする。
「オレリア、重ねてすまない。……元気な、世界で一番幸せな娘を産んでくれ」
「ルー!ルー!!」
彼女が叫び、必死に手を伸ばす中、ルーベンカーは振り返ることなく扉を開けた。
バタン、と静かに閉まったその音は、彼が「人間」としてのささやかな平穏を完全に捨て去り、再び「孤独な牙」へと戻った合図であった。
崩れ落ちるように泣き伏すオレリアを、レラが強く、折れんばかりの力で抱きしめる。
「……泣きなさい。今は泣いていい。でも、あいつが帰ってきたとき、最高に綺麗な笑顔で迎えてあげなきゃいけないんだから。……私たちも戦うわよ、オレリア。あいつが命を懸けて守ったものを、絶対に失わせないために」
レラの目にも、僅かな、しかし確かな、盟友への涙が滲んでいた。
この日、南部辺境の「英雄」は歴史の表舞台から忽然と姿を消し、中央へと逆流する一筋の「死神」が誕生した。
オース大陸の歴史は、ルーベンカーという一個人の、愛に基づいたあまりにも巨大な暴威によって、誰も予期せぬ、そして修正不能な方向へと激しく歪み始める。




